七章《一節 黒鹿毛の馬》1
東の山脈にわずかに陽が覗いている。
少し輪郭のぼやけたそれをオルグレンは見上げた。
廃村の景色は明るくなり、北へと吹く風で村の中の霧は、徐々に薄まっている。
濃霧に乗じて抜け出すのはもはや難しい。
とはいえ、瘴気も風に流されている。
長く吸えば肺を病み、気が狂うとまで言われる不浄が、去りつつあった。
この点についてはオルグレンは少し落ち着いた心地だ。
彼は今、メーヴから降りていた。
クゼリュス騎兵からは影となり、遺体などが少なく、瘴気の薄い場所……それを探し出して休む。そうした理由は単純。
メーヴを休ませるためだ。
念のため通りに面した側には、荷車を横に倒して障壁を作っている。
肝心のメーヴは、くつろいだ……いや、くつろごうとしてくれている様子だ。
オルグレンの水筒の水を飲んだ後は、じっとしている。
賢い馬だと、オルグレンは思う。
やりたいことを理解してくれているような心地になり、彼は愛馬の首を撫でた。
とはいえ、いささかの緊張はあるらしい。
メーヴが時折、風を追うように耳を動かしている。
そこへオルグレンは口笛を吹いてやった。耳が立ち、やがてゆったりと横へ倒れる。
「お前は俺と同郷なのかもな」
メーヴの生まれ故郷はわからないが、オルグレンはそのような気がした。
彼が唇に覚えがある音を奏でると、メーヴが実によく反応するからだ。
口笛の吹き方次第では、寄って来させるのはもちろん、座らせることも、寝転がせることもできた。
ダグエルや彼の騎馬隊の面々が真似ようと、微妙に音に違いがあるのかメーヴは指示を聞かない。
唯一ロゼが顔の向きを変えさせ、振り向かせることには成功したが……そこまでだ。
オルグレンはそっと視線を動かした。
伺うのは門の方だ。
まだクゼリュスの騎兵が三騎屯している。
残骸となった正門から、動こうとしていない。
そうとなれば別の門から脱出したいところではあるが――これはオルグレンも、すでに確認している。
この村にあるもう一つの門。
裏門にあたる場所は、凄惨な状態だった。
開け放つ間もないほどだったか、あるいはあまりにも混乱の様相を呈してしまったのか……。
内開きの門は、閉じられた状態のまま。
簒奪から逃れようとしたものらしい遺体が、門に縋り付くように折り重なっていた。
瘴気も濃く、恐怖と無念の残滓を啜り求めるように、魔物もその辺りにうごめいている……そんな有様。
とても開けられる状態にない。
他の切れ目……村の囲郭自体は木組みの柵だった。
しかし、住民たちがしっかりと設えたもの。
容易く壊せるようなものではなく、哀しいことに……村を血の檻としてしまうほどに、切れ目なく頑丈なものとなっていた。
梯子でもあれば登れないほどではないが、メーヴを連れられない。
徒歩では間違いなく追いつかれる。
ならば、やはりメーヴを駆って逃げるのが得策だが……そのための退路は、正門のみ。
ため息を吐く。
同時に、オルグレンは遠い雷鳴のような音を聞いた。
暫く響き続けているそれは、陸路での、戦闘が始まった音だ。
戦太鼓の音か、どちらかの陣営の投石機の音か……戰場の音楽を響かせるものが何であるかは、判然としない。
とは言え、もはや戦闘自体が始まっているのだ。秘密裏だった行動は、もはや白日の下にある。
目撃者であるオルグレン一人を閉じ込める必要は、もうない。
にも関わらず、兵は身の振りようを決めかねている様子だ。
オルグレンは、それを眺め……
「……あれは隊長だったか」
ボソリとぼやく。
あの、魔物に飲まれて消えた騎士。彼が頭だったのだ。
頭を失い、体のみを残された状況。
三騎は命じられたことを完遂しようとし、大局が見えていないのだ。
しかし、きっかけがありさえすれば、彼らは退く。
さて、とオルグレンは思案した。
黒鹿毛の馬は、そろそろ動きたいとばかりに、オルグレンの肩に鼻を擦り付けては、口を動かしている。
それを撫でて落ち着かせる。そうしながら彼は探した。
何か、状況を変えることのできる手段を――
途端、メーヴが耳を立てる。
オルグレンは思わずそれを見た。
馬は、何か音に反応を示したと見える様子で、柵の外の方を振り向く。
なぜだ、と考える。
オルグレンとて、馬と人間の言葉で通じているわけではない。
世話をし、心を通わせながら、雰囲気やしぐさ、それらを見て感じるのだ。
メーヴが再び耳を反応させ、先ほどとはわずかにずれた方へと顔を向ける。
「……っ」
気づき、オルグレンは喉元が熱くなるのを感じた。
思わずその方へと、髪を揺らして振り向く。
――ロゼだ。
オルグレンはそう感じた。




