六章《一節 待ちて望む、あるいは臨む》2
アディーシェ陣営、タロト東岸街近郊――
北の砦を奪還し、戦場は滔々たる大河の岸辺――タロト東岸街へと変わりつつある。
アディーシェ軍は街を占拠するクゼリュスに対し、囲むように兵を配した。
丁度、害獣を水際の片隅に追い詰めたような恰好だ。
無論、傭兵団『猛りの尖兵』の姿もそこにある。
オルグレンは、滔々たる大河の方を見た。
丁度、太陽の沈む方……そこから少し南寄りの方角に、タロト東岸街の囲郭が目に映る。
傭兵団は団長であるウルローグの指揮の元、砦の際と同様に非戦闘従軍者を後方に残し、ここへと移動した。
北を上として描いた地図で言えば、街から右斜め上の場所。
そこへ、野営陣地を敷いたのだ。
「あまりいい状態ではないな」
ウルローグが言った。つばを吐くような口調だ。
愛馬と共に出かけた彼女は、戻ってくるなりそう吐き捨てる。その言葉は、近郊の別部隊を指してのものだ。
オルグレンはダグエルと共に、囲いの門でそれを聞いた。
「宴というほどではないが、このところ豪勢な食事と酒、それに賭博だ……。どこも気が緩んでいる」
言って彼女は、陽の余韻すら消えようとする空を睨む。
ここに陣を設けて数日、クゼリュスとは小競り合いと夜襲が続いている。
とはいえ、アディーシェ陣営の被害は極めて限定的だ。
これはタロトを占拠するクゼリュス軍も、砦と同じく矢弾が尽きようとしているのだと見なされていた。
決して悲観的な話ではない。
寧ろ、敵は弱り、自軍は意気揚々としている。
砦を取り戻せたのだからと、北の来訪者の命運は尽きたとさえ、言っているものもいるほどだ。
だが、これは不味い兆候でもある――。
オルグレンはそう感じた。
ウルローグも、その副官であるダグエルも、眉のあたりにこわばりがある。
それを目に映し、オルグレンは彼らもまた同じ心らしいと見て取った。
散発的な戦闘。
そこから得られる小さな勝利と、なにより心に残る、砦での大勝。
慣らされた勝利。
蓄積する疲労。
高揚と疲れは気晴らしを求め、このところ度が過ぎている。
それがあちこちに、複数……。
無論、諌める者もいると言う。軍議の席では、そういった動きを取る将もいると、ウルローグが話す。
とはいえ、実情と話す声色がその効果の程度を何よりも雄弁に語る。
つまり、大軍の弛緩した空気を引き締めるには至っていないと言うことだ。
ため息を胸の中に留め、また空へと視線を投げる。
そのオルグレンの視界に、薄暗がりの青に紛れて、束ねられた白い髪が揺れた。
撫でられるように、緩く柔らかく髪がなびく。
風だ。
ロゼが南の方を仰ぐ。その仕草を捉え、オルグレンは確かめるように瞬きした。
意識を向けた視界の中で、少年の白髪がまた揺らされる。
少し前までは、河下りを後押しするだけの北から南へ……つまり河の上から下への風だった。
今ロゼの腰を越えた長い髪を揺らし、弄ぶ風は、その白を逆……北へ、河上と撫でている。
アディーシェは季節で、主たる風の向きが変わる。
これは河下へ降りた船を、河上のクゼリュス本国の方へと遡行させる事が出来る、北へと吹き上がる風だ。
「ここで、か」
オルグレンは思わずつぶやいた。
風向きの変化は暑さの盛りの頃とされている。
今は、まだそうと呼ぶには一歩早い。つまり、風の変化が予測されていたものより早いのだ。
一過性のものか、天の気まぐれかそれとも、季節の気まぐれか。
まだこの北への風が、維持されるとは言い難い段階ではある。
とはいえ、もう南への風……アディーシェに都合のいい風向きを期待し続けることは難しい。
これに際し、どう動くか。
タロトを占拠するクゼリュス軍がこの風を、どう判断し、どうするのか。
アディーシェもまたどうするのか。
――まだ、分からない
しかし、確実に事態は動くと、オルグレンは思った。
同時――
「ダグエル、うちの連中の尻を叩き直せ」
大丈夫だと信じてはいるが、とウルローグが声に鋼の硬さを混じらせて言った。
彼女もまた変動の予兆を確かに感じているのだ。
この事態。寧ろ、この滔々たる大河の国アディーシェこそ動き出さねばならない。
再びクゼリュス軍に、大河の水運を使われては困るのだから。
そして――、自分たちも動かねばならない。思いを胸に、オルグレンは見下ろした。
タロト東岸街は、今は静まって見える。
かの街を開放できれば、西への旅路を大きく進めることができるのだ。
そのために東岸街を開放次第、すぐ橋を渡れるようこちら側でできる準備をすでに願い出ている。
開放直後の混乱に乗じて、橋を通り抜けようという算段だ。
これを逃せば、難民の往来やアディーシェの警備強化によって、物理的に橋がふさがり通過が難しくなる。
――帰らねばならない。
オルグレンは胸中でつぶやいた。
どこにあるかも分からない場所へ。
西へ西へ、さらに先へと行かねばならない。
ロゼと共に、この先へ……
想いを巡らせつつ、彼は西を見た。
征くべき先では、空が血のような暗がりの赤色を帯びている。
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