八章《二節 穏やかなる日》3
「悪いが、ロゼ。……もう一度聞いてもらえないか?」
いつか、荒れた潮騒の横で問われた質問。それをもう一度、とオルグレンは願った。
照りつける陽射しの中でも、影の中は心地良い静けさがある。
大河を渡る風が、穏やかに髪を撫でていく。
少年は首を傾げていた。意図が分からなかったのだろう。
だが、
「……私は、流れ人のロゼと言うよ」
口を開き、ロゼがオルグレンの願いに応えてくれる。
そして――
「君は?」
ロゼが問う。
かつてそう聞かれた時、オルグレンはすぐには答えられなかった。しばし黙り、戸惑いの中で言ったのだ。
――たぶん、オルグレンだ。
曖昧にそう名乗った。
しかし、今のオルグレンははっきりと答えることができる。
だから、彼は名乗った。
「俺の名は、オルグレン・サイラス・レヴァニール」
ロゼが目を丸くする。
その珍しい表情を見ながら、オルグレンは続けた。
「――それが、俺の名だ」
敵がそう呼び、それを間違いなく自分の名だと感じたのだ、と続けて。
ロゼが、何か言おうとしたらしい。
だが、ぐっと呻いて咳く。口の中に残っていた甘い果汁と言葉が、喉の辺りで詰まったらしく噎せている。
オルグレンはその背を擦ってやるわけにもいかず、一方で満足感を覚えて笑った。いつも飄々とした調子の白い流れ人を、ここまで驚かせられたのだ。
しかし、それもつかの間だった。
白い手がオルグレンの手を掴む。
「おめで、とう……!」
どうにか、といった調子でロゼが言う。咳が治まってからでいいものを、彼はそう告げてくれたのだ。
「ありがとう。……お前に伝えたかった」
オルグレンは素直に言った。
名前が分かったとて、何かがすぐに変わる訳では無い。だが、家名がわかったことで記憶を……帰るべき場所を、探す手立てが少し増えたことに間違いはない。
存命か、それ以外かは分からないが……、己にも家族が居るのだとオルグレンには思えた。
自身が確かに何処かに生きていた人間だという、実感。確かに居る人間だと思える安定の心地。
そして、何よりも。
自身の名前さえ曖昧な存在に、今日ここまで友人という居場所をくれた人であり、ここまでオルグレンを守り導いてくれた人――ロゼに伝えられたこと。
それが彼には嬉しく思えた。
オルグレンは、今でもはっきりと覚えている。
ルキフの街でのことだ。
あの時、友人になってくれないかい?と言った、ロゼの問いかけに初めは、戸惑うしかなかった。
今にしても、唐突な言葉だったとは思う。
それでも、オルグレンはあれで……、あの言葉を切っ掛けに、何も持たぬ自身でも、居ていい場所があるのだと感じることができたのだ。
ただ帰らなければならないと言う、漠然とした焦りの中。
そして、理由も分からず、他者に追い立てられる中。
何も分からないと言う暗闇の中。
その中で、あの言葉は紛れもない救いだった。
「感謝している、ロゼ。――どうか、これからも……この先も、よろしく頼む」
オルグレンは、そう、しっかりと伝えた。
うん、と頷くロゼの綻んだ顔。
もう一度誓い合うように、手を握り合い――……
しかし、離そうと思うころには手が張り付いていた。
甘い果汁で手が、握手が離れない。
振っても離れず、剥がそうとすると皮膚が引っ張られる。
「……どうしよう」
「どうするかな……」
ロゼが珍しく困るだけのことを呟き、オルグレンも唸った。
力を入れれば剥がせなくはないものの、なんともな有様に陥り――
そして、二人で共に笑った。




