七章《五節 死の記憶》1
霧中の橋を、馬蹄が叩く。
メーヴの息は荒れ果てていた。
首には太く血管が浮き上がり、その体は熱い。肌を撫でる霧が、蒸気かと見まがわんばかり。
馬の機微を解せないロゼであっても、黒鹿毛の馬が相当の無理を重ねてくれていることが感じられた。
もう一方で、ロゼは振り返る。相乗りで手綱を握るオルグレンの体。
それが揺らぎ、ロゼに凭れかかってきていた。
青年が太腿に受けた傷は深く、傷の上を縛り止めているものの、すでに流れ出した血で彼の足も、鐙も、メーヴの体も……その半身が濡れている。
命を流しすぎてしまっているのは、明白だ。
正気付き、すぐにオルグレンが騎乗の姿勢を戻したが、……彼の息は乱れ忙しない。
……その割に浅く、細い。
すぐ後ろから聞こえるそれに、ロゼの脳裏には冷たい水の流れが浮かぶ。
垣間見えるのは、石ばかりが転がった川の景色だ。
そして、降り続く雨のような渓流の音が耳に蘇る。
共に聞こえるのは、サクラスの弱っていく息。
深く臓器を傷つけられたからだから立ち上る、生々しい血肉のにおい……。
身が震えそうになる。
自身もまた多く血を流しているからか……、目の前に暗さばかりが満ちロゼは首を振った。
胸が細くねじ切られるように傷む。
その中でただ、速く、速く、と願う。
タロト中洲街の門が間近に見えたのは、メーヴの疾駆により、長いようで短い間の後だ。
ロゼは大きく息を吸い込んだ。
「伝令!」
中洲街を囲い守る胸壁には、アディーシェ兵の姿形が見える。
メーヴの馬装から、一応は敵ではない可能性を見出された様子。だが、壁には弓を引き絞る姿が見られた。
そこへと向けてロゼは叫ぶ。
「私達はアディーシェ、キャリオル卿の手勢にして傭兵団『猛りの尖兵』の遣い」
言いながらロゼはメーヴの手綱を引いた。
オルグレンの反応が遅れたからだ。鐙での指示のない半端な合図だったがメーヴも疲れ切っていたらしい。
閉じられた門の前辺りで速度が落ち、間延びした歩調となった。
そして、ロゼは更に声を上げる。
「街の護り手たる方にお目通りを願いたい」
言いながら動く。
首を下げる馬とオルグレンの腕から、すり抜けて下馬する。そうして、彼は書状筒を取り出して掲げた。
「緊急の書簡を預かっている! 書状の保護を!」
胸壁の向こう側の面々がざわつく。
クゼリュスの姦計ではないかと、口々に疑うのは当然だ。内側では上役へと報告が挙げられ、相談が行われ始めたに違いない。
どう判断を下すか……、返答を待つ。
待つしかない。それは分かっている。
それでも、ロゼの全身は焦りにざわめき、じっとしていられないような思いだけが体中を駆け巡った。
一息……いや心音の度に、胸の中が削られる。
まだか――。
衝動のままにアディーシェの兵へ大声を発したくなるのを、飲み込んで待つ。
その間に、オルグレンがメーヴを導くのを、ロゼは気配で感じた。
渡ってきた橋を警戒しようと言うのだろう。
言葉を欠かさない彼の、一言も発さない行動。
彼が限界であるのを堪えて、そうしてくれていることが、ロゼの身に辛く刺さる。
こちらの猶予は擦りきれる寸前だと言うのに、門の中の対応は亀の歩みのように遅い。
そうして……ロゼの忍耐が散々に試された後。
鈍い音と共に、門に備え付けられた徒歩門が開く。
途端に、空気が痺れを帯びるのをロゼは感じた。
胸壁の射手の視線が、肌に更に強く突き刺さる。
その中をロゼはただ静かに、徒歩門から出てきた兵へ書状筒を手渡した。
霧を照らす白い陽の中、兵士が書簡を取り出す。
そして、書面に押された封蝋をつぶさに検める。
「キャリオル卿の封蝋! 間違いありません!」
兵士がそう、中へと声を上げた。




