六章《三節 白に潜める》3
互いにしなければならないことは、分かっている。
ダグエルとオルグレン、どちらか一方だけでも伝えなくてはならない。
ウルローグへ伝令の結果と、――今ここにクゼリュス兵がいることを。
やがてダグエルが奥歯を噛みしめるような表情のまま、腕を上げた。了解の意。
オルグレンの進路とは違う方へと逸れていく。
それを見送った頃、オルグレンは程なく霧から抜け出した。
追ってきた敵も同じく。クゼリュス兵、五騎もまた飛び出してくる。
オルグレンは背中に、苦り切った声を聞いたような気がした。
それは幻聴ではない。
隊長らしき一騎が、何やら声を上げたのだ。
オルグレンは肩越しの視界で、それを見た。
指示を受けた一騎が離れていく。その行動を、ダグエルを探しに戻ろうということと読み解くのは簡単だ。
自然と顔を顰めてしまう。オルグレンは、舌打ちをしたい衝動に駆られた。
矢が欲しいと、内心で願う。今ならば、射て倒せるかもしれない。
そうではあるのだが……、早々にその考えをうち払う。
そこまでの援護はきっと必要がない。
ダグエルは振り返らない。
疾駆するに違いないのだ。
故に、今から兵が追いかけたとしても、追いつけはしない、とオルグレンはそう判断する。
これで、大局のためのことは成した。
一方で、問題がある。
オルグレンは、霧の中を睨んだ。
つまり、自身は如何にして逃げるか、だ。
手立てを探す。
あまり猶予はない。
巡らせた視界。その中に、大きな輪郭が現れる。
村。そう、オルグレンは直感した。おぼえた地図とも合致する。
とはいえ、それは生活が営まれている村ではない。
魔物避けがただぶら下がる、木造りの門。それが破られたままの有様だ。
クゼリュスが周囲の簒奪に勤しんでいたころに、襲われたその場所。
その惨事はオルグレンも聞いている。
「すまない」
誰へとでもない、ただ一言。
一時隠れさせてくれと、オルグレンは発した。そして、メーヴをそちらへと導く。
少しでも追手の目をごまかし、霧に乗じて逃げるしかないのだ。
そうでなくては、やはり多勢に無勢。逃げきることも制することも難しい。
助力が欲しい……、と考えオルグレンは自身に向けて、苦く笑った。
霧の中から白い流れ人が現れてくれまいか、と願ってしまったのだ。
実際、かの少年はオルグレンにとって支えだ。
この上なく頼りになり、導いてくれる年若い友人――ロゼ。
何も話してくれないことが、哀しくもあるのだが、それでも。
彼を案じ、少年を守ろうと感情がどうしようもなく動くとき、オルグレンは自身がそうある……、人に対してあたたかくありたいと願う人間なのだと認識できた。
だから――……
オルグレンは、精神を引き絞り直した。
メーヴと息を合わせ、村の中へと入る。
タロト近郊の豊かさを感じさせる村の建物は、密集しており、背も高い。一瞬鼻腔を擽った不快なにおいは、どこか燃え落ちたからなのか。
気にする余裕はなく、オルグレンは指示を送った。目抜き通りを疾走する。
途中、メーヴに頼む。
瞬時の方向転換。
速力を落とさず路地へと入る。
メーヴの足の強さを物語る、急激な進路の変更。
オルグレンは背後に苛立たしげな声を聞いた。
後を追ってくる兵が馬へ指示を送っているのが分かる。
だがメーヴの足に追いつかんと、一心不乱にかけていたのだ。クゼリュスの馬は曲がれなかった。
勢いに押し流されるように、路地を通り過ぎていく。
巧みに馬をさばき、追いすがって来たのは一騎のみ。
どこかでもう一度、振り切らねばならない。
しかし……
走りながら、やはりおかしいと、オルグレンは違和感に眉をしかめた。
傷つけられた村。その景色の事だ。
あらゆる物資は奪われ、戸も、窓も打ち破られている。壊れたものが散乱したままだ。
その中には……、死体があった。
地面に広がる黒い染みは、体をめぐる命だったもの。
これは……、とオルグレンは内心で呟く。
この村は、襲われたその日から、そのままなのだ、と。
何も処理がされていない――いや、いくらかはそういったものも行われているかもしれないが、惨劇が放置されている。
