六章《三節 白に潜める》2
そこにあるのは行列だった。この明け方に、奇怪な光景であるとしか言えない。
思わず自身の顎に触れる。
ロゼに浮かんだのは、どうするか、と言う自問だ。
これで大通りの確認はできた。だが、まだ、兵が行列を成しているというだけのこと。
次の確認が必要だった。向かうべきは港だ。
とは言え……ロゼが記憶したタロト東岸街の地図では、向かうべき場所はこの通りの向かい側だ。
つまり、通りにひしめく兵たちの頭上を越えて行かねばならない。
その上、向い側の屋根。そこへの距離はだいぶ遠い。大きく跳ばなくてはならない。
すると物音は避けられない。
かと言って、迂回は……ロゼは思う。彼は頬を撫でる風を感じていた。
移動をする最中にも分かっていたことだが、肌に感じる風向きが変わっているのだ。
ここ数日そうであったように、陽が昇るにつれ南風……川上への遡行風が強まっている。
あまり、余裕はない。
判断し――ロゼは決めた。
距離を目測してから、助走をつける。
踏切は、獣のように靭やかに、軽やかに。膝を使って深く力を溜め、この時ばかりは腕を振り上げて強く跳んだ。
大河のようにざわめく敵兵の頭上を越え、向かい側。
低い屋根へ、転がって着地する。
避けられない音が響く。
ロゼは衝撃を殺して起き上がった態勢のまま、耳を澄ませた。
ざわめきの変調が、ロゼの鼓動を突き上げる。明確に、何の音だという声が上がった。
自身のことを探る気配を質感として感じる。
しかし――
「前ぇ進め!!」
大軍を押し流す声が上がった。
復唱の連鎖が続く。とうとう敵が動き出した。誰何の声が、さざ波が大波にのまれるように飲まれて消える。
助かった、と言える。とは言え、安堵はない。
猶予も消えた。
クゼリュスが動き出したのだ。
故に走りだす。
そうして――
まるで高台の上に張った綱を渡るような移動を繰り返し、ロゼがたどり着いたのはタロト東岸部の港だ。
霧の中にあるのは、林立する巨木。白いような影が悠然と揺れる。
船、とロゼは認識した。
白い幕に覆われているが、存在は分かる。
恐らく、とロゼは内心で呟いた。
前の冬季進行に際して使われたものの、風向きの変化に伴い北へ戻れなくなった帆船だ。
海のものと大差なく大きい船。
その船へ、沈むのではと思うほど多くのクゼリュス兵が、影を揺らして乗り込んでいく。
蟻が地に落ちた果実に群がるような光景だった。
船倉のみならず、甲板にまで蠢く人影が見える。
蟻にたかられた船は、帆が張られるのを今か今かと待つようだ。
風は北へ、クゼリュスに向けて吹いている。次第に、強くなりつつある。
やはり――……、とロゼは思った。
ウルローグが危惧した通り。
そして、ロゼ自身……それにオルグレンも想像している通り。
事態はまずい方に向かっている。
彼は、その証拠を見た。
❖ ❖ ❖
……人は憶測では動かない。
百人、千人、それ以上であれば尚更に。
恐らくや、だろうと思う、では無理なのだ。オルグレンが伝令に走った、アディーシェ軍野営地の指揮官も、丁度その具合だ。
無力だ、と。
オルグレンは、そう感じた。何事も成せなかった、姿形のない重さのようなものが胸に満ちる。
とはいえ、全く予想外の事かと言えばそれは違う。
自身でも予感があった。それに気遣ってくれたダグエルからも、ある程度の反応の予測は聞いていたのだ。
だが……と、オルグレンは短く息を吐いた。
それでも、傭兵団『猛りの尖兵』の面々と打ち解け、話ができるようになるうちに……、名もわからぬ自身が少しは何者かになれているような、そんな錯覚を抱いていた。
何かできるような気になっていた。
けれども、そう甘くはなかったのだ。
ウルローグが発した、最悪の展開に対しての警告。
これに対する返答は、埃を払って落とすような有様での一言。備えはする、というものだった。その回答では、積極的な対応は望めまい。
オルグレンはいくらか言い募ったが、訪れた先の部隊を積極的に動かすことは、とうとうできなかった。
失意のままに宿営地を離れてしばし――
「ダグエル!」
オルグレンは声を発した。
色がわかる程度の明るさの中を、北へ北へと霧が流れていく。
その中に騎馬の姿を見つけたのだ。
ダグエルの姿は灰色に塗りつぶされた輪郭としか見えない。しかし、馬の走り方でオルグレンはそれを見分けた。
