一章《二節 故郷を想う》2
一体己は何者か……、考えるオルグレンの一方で、ロゼが続けた。
「満足に物が運べなくなって、飢えや寒さで兵は死に……暖かくなれば病が流行る」
つまり、エーイーリィは守りを固めていれば、敵の方が自滅してくれるのだと、ロゼが言う。
「……貴方はとても詳しいな。流れ人と言うのは、軍事にも通じているのか?」
年若いロゼの語り方は滑らかだ。
オルグレンは思わず、感嘆の溜息混じりに呟いた。
すると、ロゼが唇に弧を浮かべる。それは、どこか悪戯を思いついたような顔だった。
「君もだね。船人さんというのは、軍事に通じているのかな?」
そうと言われれば、オルグレンには答えがない。
なにせ、わからないのだ。だが、ロゼのからかいは、柔らかく撫でるような調子で、オルグレンは少し苦みを混じらせながらも、思わず笑んだ。
「とにかく、それでエーイーリィは何度も身を守ってきたという訳だよ」
ロゼがそう締めると、船人はそうそう、と何度も頷く。
軍事力ではクゼリュスに劣りながら、彼らは何度もそうして国を守ってきたと船人が言う。だから、きっと今回も大丈夫、と。我々の白き峰々の国は無事のはず。そう言うのが船人たちだ。
「でもまあ、母ちゃん、無事かな……」
彼らが知る祖国の情報は、一月ほど前のものだ。彼らが出港した時期は、南下する適期ではあったそうだが、荒れやすい風に悩まされ、いつもより時間がかかったと言う。
故に、彼らは祖国の今を知らない。
言葉を聞き、オルグレンも胸を炙られているような心地になった。きっとこれは彼らと同じ気持ちなのだろうか、と考える。
とはいえ……オルグレンには、エーイーリィがどのような街なのかさえ思い描けないが。
ままならない気持ちを胸に抱く。それを吐き出すようにオルグレンが吐息を漏らした時、白い流れ人もかすかに似たような息を落とすのを、彼は聞いた。
「ああ、そうだ!」
思いつきの声を、上げたのは船人の一人だ。
「流れ人さんよ。あんた、あちこち渡り歩いてるあんたらなら、何か聞いてるんじゃないか。俺たちの白き峰々のこと!」
そう一人が身を乗り出す。
オルグレンの目の前で、流れ人は少し困ったような顔になった。
「……、んー……」
唸るロゼの代わりに、御者のカマスが口を開く。
「いやいや、残念ですけど……それは難しい話ですよ。エーイーリィからここまでは、山脈のせいでずっとずっと遠い」
カマスの弁は船人にもわかるのか、
「確かに、冬の白き峰々越えれば一直線だが、正気の沙汰じゃねえな」
「ああ、逃亡奴隷だって選ばない道だ」
彼らは共に、それはそうだと、はははと笑う。
悲しいことにオルグレンには分からないが……わからないなりに聞いておこう……、そう思っていれば横から小さな声があった。
「エーイーリィは、気高い山脈に周囲を囲まれたような土地でね。この辺りとエーイーリィの間にも、立派な白き山脈があるのだよ。夏にも溶けない氷と雪があって、風が吹き荒れて。本当にきれいだったけど、酷いところで……、普通は通ろうなんて考える場所じゃないんだ」
「……そういうことか」
そっと説明するロゼに、オルグレンは頷いた。
そうしながら心の中だけで彼は、ああ……と感嘆ともため息とも分からぬ声を漏らした。
今までの会話、彼の表情と、まるで白い峰を見てきたような先ほどの言葉、わずかな引っ掛かりを覚えたそれらロゼの様子。
彼は、何か知っていることを伏せている。それはつまり、……エーイーリィは、クゼリュスから自らを守り切る事が出来なかった、という事か。
オルグレンは、ロゼを見た。
彼は視線に気づいたらしく、少し首を傾げるようにする。
「――流れ人のロゼ、感謝する」
オルグレンは一言だけ言った。船人達に追い打ちをかけないように気遣ってくれていることに謝辞を告げる。
流れ人が、薄紅の目を少し驚き加減に開く。
オルグレンが使った少し大仰な言葉で、彼は自分の失態に気づいたようだった。
「……すまないね」
彼の小さな謝罪は、正直に伝えなくて申し訳ない、といったところか。
――誰が彼を責められようか、とオルグレンは思う。
一方で、オルグレンは自身の内心では、小さくため息を吐いた。白い流れ人が伏せてくれた真実に感づきながらも、オルグレンはあまり動揺を感じなかった。無論、悲しさや船人たちへの同情はある。
だが、自分が住んでいた場所かもしれない所が、むごい目にあっているというのに、取り乱すような感情の揺れは沸いてこなかったのだ。これは記憶がないせいなのか、ただ自身が薄情ということなのか……。
オルグレンは胸に重さを抱いた。
その横で、ロゼがふわりと動く。
人より鈍い牛を追い越し、少し丘になった道を上っていく。彼の一つに束ねた、白く長い後ろ髪が、風に揺れている。
風を追いオルグレンが顔を上げれば、今日は空が高いように感じられる、青空だった。
わずかに暖かさを含んだ風と、降り注ぐ陽射しがある。明るいとはいいことだった。瘴気も魔物も、光りを嫌うのだ。
ロゼの後ろ姿と、丘と、空。それらを目に映し、オルグレンは目を細めた。
しかし――、
「――止まってくれ」
ぼんやりと牛を御すカマスの肩を、オルグレンは掴んだ。
彼の目には、流れ人の姿が映っていた。
ロゼが、こちらへと手のひらを向けた手を挙げる。静止の意だと、オルグレンは汲み取った。
いったいどうしたと言うのか――
「人がいる。槍と剣、馬で並足。――念の為だ、少し待っていてもらえるかい?」




