八章《二節 穏やかなる日》1
セラーフィナとの対話が終わった後、オルグレンは泥に沈んだように眠った。
うっすらと目が覚めはするものの、瞼が重くそのまま閉じ、すぐ意識が落ちる。
合間に、ロゼの世話になったことは憶えているが、それもひどく曖昧なものだ。
「人の身で、精霊母の力を受けたせいでしょう」
恐らくは、傷の修復と言う急激な変化の影響。よく眠り魂を癒し、身が慣れれば落ち着くはずと、見立てた精霊母セラーフィナの言葉の通りに眠りに身を委ねる。
そうして、どうしようもなく眠り続け――
そこからオルグレンがまともに起き上がれるまで、更にそこから身動きできるまでには日にちを要した。
足に負ったはずの傷はうたかたの夢のように傷跡さえないものの、そこからも元通りとはいかない。
血が足りなかった。
しかし、ゆっくりとした動作であれば動けるようには回復しつつある。
まだ元の通りには動けない。
それでも普通に傷が癒えるのを待つよりも、これは格段に速いことは間違いがなかった。
死んでいてもおかしくはなかった手傷を負いながら、既にもう動けるのだ。
一つ作業を終える。
手にした羽根筆をオルグレンは、ゆっくり置いた。
寝てばかりもいられず、やっているのはセラーフィナの手伝いだ。
彼女の庵で世話になる間、彼は役割をもらっていた。今の状態でもこなせるような負荷のないこと。
そうして携わるのが、セラーフィナの書く書面の複製。河の賢者の知恵の書物を増やすには、こうして誰かが書き写す以外にない。
オルグレンは字が書け、読むこともできる。少々集中力は必要であるものの、これはうってつけの作業だった。
加えて……静かに紙に向かうことは、心を落ち着かせるのに都合が良かった。
寧ろ、心を落ち着けなければ字が乱れる。
大橋を渡ったにも拘らずの足止めへの苛立ち。それに囚われがちな神経も、心を凪がせて紙に向かえば、少しは気が紛れた。
お陰で、だった。
穏やかな日々を感じる――
ふと、風に誘われた心地になり、オルグレンは目を上げた。
窓布を揺らし風が、滔々たる大河から抜けてくる。
その外側では、空の真上から照り付けるようになった陽が景色を輝かせていた。
その陽射しを耐えている石畳や、土、屋根などの焼けた熱気のにおいが届く。
窓布に誘われるがまま外を見れば、一枚の絵のような景色だった。
セラーフィナの庵は、タロト西岸街の高台の上にある。
このために窓から望むのは、滔々たる大河の雄大な流れと、大橋と街並み。
目を惹くタロトの大橋は、混乱の最中のまま。
街が解放され数日たった今も、往来が混濁している。東岸街へ戻ろうとする者、西岸街へ戻ろうとする者、そして中洲街を守っていた軍の動きが濁流のように混じり合っていた。
クゼリュスの敗残兵や、混乱に乗じて街を荒らそうとする輩を捉え阻む為の検問が往来の栓となり、三日三晩より長く橋の上で過ごすことになるのではないかというほど、列が動かない。
だが、そこにあるだろう喧騒も、なにも庵には届かなかった。
「終わられたのですね」
声が掛かり、オルグレンはゆっくり振り返った。あまり急に動けば、まだ目が回るのだ。
オルグレンが、はいと答える合間に、まだ黒墨の乾いていない紙面をセラーフィナがそっと覗く。
「今日はここまでで十分です。身体を休めて下さい」
そう言う彼女が書面を確認するでもなく、別の動きを取った。
「こちらを」
涼やかな声と共に、セラーフィナが袋を卓上に置く。
小さな麻の袋だ。オルグレンはそれに目を落とし、次にセラーフィナを伺った。
袋の中で姿は見えずとも、中身が香る。
熟れた甘酸っぱい香りが、夏風の中にとろけた。
果実、そうと察しながら問う。
「これは……?」
「農家よりいただきましたが、……わたくし達は人のようには食べませんので」
セラーフィナが答えた。
それは、オルグレンがここ数日の生活で知ったことだ。
言った言葉の通り。
始まりの種族――彼女達にとって、必要な食べ物はごく少量。それ以外は必要だから食べるのではなく、侍女や他人などに人と見せかける為に食べている。
数日前、……疲れ切っていたロゼを眠らせたように、人の心を導いて誤魔化す術を心得ているというが、極力使用をしないよう彼女達は人を装っているのだという。
味覚はほとんどなく、食事自体を楽しむ感覚もないらしい。
ただ黙々と口に運ぶ様は、少し物悲しくもあった。
「なら、……ありがたく頂きます」
オルグレンは、頷いて立ち上がった。
立ち上がると、まだ目眩を覚える。
体がまだ鈍い。それでも日一日とよくなってきていることは確かだった。
ご無理をなさいませんようと、言うセラーフィナに頭を下げ、オルグレンは歩き出した。
そうして、早速と始めるのは人探しだ。
ロゼは……と庵の中を歩き、先ず覗くのは書庫。
狭い室内に、セラーフィナが集めたという、様々な本が積まれ、或いは棚に立ち並ぶ一室には、虫よけの匂いが薄く漂う。
オルグレンはそこを見やり薄暗い部屋に、小さく息をこぼした。
ロゼが寝床として使っている、一人用の腰掛け。
そこに足を小さく折りたたんで座り、本に食い入るように、読み耽る姿は今はない。
ただ無人の虚しさだけがある。
庵にはいない、そうと察しオルグレンは外へと出た。
しかし、だった。景色が揺れる。玄関に立ち陽射しを直に浴び彼は、壁に支えを求めた。
外界の刺激に体がついてこない。
やはりまだか、と胸中だけでぼやく。
それでも、少しすれば陽射しにも慣れ、オルグレンは白い姿を探した。
片手で目の上に庇を作り、辺りを透かし見る。
「ロゼ」
呼びかけるが、見える範囲に姿はない。
だが、さほど遠くにいないことをオルグレンは知っていた。
タロトの大橋を渡った際に、それぞれに負った手傷。
オルグレンの足の矢傷をはじめ、ロゼが肩に負った傷、打撲……いずれも軽くはなく、ともすれば命を失っていてもおかしくはないものだった。
精霊母――セラーフィナの力により、傷は癒されたが彼女の力は重大な秘匿だ。
万が一にも奇怪に思われぬよう、しばらく敷地の外へは出ないように願われている。
ロゼがその約束を破ることはない。
オルグレンは庵の裏手へと回った。
探す姿は、庵の影にいそうでもあり、屋根か庭木の枝葉の上にもいそうでもある。
「ロゼ、どこだ」




