八章《一節 母なる者》3
「失礼ながら問わせて頂く、何故……」
ロゼが差し出す対価を利用しようとは思わなかったのか。
オルグレンはそう口に出した。
「正直に申し上げれば、この子が差し出そうとする対価は、わたくし達が……いえ、始まりの種族の生き残り全てが、切望するものでありました。心惹かれ、得たいものでありました」
静かに語るが、セラーフィナの言葉には切実なものが浮かぶ。
だが、しかし、と彼女は己の胸に、白い手を当てる。
「わたくし達は精霊母――全ての者の母。わたくしも、シルユーノも、子の健やかなるを願っております」
その言葉はあまりにも穏やかだった。包むように、満ちるように、癒すような言葉。
それを聞き、
「不躾な問いを……、そして無礼な態度を、取りました。申し訳ない」
頭を下げられるのならば、オルグレンは下げてしまいたかった。
とはいえ、身体は重く、さほども動かない。
セラーフィナが、ゆるゆると首を振る。
「では、本題へと参りましょう」
そう言い、セラーフィナが近づく。オルグレンは身構える事なくそれを見た。
静かに歩み、近づいた彼女が、そっと自身の袖を押さえる。
そしてたおやかな仕草で、ロゼの横髪を梳く。そこにあるのは、ロゼの頭に抹額のように巻かれた布だ。
横髪が梳いて流され、それが少年の耳を覆うものであったことが晒される。
更に、その布が退けられ、当て布も剥がされ……、オルグレンは眉をしかめた。
ロゼの耳が千切れている。
止血や洗浄などは終えた様子だが、まだ真新しい傷跡で、耳の形が半分ほどなくなっていた。
セラーフィナが、動く。
彼女は、元あったはずの輪郭をなぞる様に指で撫でた。
オルグレンの目に映ったのは、揺らぎだ。そして、その揺らぎは僅かに明るさを帯びる。
蝋燭の灯の様な、わずかな暖かさを感じさせる光がじんわりと灯り、やがて消えた。
そうしてセラーフィナの手が去った後――
オルグレンは息を呑んで見つめた。
怪我を負っていた事を見ていなければ、何が起こったのかさえ分からなかっただろう。
ロゼの欠けていた耳が、元へと戻っている。
「神より、わたくし達が賜った力がこれです」
その、奇跡としか言いようのない技に、オルグレンは言葉が消えた。
なんと言い表せばいいのかわからない。ただ、声が出ない。
無残な有様となっていた耳が、何事もない元の姿形に戻っている……。それは、時が経ち歪ながらも肉が戻り、皮膚が張り塞がったというものではない。時が逆さに戻ったような奇跡……、まさしく御業だった。
離れた者と繋がるという在り様も、癒しの力も、今の人間が欲してやまないものだ。
それがあれば、幾多の戦況が覆る……今朝の出来事がまるで違う結果を得たことは言うまでもない。
戦争ならずとも、多くの悲劇から救われることになるはずだ。生活による怪我だけではなく、瘴禍によって奪われた手足を取り戻したいと願う者は幾らでもいる。
だが、オルグレンはそれを振り払うように目を閉じた。己の心を凪がせ、落ち着き直してセラーフィナを見る。
彼らは、自ら明かしていないのだ。それを今、オルグレンの前に明かした意味……
「――他言は、決してしません」
そう告げると、河の賢者が目元を笑ませる。
「貴方は、この子の言う通りのお方ですね」
ですから、とセラーフィナが続ける。
「あなたの足を癒しております。ただ失われた血の全ては戻しておりませんし、わたくしの力では体力までは戻せません。……しばらくの休息が必要です」
人の身で関わるはずのない力に深く触れすぎ、障りがあってはいけませんので、と彼女は続けた。
そうして一通りを言い終わったらしく、セラーフィナが長く吐息をする。
その重いような吐息の様子を、オルグレンは見た。
確かな疲労の色がある。
彼女の方も、オルグレンが気づいたのを察したらしい。
「……お見苦しい所を。なにぶん久方ぶりのことでしたので、いささか身に堪えたようです」
よく見れば、窓から差し込む暖色を帯びた光に照らされてなお、白い肌はどことなく青白い。
警戒と、会話の内容に気を取られ、気づけなかったそれにオルグレンは恥じ入った。
ふっと、もう一度息をしてから微笑み、彼女が視線を落とす。
「……この子と、少し話をしましたが」
考えるように彼女は、ロゼの髪を優しく梳いた。愛し子を慈しむような手つきで。
ゆっくりとセラーフィナが言う。
「……この子は、あなたにわたくし達の素性を明かすのをよしとしていないようです」
気を失っている間に、何らかの対話があったと見えるその言葉。
オルグレンは小さく胸の中が跳ねるのを感じた。そして僅かに痛みを覚える。
セラーフィナの言葉が続く。
「それでも、わたくしはあなたにお伝えしておくべきと考えました」
この辺りが恐らく、彼女がロゼを眠らせるという行いに及んだ理由なのだ。
オルグレンはそうと察した。
「西の河の賢者、精霊母が一人、セラーフィナ。あなたに感謝する」
そして、率直に思いを口にする。
ロゼは、何も話してくれない。
故に、彼女がこうして口にしてくれていなければ、オルグレンは識ることもなく過ごしてしまったかもしれない。
それを恐ろしく思った。
「構いません、わたくし達はあなた方が健やかなることを祈ります」
さて、人を寄こしましょう、と。
この子も休ませねば、とセラーフィナが、眠ったまま大人しいロゼの頬を撫でた。
それはあたたかい瞳だったが、彼女は一度伏せるように閉じる。
「……迷いましたが、もう一つ告げておきましょう」
彼女は、もう一度静かに唇を開いた。
杞憂であればいいのですが――と、薄い唇が言葉を紡ぐ。




