七章《二節 猟犬》1
『猛りの尖兵』と別れの言葉を交わせなかった事を、オルグレンは少し悔いた。
ロゼから細かな話を聞いたのだが……このような状況でもなければ、笑いながら語らい、それぞれの行く先の幸いを願いたかったと思う。
そして、何よりも、感謝を伝えたかった。
しかし――、思いは一度、片隅へと大切に置かせてもらう。
オルグレンは振り返らず、顔を上げた。
タロト東岸街。
つい先程まで標星の大国に占拠されていた場所は、今は閑散とした印象となっている。
門は開け放たれたまま。
そこから延びる大通りには、物資が入っていたと思しき木箱などが、雑然と放置されている。住民が追い出され、兵士に占拠されていた街は、荒れた印象だった。
掃き清められていただろう整った石畳の上は、瓦礫が転がり、泥に汚れたまま。
折れた剣、壁に残された矢、投石器の弾が破壊した建物など、防衛に直接役立たない場所には、戦いの傷跡が痛々しく残されていた。
人の生活があった暖かさが奪われ、土埃の荒んだにおいだけがある。
今や兵士の姿さえなく、人気はない。
いや……、街の北側にあるという港――ロゼが水運での脱出を確認した方ではまだざわめきがある。
撤退に乗り遅れまいとする兵が、規律を乱して殺到していることがうかがえた。
目指すタロトの大橋は、街の南側――つまり港とは反対側にある。
オルグレンは、メーヴをゆるく走らせた。
「次の角を左へ」
相乗りの背からの声、――ロゼの指示を聞き走る。
人がいないとは言え、大通りをそのまま行くのは躊躇われ、進路としてはもう少し細い路を選ぶ。
そう進み、やがて一つの通りへ。
倉庫街とみられるそこは、門や囲郭の周囲と勝るとも劣らず雑然としている。
防衛設備――門や囲郭などの補修に使う予定だったか……あるいは船の補修に使おうとでもしたか。どこかの家屋でも壊して得たとみられる木材が、幾つもの建物へと立て掛けられ、石や工具も散乱している。
やがて通りの奥、それが行先として見えてきた。
「あれが……」
オルグレンは思わず呟いた。
目の前には、巨大な構造物。
滔々たる大河の流れに雄大に建つ――
「タロトの大橋だね」
同じものを見、ロゼが言う。
「……ああ、伝承の橋だな」
オルグレンは頷いた。
言いながらオルグレンの脳裏によぎるのは、傭兵団『猛りの尖兵』の雇い主、キャリオルの話だ。
彼曰く、タロトの大橋は、伝承の時代からある橋であると……。
「始まりの種族によって造られた、か」
存在を目に映しつつ、目を細める。
遥かな昔、神話と混ぜられ語られる逸話。
事実、橋はずっと昔から存在すると言う。にも関わらず、どこにも建造に関わる資料はないらしい。
故に、キャリオルは、大きく壊れた際には国家を挙げた大騒ぎになった、と言っていた。
その修復の知恵を与えたのが、二人の河の賢者だ。
思えば、不思議な話だ。
そんな橋の修復の知恵を、なぜ彼女達は持っているのか。
「シルユーノは何者なんだろうか……」
誰へとはなしに、のつもりだ。
オルグレンは言った。しかし、二人しかいない中では、言葉は相手へ向けて、と受け取られても致し方ない。
ロゼの手が動く。
腰を掴む少年の手が強張るのを感じ、オルグレンは肩越しに振り返った。
「…………」
ロゼは何も言わない。
そして、少年の顔を伺うこともできない。
オルグレンの背中……外套の中に、顔が寄せられ隠された格好だからだ。
押し黙る姿……。
進路へと顔を戻し、オルグレンは思う。
何も話してくれない彼が、隠しているものは何だろうかと。
こんな様子が浮き彫りになったのは、あの河の賢者と出会ったことだ。
だが、賢者シルユーノが根本の原因かと言えば、オルグレンは少し違うように感じた。
もっと違う何か……。
彼女と出会う前から、ロゼが抱えている何か。
伝承……。始まりの種族……。
考えの中で、オルグレンは視線を落とした。
その視界にロゼの手が映る。振り落とされぬよう、騎手であるオルグレンに回された、それ。
その手は、握りしめられている。
腕で騎手に掴まりながら、手の中を握る格好だった。
手袋がなければ、自身の皮膚に爪が刺さるのではないかという程に。
「…………」
沈黙が満ちた。
メーヴの蹄の響き以外は、ほとんど音がない気さえする。
あるはずの大河の水音は、霧に吸われているようだった。
