五章《三節 砦》1
ロゼは自身が暗い淵にあるのを感じていた。
そこには彼が深くに沈め、隠してきたものが黒い湧水のように染み出てきている。
それはロゼが思い出したくないもの……自身の罪、向き合いたくないもの、出来なかったこと、果たせなかったこと。……そして、果たしたくないこと、だ。
それらが混濁して湧き上がる。渦を巻き、ロゼを逃がしてくれない。
どこに進めばいいのか、どうすればいいのかわからない。
それらをどうにか沈め、自身を凪がせようと。そう務めているものの、上手くいかない。
故に、ロゼは独り丘の外れへと出た。遠景に、『猛りの尖兵』の宿営地が見える。
声も何も届いてこないそこへ、膝を折りたたんで座り、ロゼは息をついた。
人目がない分、少しだけ力を抜く。
独りでいれば、自身の外面を取り繕わずに済むからだ。逆に言えば、今ロゼは普段通りに振舞う自信がなかった。
誰かの注意を引くことはしたくない。
人に……例えば、ただでさえ大変な身の上のオルグレンに迷惑を掛けられない。
それに、元々誰かに縋っても、頼っても、どうにもならないことなのだ。
すべて己のことなのだから……。
そうとロゼは自身の胸中に呟いた。
血が燃え立つような呪わしさ。
自身の至らなさ、そして不甲斐なさ。
見えないものに追われ、急き立てられるような胸のざわめき。
ただ独り残される心の軋み。
……幾つもの感情をロゼは自身の中にもう一度、沈めよう、忘れようと努める。
そうしながら――ふと、ロゼは腰に帯びた半曲刀を撫でた。ウルローグから返された黒い鞘のものではなく、白い鞘に収まった自身の死神の剣を撫でる。
無性にそれが振るいたかった。無心になれるからだ。
ロゼがあれからできるようになったことといえば、それだけだった。
❖ ❖ ❖
砦。回廊部――
何も聞こえない。
いや、ロゼの耳には敵の息遣いが、はっきりと聞こえている。
何も見えない。
いや、すべてが見渡せる。同時に、敵の動きがゆっくりとした流れに見える。
――心を細く。集中を深く。
落ちていくような、逆に浮かぶような感覚の果てに、そのような極度の集中へと入っていく。
そうなったとき、ロゼは全てから隔絶された心地になる。そして手、足、指先に至るまで、すべてが意のままとなった。
飛び込む。
目を剥く敵の剣の、間合いより更に内へ。
そして、胸を貫く。
脇から剣で突いてくる新手――それヘロゼは、先ほどの敵を盾のようにして押しやった。
人は何かを寄越されると、無意識に受け止める動作をとるものだ。
押された仲間の死骸を、つい――いや、仲間の体だから受け取ったのか。
ロゼには、どうでもいいことだった。
手がふさがった、と。
彼は新手の首を、刺し貫いた。
すぐに後ろからも、敵が来る。
ロゼの視界から、それは見えない。だが、その存在を確かに感じていた。
手首の革帯に備えた投箭。それを一本、片手の内に落とす。
そして一閃。
振り向きざま、相手の目へと放った。
真っ直ぐに突き立った投箭。それがもたらす苦痛に、悲鳴が上がる。
その不要な音は、隔たりの向こうのように曖昧にしか、ロゼの耳には聞こえない。
片目を失った敵。
それへ、ロゼは踏み込んだ。
参兵か……それなりに戦場にいた者か、いずれかなのだろう。
「死神か!」
ロゼを指して叫ぶ。苦しみながらも、足掻いて剣を振る。
極限の集中に入った意識。
それによってロゼの目には、敵の反撃がとても緩慢な動きとして映った。
身を捻ねり――避けざま、彼は自身の半曲刀を振るう。
鋼も紙のごとし。首の骨など容易い。
死神サクラスの代名詞――死神の剣たる半曲刀は、使い手次第でそのように振る舞う。
首が落ちると、体の方からは血が噴き上がった。
「狂剣、だよ」
誰へともなく、ロゼは言った。
そして、胸中で続ける。
だって死神は、あなた達が殺したじゃないか、と。
おそらくは、もう一人の師である剣聖も……。
みんな私から奪ったじゃないか。抑えきれない滲みがまた広がる。
「おのれ!」
また新手だ。
ロゼは打ち合うことなく、足さばきで避け、腕を断った。
酷い悲鳴を上げるそれへも、とどめを刺す。
彼らの命を奪った感触など、師の肉を削いだ感触に比べれば些細なものだ。
ロゼは、彼らの命を奪うと決めている。彼らはいつも、奪って、殺して、壊していくのだから。
だから――
「……嫌いだ」
敵が居なくなり、集中が解ける。
元の感覚へと戻るとともに、また胸に迫るものが戻り、ロゼは呟いた。
「……嫌いだ」
また滾々と湧き上がってくる。
ロゼの目はクゼリュス兵を映した。すでに骸となっていたが、襲い掛かってきた姿が容易に思い出せる。
そしてその姿は、ロゼにかつての……酷く混乱したまま刻まれた、あの日の事を思い出させる。
断片となった記憶にあるのは、蠢く兵士の集団。
血と、炎。
あの日、集落を壊し燃やしたのは、あなた達だろう、と。
「嫌いだ」
ロゼの中には、また抑えられず溢れた黒いものがわだかまった。
それが、今度はロゼ自身を裂く。
「嫌いだ」
あの日、とんでもない過ちを犯した、自身も。
「嫌いだ。みんな、全部……大嫌いだ」
彼を慈しみ育んでくれたものは全部、あの日、他人に壊されてしまった。
ロゼは、喘ぐように息を吸った。
思考は止まらず、自身の触れたくないものへ至る。
自分はなぜ守りたいもの、大切なものを傷つけてしまうのか、と。
過去も、今も、変わっていない。
現にロゼは……死んだサクラスに刃を立て、それを傷つけた。これからも、そうなるのか……と、ロゼは、奥歯を噛み締める。
更に過るのは、始まりの種族が一つ、今は河の賢者と名乗るシルユーノの言葉だ。
――私達を消してください、とシルユーノは囁いた。ロゼは知っている。彼女をはじめ始まりの種族達が、望んでいることを。
シルユーノと繋がった際に流れ込んだ、彼女の哀しみとも諦めとも、つかない感情。それらと共にある、恐ろしいまでの渇望をロゼは確かに感じた。
あまりに切実な思いに、ともすれば彼女たちの望みへ頷きそうになる。
だが、それだけは……。
人気のなくなった要塞の通路で、彼は独り、絞り出す声でつぶやいた。
それだけは……
「……、いやだ……」
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