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【 西へ西へと、君と征く 】  作者: 八尾 十一
一章〈名もなき目覚め〉
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一章《一節 波間より》2


 しかし、その暴力は途中で止まった。

「お……」

 声を発したのは人買い達だ。

 次いで、振り返った白い髪の人物が、少し驚き加減の視線で見上げてくる。

 その中で男は、立ち上がった。


 こうして自ら動くことに、わずかな迷いもなかったかといえば嘘になる。

 自身にこの場で何ができるのかなど分からなかった。何よりも、自身が動くことで、良からぬ事にならないか、ざわつくような、わずかな気がかりが胸を過った。

 だが――……それでも。


 立ち上がってから、自身の身長はなかなかに高いのだな、と彼は場違いなことを思った。

 体中の痛みと重さを一先ず耐え、布とさらしが当てられた額を押さえながらも男は立ち……人買いたちを見下ろす。

 痛みをこらえているため、表情は自然としかめっ面となった。


 体格差で強さを確信するような手合いたちだ、今度は自分たちの方が負けていると見るや、人買いたちはいっせいに戸惑った表情となった。

 これが手枷や足枷をつけ、鞭で立場を()()()()()後であれば、人買いたちもまた違った態度をとったはずだ。

 しかし、今はまだ違う。


「俺を……、俺の仲間を、どうするつもりだ」

 男は努めて、低い声で言った。

 そして、一歩踏み出す。たった一歩。だが、小太りの男が売買をあきらめるには、十分だった。

 割に合わないことになる、そう言わんばかりの調子で首をすくめ、人買いたちは踵を返した。買えそうな商品でないなら終いだ、と一息に退散していく。


 それを見送り……

 「……彼らは去った。この場に、これ以上の血も、死もいらない」

 彼が言ったのは、白髪の人物に向けて、だ。

 人買いたちは気づかなかった。黒い外套の下で、白髪の人物がいつでも、剣という名の鋼を抜き放てる姿勢に入っていたことを。

 だから、まずいと男は思ったのだ。


 立ち上がっていなければ、この白髪の人物は、あの瞬間小太りの男を斬り伏せていたに違いない。そういった空気があった。矛先が自身には向いてはいないとわかっている男でも、わずかな緊張を覚えるほどに。

 しかし、それは瞬時に霧散した。

「優しいね、それに思慮深い。うん、君はとてもいい人だ」

 白髪の人物が言う。今、一瞬前まで、あったはずの血を降らそうとしていた空気。それが幻だったかのような調子だ。


 白い髪を揺らし、人物が体ごとで男の方を振り返る。

「私は、ロゼ」

 ロゼ――それが白髪の人物の名前なのだろう。

 名乗りを聞いても、男にはロゼが男なのか、女なのかわからなかった。

 整った顔立ちの影響もあるが……美醜よりも、わずかな違和感が揺らぐのだ。どことなく作り物めいて見え、自分たちとは皮膚一枚、違う位置にある生き物に見えるような……。無論、そんなわけはないと男は心中で首を振った。

「流れ人のロゼと言うよ」

 改めて正しい名乗り方をする。

 流れ人、つまり、帰るべき場所を持たず流離うものということだ。


 そして名前――、それに濁音が含まれるのは、戦いが生業である者に多い。いずれも、男である可能性が高い。それらの知識を思い出しつつ、彼の名乗りに応えようとし、男はいっそう酷くなる頭痛に額を押さえた。

 そんな男へ向けて首を傾げ、続けてロゼが問う。

「君は?」

 自身の事を問われ、男は困った。

 返答が浮かばない、痛むばかりで脳裏には誰しもにあるべきものが浮かんでこない。

 改めて認識すれば、思考がしっかりとしない。

 いや、あやふやなのは記憶だ。

 自分の名は……。

 自身は何者だったか、なぜここにいるのか。

 先ほど、周囲の者を「俺の仲間」などと言ったが、彼に実感はなかった。


 状況から、自身が難破船の生存者であることには間違いがないと理解する。だが、周囲を見渡し、同船の男たちと思しき顔を見渡しても、彼らの名前すらわからないのだ。これは彼らの大半が、水を吸い膨らんだ遺体となっているからではない。

 脈打つように頭が痛み、本当に何も思い出せない。


 自身の名は――、心中に呟きつつ男は自分の左手に視線を落とした。

 その手を握られた感触を思い出す。

「……俺の名は、……」

 その手を痛いほど握られながら、何と呼びかけられたか……。

「――たぶん、オルグレンだ」

 あやふやなまま、彼は名乗った。

 そう呼ばれたことを思い出すも……その人が、何と言ったかは一向に浮かばない。


「流れ人のロゼ……」

 オルグレンは言った。

 手を握っていたのが誰で、自身は何者か……。何も分からず、ただ何か焦りのようなものだけが、胸に迫る中、かすれた声を続ける。

「どうやら俺は波の中に記憶を落としてきたらしい……」


 自身の名前さえ定かではない……

 ――これが彼の始まりだった。

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