湿った静けさの匂いが、息のたびに肺にたまる。
南からの遡行風には温度があるが、今はそれを感じられない。
その中で、オルグレンの手は自然と動いた。
手綱から離した片手を、少年の片手に乗せる。
手袋越しでは温度など分からないはずだが、オルグレンは少年の手を冷たく感じた。
寂しく、冷えている。それを上から覆う。
「…………」
やはりロゼは、何も言わない。
それ以上言い募れるでもなく、オルグレンは橋を見た。
あるのは静寂だけだ。そこもまた動きが見られない。
岸辺の霧は晴れつつあるが、まだまだ大河の中からは無音で白が湧き上がる。
それ故に大橋の先、中州街の姿はまだ影として伺えるのみだ。
大きな動きがないのは、このためだろうとオルグレンも察する。
対岸が見通せない。つまり、状況が分からない。
東岸街を占拠したクゼリュスに対して、籠城を続ける中洲街。立て籠もるアディーシェ軍達も、対岸に何らかの異変が発生している事は察しているだろう。
とはいえ、霧の帳によって、東岸に何が起こっているかは見通せず、無用の混乱を避けるべく守りを固めるに努めているのだ。
撤退するクゼリュス軍を叩くという意味では、用をなさない作戦ではあるが、混乱を起こさず、街を守る意味では有用な判断であると言わざるを得ない。
そして――そのおかげで、オルグレンも橋へと向かうことができる。
目の前となった橋の袂。
もう少し――
――唐突な、音。
ただの予感だった。
その瞬間、オルグレンは指示を送った。メーヴへと。
左へ! そう鋭く。
メーヴの俊敏な反応。
直後、まさに今いた位置へと矢が通り抜ける。
一つは避けた。
だが――
まず、感じたのは衝撃だ。
「っ!」
別の角度から飛来した矢。それが、オルグレンの大腿へと突き立った。
途方もない痛みに体が強張る。
灼熱感。視界の明滅。
一瞬、何をどう認識すればいいか混濁し、――苦悶で姿勢が崩れる。
しかし、力強い腕がオルグレンを支えた。
ロゼだ。腰に回した腕で、落馬から救われたのだとオルグレンは後追いで認識した。
「走れるかい!?」
「……っ、ああ」
ロゼの鋭い声。オルグレンは答えた。
しかし、その返答は、メーヴをまだ走らせられるといった程度のものだ。
オルグレンの大腿の外側、やや膝に近い位置、その位置に矢は突き立っている。
この足で細かな指示を送るのは難しい。馬の一歩が、体重移動が、その都度に足を苛む。
その痛みに耐えながら――待ち伏せだ、と。
そうオルグレンは認識した。
同時、己の油断を認識する。
草の民と、そう呼ばわれタロトへと導かれたことを、もっと意識すべきだったのだ。
オルグレンは手の中で矢柄を折った。
鏃は抜かない。失血を抑えるためだが、足は身体から流れ出た命で濡れつつある。
汗が遅れて噴き上がるのを、オルグレンは感じた。
深い損傷が作用してか、吐き気さえ覚える。
しかし、耐え、吠える。
「切り、抜けるぞ!」
オルグレンは宣言した。
そして、体重を移動する。傷を負った足は自分の意の通り動いているのかさえ、定かではない。
ただ大きすぎる痛みで塗りつぶされたような感覚だった。
ロゼが分かっている様子で、背中に張り付く。
それを確認しオルグレンは、メーヴへと鋭く口笛を吹いた。馬の耳が反応し、駈歩に入る。
馬の速さで突き抜ける。
これしかない、そう判断していた。
間もなく橋の前に跳び出せるのだから。
しかし、――直前。
建物の横手から馬が飛び出す。
三騎。前方を塞がれる形。
そして各自馬は乗り手に導かれ、メーヴに体当たりせんとばかりの直進。
避けられるか否か。一瞬の思考。
心は光明を求める。だが、敵は甘くはない。
騎兵、三騎による壁は厚かった。
進路を塞がれる。
その圧力に轢き倒される、寸前――……
オルグレンは手綱でメーヴの進路を、横手へと反らした。
そうせざるを得なかった。
馬同士が接触する直前に回避する。
それは橋へと向かう道は塞がれ、横道へと押し流されることを意味する。
駆け抜けることができない。逃れられない。
どうするべきか――
「君はただ橋を渡る、……いいね?」
「ロゼ!」
身体に掴まっていた少年が動き、オルグレンは思わず名を呼んだ。
よせ、と言いかける。
しかし、ロゼの動きの方がはるかに速い。
彼はメーヴの背から、跳ぶ。クゼリュス兵の駆る一騎へと。




