八章《二節 穏やかなる日》2
「ロゼ、どこだ」
どこか野良猫を探すような心境で、再度声を出す。
すると、だった。
薪小屋の方から顔が覗く。様子を見るように瞬きが行われ、それからようやく薪小屋から半身が出される。
庇の下で休んでいたらしい。
「やあ、オルグレン」
オルグレンが近づくと、ロゼがその影に座り直した。
上着を脱いだ、薄着の姿。
休憩をしていた様子で、傍らには彼自身のものである、白い鞘の半曲刀が置いてある。それを持ち、体を動かしていたと察するのは簡単だ。
息に大きな乱れはないが、ロゼの額にはまだ汗が浮かんでいる。
「無理をするなと、言われていなかったか?」
オルグレンは言った。
「無理ではないよ。私の傷は軽かったから」
唇を尖らせたような口調で、ロゼが首を振る。
その様子に、軽いようには見えなかったが……と言い掛け、オルグレンは取り止めた。
少年が、鼻先を上げるようにしたからだ。空気を嗅ぐような仕草に、ちょっとした愛嬌が覗く。
代わりに横へと腰を下ろし、麻袋を取り出す。
そしてオルグレンはロゼへと向けて、手に取った中身を向けた。
お前が嗅ぎつけた匂いはこれだろうと、言葉の代わりに顔の前に出してやる。
「セラーフィナからだ」
先ほどの河の賢者からの頂き物は、平桃だった。それが二つ。虫を寄せそうなほど、甘い香りが広がり、細かな毛茸に覆われた深い赤は、色からして熟れているのがよくわかる。緩く握れば、果肉は既に柔らかい。
ロゼが腰の革帯から、小刀を取り出した。そのいそいそとした少し焦るような動きは、丁度小腹が空く頃合いだからか。
体を動かしていたとあれば、なおのことに違いない。
少年は小さな刃物を取り出し、……そして柄をオルグレンへと向ける。
自身へと向けられたそれに、オルグレンは意図を察した。知った上で、ロゼと目を見合わせる。
意地悪な心が擽られての行動だ。
そうであったが……、悪戯は長く保たなかった。
思わず緩い苦笑が浮かぶ。笑みながら、オルグレンは小刀を受け取った。
水面のように輝く目に見られては、たまらない。
仕方なしと息を吐き、小刀を受け取って平桃へと向ける。
よく熟した果皮は、少し切れ目を入れれば、手でもするりと剥けた。
そうして、オルグレンが皮をむく最中、
「ああ、そうだ。ウルローグから返事が来ていたよ」
セラーフィナの侍女さんが届けてくれた、とロゼが近くに置いた上着から紙片を取り出してきた。
近況を知らせるべく鳩便に頼んだ手紙のことだ。
気づかれない可能性もあったが、ウルローグの方が気をつけてくれていたらしい。
伝書鳩の手紙は小さい。ロゼが向ける紙面には、恐らくウルローグが書いたと見える、小さな文字がある。
文面は簡潔だった。
『無事で何より。我ら北方に移動。皆息災なり。我らが友よ、よき旅路を』
途端、だった。オルグレンの胸に訪れたのは寂寥の思いだ。
傭兵団『猛りの尖兵』との契約が終了したとロゼから聞かされていた言葉が実感を伴い、物悲しさが胸に迫る。
親しく感じた傭兵団との日々も、アディーシェの地を駆けたことも、全てが終わったのだ。
最中は、西に渡れないことに焦れていたが、思い返せば一昼夜の如く短いようにオルグレンには思えた。
そして、手紙には続きがあった。
裏面に一文。
『メーヴはキャリオル卿のご友人へ預けられたし』
メーヴのことは、『猛りの尖兵』にいた頃からよく相談していたこと。かの賢馬は傭兵団の元へやる、と。
つまり手紙は『猛りの尖兵』の雇い主であるキャリオルの縁を頼って、傭兵団へ届けてほしいと、その手はずが整ったことを伝えてきている。
オルグレンも、メーヴと別れたくはない。
それでも、食物に水……、何が起こるかわからない旅路に際し、馬の維持がとても難しいのは事実だった。これから西への旅路には、メーヴを連れてはいけない。
だから、返すことにしていたが……やはり感情は湧いてきた。
そして、思う。
早く身体を治し、メーヴへ最後に丁寧に世話をしたい。お礼をしたい、と。
そうと考えれば、余計に別れへの感情が胸にしみる。
「ね、ねえ。オルグレン」
ロゼが唐突に言った。
声を発したものの、一瞬少年が黙る。
「今、……ウルローグは国境の辺りにいるんだろうね。特に戦いがなさそうなら、彼女たちは移動だろうから」
ややあって続いたロゼの言葉は、話すことを変えるような、そんな空気があった。気遣ってくれてのものだろう。そうとわかり、オルグレンは頷いた。
「……クゼリュスとアディーシェの講和会談次第だな」
一息をついてから応じる。
結局のところ、あの最後の日の戦況は、二人にはわからない。
間近で起こったこととはいえ、民の口に上がるのは誇張や嘘、噂が混じっている。少し聞こえるだけでも、不正確な伝え聞きに尾とひれを各自付け足しているような内容だった。
まだ国に仕える者に話をできれば、もう少し精度のある話を聞けると思われるが、庵に訪れる立場の者はそういった類ではない。
しかし、アディーシェの優位には終わっていないはずだ。
そうと考えつつ、オルグレンは剥いた平桃に小刀の刃を入れた。
柔らかな白い果肉を削ぐ。
刃に果肉を乗せたまま差し出せば、手袋を外した白い手が飛びつくように摘んでいった。
そのまま口に運んだロゼが咀嚼する。たちまちに、白い流れ人は目を瞬かせた。
「旨いか?」
聞くと首肯が返る。
それで、オルグレンは少し大きめに果肉を削いで、もう一度ロゼに差し出した。
少年は表情を緩めて摘み、口に運ぶ。その様は、セラーフィナの淡々とした食事とは違う。
それをオルグレンは、静かに横目で見た。白い流れ人は精霊母――ひいては始まりの種族と何らかの縁を持つが、彼らとは異なるのだ。
「……食べないのかい?」
問われてオルグレンは、はっとした心地になった。
少し苦いものを混じらせながらも笑み、平桃の実を削ぐ。
口に運び、噛むと瞬く間に果汁が唇にまで溢れた。こぼれんばかりの甘い瑞々しい香りが喉までを満たす。果肉は歯ごたえを残しつつも、とても柔らかかった。
「旨いな」
口の中のものを飲み込んでから、オルグレンは思わず言った。
ロゼが笑う。残りをまた二人で分け合い、すぐに二つ目の実にも手を伸ばす。
そうして平桃二つの姿がなくなるまで、あっという間。
「そういえば……、だ」
終わりに、オルグレンは口を開いた。
甘い果汁で手首まで濡れてしまった手が、服に触れないよう気をつけながら、小刀を丁寧に下へ置く。
桃の最後の一切れを口にしたままのロゼが、ん、と喉だけで返事を返した。
「悪いが、ロゼ。……もう一度聞いてもらえないか?」




