八章《一節 母なる者》1
オルグレンは、見ているものを夢だと自覚した。
目に映る景色は、霧の中のように全てが白い。
そして、凍えるように寒い。
その中に、点々と赤だけが落ちている。その唯一の色彩は、血痕。
どこかへの道しるべのように続く赤を追い、オルグレンの足は動いていた。
しかし、心では真逆のことを思う。
行きたくない。その先に。
思いとは裏腹に、足は進んでいく。それを止めようと、オルグレンは腕を伸ばした。
何かに掴まって、留まろうと。
縋る先を求めるオルグレンの腕には、強い感触があった。
誰かが、手首を握っている。
認識すれば、それはまるで手を引き導いてくれるかのように思え、夢から覚めていく。
そして、意識だけが先に目覚めた。
先ず分かったのは、香の匂いだ。
スッと透き通るような、それでいて安らぐような、静かな香りが心地いい。
その清廉なものさえ感じる空気の中で、オルグレンは小さく唸った。
体が苦しく、重い。抗おうにもすべてが地の底に引きずり込まれていくような、感覚がある。
四肢のすべてが重石のようで、持ち上げる気力が湧かない。
瞼さえ縫い付けられている……そんな錯覚がある。それでもどうにか開き――しかし、焦点が合わず一度強く瞬きをした。
そうして、先ず見えたのは白髪だ。どこかに傷を負ったのか、髪に紛れて頭へと抹額のように布が巻かれている。
当の本人は、オルグレンの身動きに感づいてだろう。
「……やあ、オルグレン」
ロゼが猫の鳴くような声であいさつをする。
「……ロゼ」
耳に馴染んだ柔らかな声に、オルグレンは緩く息を吐いた。そうしながら揺蕩うように視線だけを動かす。
やがて彼は自身が寝台に寝かされていることを理解した。
ロゼは丁度その寝台の横にいる格好だ。
ゆっくりと息を吐く少年が、そっと手を動かした。その温かさが腕から離れていき、オルグレンは気づいた。手首を掴んでいてくれたのは彼だったのだ。
命が廻っていることを確認し続けてくれていた。そうと感じる圧迫感の余韻がある。
その少年は、常の黒い旅装束ではなく、白くゆったりとした襯衣の姿だ。
その襟口からはさらしが覗いており、顔色は普段の白よりも青白く、疲労の色が濃い。
「ロゼ、……どうなったんだ?」
オルグレンは聞いた。
ベイセルから逃れ、広く長大なタロトの大橋を駆け抜けた記憶はある。
滝のような汗を流しつつも、駆けてくれたメーヴの息遣いも憶えている。
そうしてタロト中洲街の門へとたどり着き――そこからだ。
彼の記憶はそこからが曖昧だった。
「中洲街の門で伝令をしてた時、君は倒れたのだよ」
馬から降りた後、崩れるようにね、とロゼが言う。
「血を流し過ぎたのだろうね。……とても心臓に悪かった」
「……すまなかった」
オルグレンは素直に謝った。
「――君が生きていて、良かったよ」
ロゼが静かに言う。言いながら、少年は唇に弧を浮かべる。
オルグレンにとって聞き覚え――いや、言った覚えのある言葉だ。
本当に心の底から言った一言が、今返されオルグレンは頬を緩めた。
「ともかく……キャリオル卿の書状が、私たちの身元を証明してくれてね」
タロト中州街へと入れてもらうことに成功したこと、更に負傷していたことから西岸街の方へと送られたのだと、ロゼが話す。
そして、まだその日の夕前なのだ、と。
しかし、とオルグレンは思う。
「……ここはどこだ?」
言いながら、彼はもう一度目だけで室内を見渡した。
寝台と、ロゼが座る椅子、他には棚があるだけの小さな部屋だ。
戸板が開け放たれた窓からは、ゆるやかな風と夕方の橙を宿した明るさが入ってきている。
オルグレンが寝かされている部屋には、静けさがあった。
そして、雑踏は特に感じられず……アディーシェでの数々の戦闘の際に訪れた治療所とは、様相が違っている。
しばらく戦を行っていた場所の治療施設ならばあるはずの、呻きも、叫びも、血と汚物の匂いもなかった。
目覚めたときにも感じた、澄んだ香の匂いがあるだけだ。
「……河の賢者の庵だよ。西側の、だね」
私が頼んだ、とロゼが言う。
その言葉に、オルグレンは瞬きした。
ロゼが東側の河の賢者――シルユーノと出会い調子を崩したのは、まだ記憶に新しい。
対岸の西側の河の賢者がどういった人物であるか、オルグレンは知らない。
それでもシルユーノと共に橋の修繕の知識を授けたと言われる人物なのだ。であれば、近しい存在である可能性が高い。
再び何らかの出来事があるのではないか……オルグレンの胸にはそんな危惧が迫った。
「……」
ロゼの方は、少しだけ眉を寄せた表情をする。
それは一体、どのような意味なのか。
オルグレンは問おうとした。
その瞬間に、彼はまた隠世の揺らぎを見た。水のように染み渡る揺らぎが、部屋の扉から音のない波として満ちる。
そして、さざ波として忍び寄り、ロゼへと触れた。
とたん、だ。
少年がふらりと体勢を崩す。そしてオルグレンが横になる寝台へと手をついた。
「ロゼ……?」
オルグレンは問いかけた。
ロゼは答えない。しかし、呼びかけられたことは認識したらしい。
顔が向く。いや、向けようとし……そのまま、ぐらりと小柄な上体が揺らいだ。敷布の上に伏せる。
寝台の上に倒れ込み、後は静かな呼吸が続くだけだ。
オルグレンはどうにか首を起こした。そうしてのぞき込む少年の双眸は、閉じられている。
まるで抗えない眠りに捕らえられ、急に意識が落ちた。そんな有様だ。