「おお、兄さんかい」
愛馬の足を止め、ダグエルが答える。
オルグレンは手綱で黒鹿毛の馬メーヴに語り掛け、彼の方へと寄った。
「どうだったい?」
ダグエルが問う。
オルグレンは、首を振った。振らざるを得なかった。
とはいえ、口は動かす。悪い情報であるからこそ、伝えねばならない。
「備えはする、とのことだった。以前の簒奪目的の奇襲と同じ、と判断されているようだ」
「……おう。ご苦労だったな。まあ、そんなとこだろうさ。俺の方も、だ」
ダグエルが無精ひげの顎を掻く。
「そういうとこが、まあ、今の俺らの辛いトコだわな」
不快な思いをさせちまったな、と。
ダグエルが謝るが、それこそ違うとオルグレンは首を振った。
これは、そうなるだろうから、関わらないや、伝えずにおこうなどと言える話ではない。
――クゼリュスが、北へと逃げだす可能性と、それを阻止しなければならない必要性の伝達。
例え傭兵団風情が、何を言い出すと罵られようとも、これは必要な警告だとオルグレンは感じている。アディーシェを考えればこそ、足掻く必要があることだ。
「とにかく、やれることはやったしな。姐さんに報告だ」
「ああ、……戻ろう」
ダグエルが馬を走らせ始め、オルグレンもそれを追った。
まだ開けぬ夜と、霧とで視界は悪い。
時折、幽鬼の衣のような、ひときわ濃い霧が帯状に抜けていく。
それでもダグエルの馬と、オルグレンが乗るメーヴは速歩を保った。
ウルローグの元へ戻るために。
そうして、頭に刻んだ地図と地形を頼りに進むのは、穏やかな傾斜の丘だ。
先行するダグエルの背が、霞むほどの霧を抜け――
「……!」
それは、全くの偶然だった。
オルグレンは息を飲んだ。
霧が少し開けた先に、影が現れる。
認識する。
視界に現れたものは、――騎兵。
立派な鉄鎧。その装備と、馬装からしてクゼリュスの兵。
数にして五騎。
彼らは丘の上で立ち止まっていた。だからこそ、気づけなかった。
目を見張る。諸共に。
向こうも、さして変わらないとオルグレンには見えた。
馬の音には気づいていたかもしれないが……まさかアディーシェの手勢が飛び出してくるとは、考えていなかったらしい。
一瞬の空白。
この不可思議な静寂を、
「――走れ!」
オルグレンは叫んで破った。
同時、メーヴの腹にかかとで触れ指示を送る。疾走れ、と。
「……こりゃまずい」
ダグエルが言う。彼もまた姿勢を前傾させ、馬を疾駆させる。
駛走。加速。
主人の命を受け、馬は勇敢だった。
周囲に明るさはでてきたものの白く塗り潰され視界もきかぬ中、果敢に脚を運ぶ。
しかし、それはクゼリュスの馬もだ。
鬣を揺らし、影が躍動する。
不利だと、オルグレンはそう思った。
先ず、馬の体力。
ダグエルの馬も、オルグレンが騎乗するメーヴも息が乱れつつある。
この上、艶のあるその馬体が熱い。オルグレンは黒鹿毛の馬の体温を足に感じていた。
伝令からの帰り、しばらく速足だった消費があるのだ。
一方クゼリュスの騎兵は、どのような動きをしていたかは分からない。小規模な彼らがどういった部隊であるかも分からない。
とはいえ、霧に忍んで活動していたのであれば、蹄の音を響かせ走るようなことは、まずしていないに違いない。
消耗などないはずだ。
そして、位置。
クゼリュスの騎兵は、立ち止まっていたとはいえ丘の上にいた。つまり下り坂だ。
一方、ダグエルとオルグレンは、登り坂となっている。
丘を登り切る頃には、敵兵がすぐ後ろ。
オルグレンはダグエルと共に馬の走りを、左右に蛇行させた。
弩の矢がすぐ脇を通過していく。
少し。少しでも何かあれば、間違いなく追いつかれる。
状況を確認し、オルグレンは胸の中で決めた。
何をするべきか。何を優先するべきか。
そうしつつ、先の濃霧の中に飛び込む。
「ダグエル!」
名を呼ぶ。オルグレンは馬を並べ彼と並走した。
互いの姿が僅かに霞む濃霧の中。
その中でオルグレンは自身を手で示した。そして、真っすぐ前へと手を伸ばす。
次に、ダグエルを示し――そこから、手を横手へと逸らして見せた。
ダグエルが、強く首を振る。彼が意図を解したとみて間違いない。
拒否を受けたが、オルグレンは真直ぐに傭兵団の副官を見た。
互いにしなければならないことは、分かっている。




