七章《一節 黒鹿毛の馬》2
――ロゼだ。
オルグレンはそう感じた。
ただの直感、だけではない。
メーヴの反応が証だった。
馬の耳は優れている。白い流れ人が吹く口笛……人間には聞こえない離れた距離の、微かなそれにメーヴが反応し、顔を向けているのだ。
オルグレンはそうと判断した。
同時、居場所を伝えなければと考える。
ダグエルの情報からやってきてくれたと思しき、彼。
とは言え、ロゼもオルグレンがどこに隠れているかまでは、見通せるはずがない。
オルグレンは咄嗟に剣を引き抜いた。
そして静かに姿勢を低くしたまま、障害の外に出る。
次いで、剣を陽の薄ら明かりに当てて揺らす。
大きな音や、大きな反応をし、クゼリュスの兵に、これから何かが起こることを悟られるわけにはいかない。
そのために、か細い合図を送りつつ願う。
――気づいてくれ。
そうしながら目を凝らす。
ささやかな陽光の欠片を、剣に反射させる。それを何度か。
やがて同じ、ちかりと光る反応が返った。
その小さな反応は、オルグレンが思うよりも近い位置から湧いた。
目を凝らし、ようやく気付く。
気付けば簡単なことだ。ロゼが白い外套を被り、低い位置の霧に溶けている。
視認してオルグレンは、陽の光が急に刺してきたかのような心地になった。明るさを覚える。
無論、実際の天候はそうなってなどいないが、心の安定が光となった。
一方で、オルグレンの視界の中で、ロゼが動く。
少年は、霧に溶けたまま腕を振る。
何かを伝えようとしている。
実際、手が大きく振られた。大振りな弧を描き、手が門の方を指す。
迷わず行けと言うように。
必ず援護すると言うように。
柔らかな声が聞こえたような心地を得て、オルグレンはそう解した。
確信に従い、メーヴに飛び乗る。黒鹿毛の馬が、尾を高く上下に揺らした。
その馬へと、腹に踵をあて、オルグレンは走る様に頼む。
揚々と走り出すメーヴの足取りは、オルグレンを乗せてなお軽やかだ。
一息。放たれた矢の如く。
通りへとそのまま飛び出す。
一斉に騎兵たちが身構える。
それを目の前にオルグレンは、左右に振って走る様にメーヴに指示を送った。
弩から放たれた矢。鋭い風切りが、横をすり抜ける。
騎兵たちは、馬の足を止めたままの射撃だ。馬上とはいえ、安定した射撃を維持できる、
このまま近づけば、狙いはさらに正確さを増す。
オルグレンもそうと悟った。
彼らは、オルグレンを殺すために足を止めている。
だが――、それが命取りなのだ。
風鳴り。弩を構えた騎士の喉へ、何か残像が吸い込まれ突き立つ。
その、凶器。
仲間の状態を確認し、別の騎兵が叫んだ。
「――矢だ!」
どこからだ、と。
叫ばれる前にはオルグレンは、足で指示を送っていた。メーヴを疾走させる。
弩を避ける蛇行はもはや不要。
最短、真っ直ぐに。
そして――跳び込む。
狙撃と仲間の死に動揺の声を発する、騎兵のところへと。
慄きの声を聴きながら、一閃。
オルグレンは、鋼を振るった。
馬の疾走とで勢いが乗った刃。それが一騎、兵の首を刈り取る。
落ちた首の重い音を聞きとることなく、駆け抜けメーヴの馬首を返す。
残り、一騎。
……とはいえ、だった。オルグレンは、そのまま馬を止めた。
残された一人は、既に馬首を返している。
去る方向――つまり遠い戦場の音に向けて……。
もはや追う意味はない。そう考えオルグレンは黒鹿毛の馬の首を撫でた。
ゆっくりと歩かせ、白い姿に進ませる。
遠景に白い布をまとった姿。
ぼんやりと浮かぶ少年の姿は、彼の独特の存在感も相まって、幻のようでもある。
だが、しかと存在してくれている。
そして、またしても助けてくれた。
近づき――オルグレンは胸の中に浮かぶ思いのままに笑んだ。
「やあ、オルグレン」
猫が鳴くような声で、ロゼが迎えてくれる。
少年は柔らかな表情だった。
その顔を目に収めながら、馬から降りる。
「ロゼ」
口に馴染んだその名を呼んで、思わず、だった。
オルグレンは肺の底から、ゆったりと息を吐く。
安堵と、安心と、また顔を合わせられた喜びとで。
と――、同時、似たような吐息の音を耳にする。
オルグレンは思わず、彼の顔を見下ろした。
ロゼも、似た緩やかな息を吐いていたのだ。そして、少し驚いた顔でオルグレンを見上げてくる。
目を見合わせる。
それから、どちらともなく、二人で小さく笑う。
ロゼが腕に触れる。応えて、オルグレンは少年の肩に軽く触れた。
一瞬の交流だったが、手のひらがあたたかい。
互いの無事を確認し……
すぐロゼがあらぬ方へと向く。そして、声を張り腕を振った。
「送ってくれて、ありがとう! ウルローグに宜しく」
「ああ! 無事でよかった! またなー!」
いつかまた会いに来いよ、と。
視界に小さく映る騎兵が大きく声を発する。
その彼はオルグレンもよく知った、『猛りの尖兵』の中年の騎兵だ。
彼が体ごと大きく手を振り……、やがて消えていく。
そのやり取りに、何かを察したような気持になり、オルグレンは胸がにわかに騒がしくなるのを感じた。
予感。それを心のどこかが嗅ぎつけている。
オルグレンはロゼを見た。
視線に気づいてか、トン、と跳ぶようにしてロゼが向き直る。
白い流れ人は、猫が笑ったかのような表情だ。どこか得意げな笑み。
「さて、オルグレン」
飄々とした、霧のように柔らかい声が紡ぐ。
「君が陸で遭難するうちに、状況は変わってしまったよ」
オルグレンは目で頷いた。
少年の白い手が、西の方を指し示す。
「『猛りの尖兵』を巣立つときだ。いよいよ行くよ、タロトの大橋に」
その白い流れ人の言葉に、オルグレンは頷きながら言った。
「……そうか」
片隅では、わずかな寂しさを覚えている。
だが、それでも。オルグレンは感じた。芯から強く湧き上る鼓動を。
その思いのままに言う。
「――なら、行こう。ロゼ」




