七章《五節 死の記憶》2
後は、幸いにしてというべきか。
未明からの動きによって固く守るべきこの門には、判断を行うべき者――守護の将が居るらしい。
そこからの開門の動きは、多少は早いと言えるのかもしれない。
ロゼには到底そう思えなかったが。
大きく軋む音を立て、傷だらけの重い門が押し開かれる。
薄く開くや、ロゼは門の隙間を潜った。
あ、と声を上げる兵もいた。反応の速い者が鋼に手を掛けたが、構う気などない。
他より立派な鉄鎧を身に着けた男。
その豊かな顎髭を蓄えた将が、守護の将だと目星をつける。
その人の前に、ロゼは転げ出るようにして飛び出した。
足が思うように動かない。
膝が縺れ、半ば倒れ込むように大きくよろけて、男の前に出る。
「……酷い怪我じゃないか」
キャリオルの書簡を片手にした、その顎髭の将が驚き加減に言う。
それがロゼの耳には、少し遠い声に聞こえた。
顎髭の将を守るべく身構える騎士や兵の姿は、ぼやけている。
ロゼもまた軽傷ではない。弩の傷は手布などで押さえ、辛うじて血を止めていたものの、既に旅装束に染みている。濡れた個所は重く、乾いた個所は硬く肌に刺さった。
身から深く立ち上る鉄錆の匂いがあるはずだが、鼻が麻痺しているのか、あるいは慣れてしまったからか、何も感じられない。
とはいえ、ロゼは髪を揺らして首を振る。
自身のことなどどうでもいいのだ。
「書簡の事なら私がなんでも答える」
顔を上げ、揺らぐような視界の中、ロゼは声を上げた。
「オルグレンが酷い怪我なんだ。お願いだからすぐに治療を!」
顎髭の将へ半ば叫ぶように、そう願う。
言いながら、ロゼは頭の片隅で自覚した。
自分は、まるで子供の駄々のような言い方をしている。
挨拶もしていない。突然前に出た非礼も詫びていない。
それに急に名前を出すよりも、把握しやすいようにもう一人が、などと口にするべきだ。
だが――要領よい説明の筋道を、組み立てられない。
ロゼにはどう話すべきか、既によくわからなくなってきていた。
胸から突き上げてくる感情ばかりが、口にのぼる。
お願いだ。彼を助けてほしい、とそんな言葉ばかりが出た。
詰め寄る最中、肩を引かれる。
不意に、引き戻されたような感覚で、ロゼはその方を見上げた。
オルグレンだ。
メーヴと共に門を抜けてきたらしく、鞍上の青年がロゼの肩にそっと触れてきていた。
落ち着けと言っているような手に、ロゼは忘れていた息をようやく吸う。
しかし――……、メーヴの背から降りた青年の体が揺らいだ。
膝が崩れる。ぐらりとオルグレンの体がそのまま傾ぐ。
姿勢を戻そうとする素振りも何もない。
ロゼは懸命に腕を伸ばした。青年へと。
異変に気付いたらしい周囲の兵や、顎髭の将が驚きのどよめきを発する。
その中で、どうにか彼を支えようと思う。同時、青年が自らの足で立ち直ってくれることを、ロゼは願う。
しかし、動いてくれない。
かろうじてと言った状態で、ロゼはオルグレンの体の重みを受けた。
だが、ロゼもまた手傷を負い、疲労している。当然自身よりも大柄な人間を支えられるはずもない。
ロゼはオルグレンの体にしがみついた。掴み、重みにつぶされるまま石畳へと座り込んだ。
腰などを地面にしたたかに打つ。
左肩はしびれ、自身でもどう動かしているのかわからない。
とはいえ、ロゼにとってそんな痛みや自分のことなど意識の外だ。
力なくもたれ掛かってくる体。その幅の広い背中を彼は強く握りしめた。右手で力のかぎり。青年の体を決して、取りこぼさないように。
だが、オルグレンの体は意思も力も、心も、何もが感じられない。
命の輝きも、温度も、音もない。
ただ重いだけの泥人形。
心音が維持されているのか……ロゼは自身のそれが耳元で鳴り響くせいで、捉えることができなかった。
いつかの凍てついた川の水が、血の代わりに体中を巡る。
その心地がロゼの中を満たした。
生きていてよかったと……、言ってくれたその人が骸と化そうとしている。
その様は抗っていく術を教えてくれたその人が、物になっていった光景によく似ていた。
「……いやだ」
ロゼは呟く。ただの拒否。
底に沈む直前――彼は、唇を噛んだ。
何をしたいか何をするべきか、強い口調で声ではない何かに問われているような気がして、顎髭の将を振り仰ぐ。
「治療を! 私たちはキャリオル卿の遣いだと言っただろう。彼に万が一があったら責任を問われるよ!」
真もあるがそうではないことも多分に含まれる言葉を、ロゼは叫ぶ。
縁があるとはいえキャリオルが雇いの……今はそこからも外れた個人になにかしてくれる義理はない。しかし、その立場のことは伏せ、ロゼは今できる手立てをすべて使おうとした。
同時にそれだけでは足りないとも思っている。
オルグレンの傷は深い。血を失いすぎていることから治療をうけても、このまま……ということが十分にありえた。
またそれを免れても、今どうにか傷を縫うなどで血を止め、傷を塞いでも、幾月も……或いはもう二度と歩けられない可能性もありえる。
自分が、と。ロゼは自身の心に刃を突き立てた。
草の民と呼ぶことで誘導されたと知りながら、陸路を辿ることに頷いたのは……。
解放されたタロトが落ち着くのを待ってからでも渡河できるにも関わらず、早く速くと導いたのは……。
全て、ロゼなのだから。
「河の賢者を、……お願いだ。河の賢者に会わせてほしい!」
オルグレンの体を強く抱き、ロゼは周囲にわめいた。
抱えている体が冷たくなっていくような気さえする。
このことを拒否したい、止めたいと口を開く。
「解放の者が来たと言えば、伝わるから!」
今河の賢者と名乗るその存在が、本当はどういった者であるかロゼだけは知っている。
とはいえ、今はその正体を隠して生きる彼女が、俗世のことに関わりを持ってくれるかはわからない。
それでも、抱えた消えかけの命のために、ロゼは自身で支払える最大の対価を口にした。
自分の事情も、心も、願いも、存在も……。
今のロゼにとっては些末なことだ。
故に、
「あなた達の望みをすべて叶えると、なんでもすると言っていると、河の賢者に伝えて!!」
内心から上がる悲鳴のまま、ロゼはあらん限りの言葉で、そう願った。




