六章《五節 それぞれの行く路を》1
「クゼリュスは、撤退するよ」
そうロゼは報告した。
正門より移動する兵、あまたの輸送船、それらすべてが標星の大国の戦略的撤退を示している。
ウルローグの表情が、刃を帯びた。
彼女の横では、駆け付けてきたらしいキャリオルが固まった表情だ。
傭兵団『猛りの尖兵』の雇い主である貴族は、事態を把握してか顔色を失せさせている。
「そうか……」
ウルローグが呟く。
幕舎の長机――、彼女の前には地図が広げられていた。キャリオルが持参した、近郊の地図だ。
その紙面へウルローグは、河を遡行し悠然と北へ戻る船団を思い浮かべていると、ロゼには見えた。
彼女の目には北側の包囲を突き破らんと、陸で大軍が隊列を成して行く光景も映っているはずだ。
逃げるならば、逃げればいい。
何が悪いことか。
そう思う者も、居るだろう。
だが、それではいけないとロゼは知っている。
土地が貧弱なクゼリュスにとって、作物の実り豊かなアディーシェの地は、損害を被っても手に入れる価値のある場所だ。
木々の豊かな、白き峰々の国――エーイーリィがそうされたように……。
標星の大国は、決してあきらめることはない。
そして、クゼリュスに無傷で帰る兵が多ければ多いほど、次の侵攻につながるのだ。
「ここで容易く帰してしまえば、要らぬ学びを与える、か」
キャリオルの声は、川が干上がったようだった。
固く乾いている。
彼の言う通り。うん、とロゼは声を出して頷いた。
おためごかしをしても仕方がない。
「今帰してしまえば、学びを敵に与えてしまうと思うよ。補給の問題さえ解決できればタロト……ひいてはアディーシェの攻略は、たやすいとね」
ロゼがそうと言えば、ウルローグが頷いて重ねる。
「ああ、だから……、できうる限りを叩き、できうる限りの損害を与え、アディーシェは与し難いと思わせねばならない」
ここからはそういう勝負だと、彼女が言う。
キャリオルが青い顔のまま、額に手を当てる。
痛みを覚えたように。
彼がそこまで顔色を変え、心を氾濫させる理由は恐らく――このアディーシェ軍を主導するべき将達は、一体どれほどがこれに気づいているだろうか、と言う辺りだろう。
滔々たる大河の国が、すでに出遅れていることにも、気づいているかどうか…………。
「明け方の奇襲が痛手だな」
ウルローグが言う。ロゼも頷いた。
明け方の敵の陽動で、予備隊であったはずのアディーシェ正規の第二陣部隊はすでに使ってしまっていると言う。
それがあれば、すぐにその部隊を逃走路へと向かわせることができた。
だが、既に消耗させている。疲れている。
補給と休息を考えれば、今からの急行ではほぼ間に合わない。
ならばせめて北側の部隊が、持ちこたえなければならないところだ。少しでも長く。
他に展開する部隊が向かうまでの間、撤退を遅らせねばならない。
しかし、それは果たされるものなのか……。
襲いかかられる前から身構えられていれば、ある程度の善戦が見込めるかもしれない。
身構えもせず、不意打ちのようになってしまえば……まず持ちこたえられない。
故に、予測の段階でダグエルや彼の部下、加えてオルグレンが伝令に走ったのだ。ウルローグの警告を携えて。
その結果は……
答を持つ人間は、幕舎の前幕を突き破るようにして飛び込んできた。
ダグエルだ。
汗にまみれ、荒れた息の合間に言葉を紡ぐ。
「――姐さんの、予想、通り、……だ」
全部がそうだ。荒んだ息で、多くを語れないが懸命に彼が言う。
「北は、長くは……保たねえ」
つまりは、備えは期待できない。
容易く突破される可能性がある。
副官が紡いだ言葉の欠片から、ウルローグが結論を汲み取ったらしかった。
彼女が大きく頷く。
と――、息の整わぬダグエルに両肩をつかまれ、ロゼは驚きで目を開いた。
「ダグエル……?」
痛むほどの力が、ダグエルの手に込められている。
そこには明確な焦りと、今にも弾けんばかりの緊張があった。
彼は何か言い掛け――だが、あまりの息の乱れに、言葉を紡げない様子だ。
それがために、ロゼは胸に黒い霧が立ち込める感覚を覚えた。
予感を振り払おうと、姿を求めて視線を動かす。
だが、いくらダグエルの背後を探ろうと、その人は現れない。
「ねえ、ダグエル。オルグレンは……?」
まだ戻ってきてないのかな、とロゼは問うた。
ダグエルが絞り出すように言う。
「……すまん! ロゼ、本当にすまん……!」