これがアディーシェの怠慢か何かは、オルグレンには分からない。
連日の戦闘で、戦場の処理を行う漁り屋の手が回っていない可能性もある。
ともかく、戦場処理が完全ではないのだ。
ならば……、恐ろしい事態があり得る。
そうとオルグレンが、突き上げてくる冷たい予感を感じた瞬間だった。
――気づく。
同時、
「メーヴ!」
オルグレンは、愛馬に鋭く呼び掛けた。
鐙に立ち、腰を浮かせる。
オルグレンは信じる。メーヴは跳べる、と。
行き先に見つけたのは、黒い姿――瘴禍だ。
その体表に触れてしまえば、どうなるか。
言わずともわかる。
その存在の、手前。
オルグレンの命に黒鹿毛の馬――メーヴが応じてくれた。
筋肉が躍動する。
そして、メーヴは見事に跳んだ。
沈み込むように力を溜め、空を駆けんと舞い上がる。
瘴禍の反応は一歩遅い。
馬の動きを捕えることができない。
伸ばした触手が空を切るのを、オルグレンは眼下の景色として写した。
漆黒の悪夢は、オルグレンにもメーヴにも届いていない。
思わず、だ。着地に合わせ、オルグレンは肩越しに振り返った。
黒い魔物が、立ち上がらせた体を揺らすのが見える。
逃れられたが……、身が凍てつく光景には違いない。
万が一触れていたら、どうなったことか。
口惜しげに震える体表に、オルグレンは心中から凍る思いがよぎった。
とは言え、悪夢は終わりではない。
「来るな!!」
オルグレンはあらん限りに叫んだ。
声の先は、クゼリュス兵。
しかし、遅かった。
オルグレンを追い疾走していた馬は、闇色の障壁を前に止まれるような速度ではない。
ならば、跳ぶしかない。
クゼリュスの騎兵が指示を送る。
馬が踏み切る。
だが……
見事な跳躍。そうであったものの、だ。
瘴禍は、あの生き物とは到底思えない身の内で思考しているらしい。
迫り上がった体は、メーヴを捉えようとしたものより、さらに高く立ち上がる。
前足から黒の中へと、飲み込まれていく。
馬は逃れようと身じろいだが、飛び込むような格好では、さほどの抵抗にもならなかった。
沼に沈むようにして、ただただ消えていく。
一方で、乗り手は馬の背に立ち上がった。
呑まれ行く馬から、跳んで離れようということか。
オルグレンは馬首を返した。間に合うならば、手を延べようと。
とはいえ……、結果はオルグレンの目の前に広がった。
クゼリュス兵は逃れきることが……、できなかった。
彼らの代名詞ともいえる鎧のせいだ。
重い鎧をつけては、さほど跳べない。
加えて瘴禍自体も、その動きを察したらしく地面にその体表を広げていた。
その漆黒の上へと落ちる。
そして、そこからの光景は黒い池に沈むようだった。
兵の足、足から腹へと消えていく。
足から順では、意識を失いようもなく、兵は自身が消えゆく一部始終を、受け入れざるを得なかった。
……苦悶が響き渡る。
助かりようも、助けられもしない。
オルグレンは目を閉じ、一瞬だけ祈った。
苦悶に満ちた死の先が、安寧であるように。
そして、すぐに思考を切り替える。
馬首を返し動き出すが、メーヴに願うのは並足だ。
どこに魔物が潜んでいるのかわからない中では、駈歩などできようはずもない。
先程は跳び越えられたが、そう何度も成功する保証などないのだ。
速度を緩め、オルグレンは改めて認識する。
異臭、そして纏わりつくような不快な空気――つまりは立ち込めた瘴気だ。
薄っすらとしたものだが、霧に紛れて蟠っている。
逃げようと尖らせていた意識の中では気付かなかったもの。それが、様々にオルグレンの感覚を苛んだ。
人間より感覚の鋭い馬であれば、尚更だろう。謝る気持ちで、オルグレンはメーヴの首を撫でた。
そうしながら視線を転じる。
オルグレンに追いすがれなかった三騎、彼らも村の様子の異変に気づいたらしい。
馬上の高さから見える囲郭の外。
ちらりと見えた姿は、早くも柵外にあった。
門で待ち伏せ、捕らえようと言う算段だと知れる。
つまり――オルグレンは、魔物に汚染された村に閉じ込められたのだった。




