五章《二節 まれびと》3
隠世へと、のまれて消える。
暗い水底へと、溶けてなくなる。
少年が消えてしまう――
「――ロゼ!!」
思わず、だった。オルグレンは、叫ぶように呼んだ。
ロゼが、びくりと背中を跳ねさせる。
途端、空気が砕けた。
全員が何かしらの空気に呑まれていた。そのような状態が、崩落するように崩れたのだ。
皆、オルグレンの声で正気づいたらしく、僅かな動揺の声を漏らしている。
それへは構わず、オルグレンは手を伸ばした。
少年の二の腕を掴んで引き寄せる。隠世ではなく、常世へと。
軽装の腕は冷たく、水で冷やされたように温度がない。
ロゼの顔色は悪かった。血の気が引いているのだ。
「……ご無礼を」
引きはがされるような形で、身を離しシルユーノが詫びを口にする。
彼女は目を伏せた。
「わたくしたちの望みを、押し付けてしまいましたね」
「……どういうことだ?」
不躾なまでに低く、オルグレンは問うた。
彼女は、どこか寂しげな表情だ。
そして、
「……あなたは、役目をご存じですね」
オルグレンの問いに答えることはなく、彼女はあくまでロゼを見る。
そのシルユーノの言葉に、ロゼが頷き口を開いた。
「知ってはいるよ。でも――」
ロゼが自身の腕を握る。その彼の両腕、そこにはなにか鋭利なものでひっかいたような、幾筋もの傷跡がある。
それをオルグレンは目にしたことがあった。
言葉の続きを止めた少年に、シルユーノが緩く首を動かす。
「引きましょう、そして待ちましょう。あなたを苦しめることは、わたくしたちの本意ではありません」
そうして彼女は続ける。
「ただ、これはわたくしたちに残された、希望なのです」
静かに、染み入るような声で……
「……ロゼ。いつか選択し役目を果してくださることを望みます」
オルグレンにはやはり分からない話だが、ロゼには分かる様子だ。
彼は俯いた。
「とはいえ……あなたは狭間の者」
その少年へ、シルユーノが柔らかく言葉を紡ぐ。
「縁はわたくしたちにもありますが、その方をはじめ、人とも強く結びついています。お忘れなきよう」
その位置が分水嶺です、とシルユーノが言う。
「……私は……、」
下を向くロゼが言った。だが、口を噤む。
それ以上の返答は、必要ないとみえ、
「……キャリオル様、馬車にてお待ちいたします」
振り返りもせず、そう言い残しシルユーノがゆっくりと歩きだす。
侍女がそれを追って、幕舎の外へと出て行った。
「あの方は……わからん」
キャリオルが顎を拭う。
何か踏み入れてはならないどこへ急に連れ去られ、また急に戻されたような心地だった。
おそらくは、多かれ少なかれ、皆そういった心地なのだろう、そうと様子を見まわし、オルグレンは視線を落とした。
ロゼが黙っている。そうして彼は、自身の両腕を強く握ったままだ。
「……ロゼ?」
「…………何でもないよ」
ロゼの声は乾いている。
それを自覚してか、彼は一度口を閉じた。
次いで口に出す言葉は、どこか場をごまかそうという調子があった。オルグレンが支えに差し出していた手からも、するりと逃れる。
「……なんだか、最近君によく、心配されている気がするなあ」
「それは構わん。――俺の方がいつも世話になっている」
俺は元々お前に良く助けられている、と。そうオルグレンは続けた。
そう話していれば、キャリオルもウルローグも調子を取り戻した様子だ。
「ともかくとして、だ。ウルローグ、恐らくだが明日頃、使いを送る。そろそろ決まりそうだ」
「……例の件、ですか」
それは、砦攻めだ。そうオルグレンは察した。
兵站の遮断が始まってから、すでに久しい。
対するこちら側は『猛りの尖兵』の宿営地にも、連携する他の傭兵団、アディーシェの兵たちのところにも物資がいきわたっている。
時機が来たのだ。いよいよと――。
ようやく一歩前進ができる。
オルグレンもそのような胸の沸き立ちを感じた。停滞した状況がようやく動き始める。
そうと思えば、先ほどの不可思議な出来事の余韻を残しつつも、心が騒いだ。
西へと、進める。この高揚感を友と分かち合おうとオルグレンは、ロゼへと顔を向け――言葉をそのまま喉に止めた。
両腕を爪を立てるように握りしめたロゼが、ただ低い位置の虚空を見ている。
薄紅色の目には、色が浮かんでいる。
キャリオルやウルローグたちが浮かべるような高ぶりではない。
それは、静かに、暗い、凍てついた暗色だった。




