六章《三節 白に潜める》1
まだ夜は明けない。
早い時分であることは勿論。アディーシェの地は、東に山脈が横たわる関係で、元々陽が顔を出すのが遅いのだ。
だが、篝火がなくとも色が分かる程度にはなってきている。
とはいえ、霧だ。河の辺りから濃く溢れてくるそれが、風で岸へと送り出されており、その合間にしか視界がきかない。
ロゼは外套を頭からかぶり直した。
いつものものとは異なる、白い布地のものだ。
そして、極力身軽に整えた装備から、鉤縄を取り出す。
「気を付けろよ」
傭兵団『猛りの尖兵』の斥候兵が小さく言う。
ロゼも答えた。
「うん、貴方も」
自身と同じく白い布を纏った姿が、霧に淡雪のように溶けていく。それを見送り、ロゼは改めて挑むべき場所を見上げた。
前に聳えるのは、タロト東岸街の囲郭――東側の壁面だ。
そこから街の中へと侵入し、ウルローグが示した箇所の様子を探る。先ほど別れた斥候はタロトの大橋の方を確認、ロゼは大通り及び港を、という手筈だ。
縄を手元で回し、鉤に勢いをつける。
そして、鋸壁の内側へと投げ放つ。狙い通り引っかかったかを、ロゼは縄を引いて確かめた。
硬い手感を感じ――、繰り返す必要がないことを確かめる。
だが、すぐには登らない。
ロゼは、そのまま耳を澄ませた。
少なからず今の行動で、川面に小石を投げ込んだ程度には物音を立てている。見張りが居れば、それなりの対応があって然るべき。
とはいえ……、囲郭の上からの反応はない。
「…………」
行ってみるしかない、と。ロゼは、息を整えた。
危ない事はしない。
ウルローグとの約束を、ロゼは守るつもりでいる。
言われたからだ。
――心配したんだぞ、と。
青年にしては珍しい強い語気と口調で言われた言葉が、まだロゼの耳の奥に響いていた。
そしてその響きに意識を向けるたび、胸の中がかき乱されるような、熱いような心地になる。
ただただ純粋に、真摯に、青年がそう思ってくれたのだとロゼは思った。
故に、彼の心を煩わせるようなことはしたくない。
とはいえ、ここから先は敵陣……、孤立無援で間違いがない。
砦の時と同じ単独行動。そうであるものの、少し走れば仲間がいる状況とは違う。
僅かな緊張感――ロゼは、ふと何かに触れたい心地を覚えて、動かしかけた自身の手を見た。
思い浮かぶのは、やはり青年の姿だ。
彼は伝令の為に駆けて、ここには居ない。
そのことにロゼは少し足元が心許なくなるような、奇妙な感覚を得た。
とても優しく、真っ直ぐで強い、年上の……自慢の友人――オルグレン。
ウルローグに自慢したのは、少し冗談めかしたのもあったが……、紛れもなく本心だ。
ロゼにはやはり、友人とは何かについてはまだわからない。
それでも今青年のことを、最も親しく、大切にしたいと感じている。
優しい人だから……。
だから……、とロゼは少し困ったような心地を覚えた。
オルグレンの声は落ち着いた響きがあり、立ち居振る舞いは誠実で、……時々何もかにもを打ち明けたくなる時があるのだ。
「…………」
ふと我に返り、ロゼは首を振った。
他のことならばいざ知らず、ロゼに立ち込めているのは、すべて彼自身の問題なのだ。
他言すべきではないことであり、己が引き起こしてしまったこと。
そうであるのに、何を人にすがろうとしているのだ、と。
それに――、とロゼは思う。
オルグレンは、すでに彼自身の重荷を抱えている。彼は、何処かへと帰らねばならない。
内心で急ぎたいと焦っていることも、ロゼはよく知っていた。
その彼に、これ以上何を背負わせるつもりなのだと、自身への苛立ちさえ浮かんでくる。
自分のことを案じてくれる人だからこそ、迷惑はかけられない。その優しい心を煩わせるようなことはしたくない。
要らぬ思考を振り払うべく、ロゼはもう一度首を強く振った。
そして、胸中に定める。
――かの青年を必ず西に連れて行く。
その役目を果すことこそ、今もらった優しさに報いる行為なのだから。
そのためには、このタロト東岸街の敵を排除しなくてはならない。
そう自身に刻むように思い――、鉤縄を頼りに囲郭へと登る。
立派な壁の上へと上がりきった景色。タロト東岸街の街並みは、今は乳でも流し込んだかのように、霧に浸されていた。
ロゼの目は、暗さには煩わされないが、霧の帳までは見通せない。
囲郭の上を北へと走る。
普段は見張りや、クゼリュスの兵たちの立ち並んでいる場所だ。
そんな場所をひた走っていたが、クゼリュスの兵との接触はなかった。
昨日までは厳重すぎるほど立っていた見張りがいない。
すでに何らかの動きを取った後なのか――。
いや、とロゼは静かに立ち止まった。
耳を澄ませば、大通りの方にざわめきがある。
うねりのような雰囲気が、ロゼの感覚を騒がせてくる。
何であるかは、霧によって視認はできない。
そうであるものの、気配が群れとなり、さざ波のように響いた。
ひそめたような音が渦を巻く。
確かめる――。
その役目に従い、ロゼの双眸は周囲の景色を探った。
比較的高い建物の屋根が白い景色の中に、霞がかった浮島として浮かび上がっている。
やはり視界はきかない。
ならば自身の姿は、白い外套が隠してくれる。
思考を終え、ロゼは跳んだ。
囲郭から、その下へと。
眼下の身近な、屋根。
わずかに霞むそこへと、落ちるようにして飛び移る。
両足で着地。接地と共に深く膝を曲げ、音を殺し、余分な勢いは右肩から屋根の上を前転して逃がす。
そのままロゼは軽く走り出した。
屋根から、次の屋根へと跳ぶ。
強く踏み切らない。跳ねるように。軽く。軽く。
着地は膝を深く屈伸させる。静かに、滑らかに。
それらは過去に『猛りの尖兵』にいた、斥候隊長から学んだ技だ。
ロゼが師と呼ぶのは、かつて行動を共にしていた二人だけだが、実のところそう呼べる人はもっと多い。
サクラスとゼオンが『猛りの尖兵』を拠点としていたことで、ロゼはその団員達から沢山の技を習っていた。
暗器、弓術に始まり……そして、この走りの技もだ。再会する事が叶わなかった人が多いが……。
それでも習った技は、今もロゼを助けてくれている。
やがて……ロゼの足は街の大通りに並走した。
大軍の気配はここからだったのだ。
通りから上がるざわめきが、大きくロゼの耳に届く。
程々のところで立ち止まり、水際とも言うべき屋根から下を覗き込む。
白に浸された通りに揺れる丸い形は、人の頭で間違いない。
少々乱れが見られるが、概ね整列していた。
そこにあるのはこの明け方に、奇怪な光景であるとしか言えない行列だった。




