四章《一節 アディーシェへ》2
オルグレンは一呼吸の間ほど迷い……それでもと心の内を決める。そして、口を開いた。
――だが、
「まあ、ともあれ、まずはこの山を越えないとだね」
ひらりと、身をかわすようにロゼが言う。
そして、ぱっと裏返るようにして、彼が有様を飄々とした調子に戻した。瘴禍は怖いから、と。
勢いをそがれ、話題を戻すことも戸惑われ、オルグレンは魔物が去っていった方を見た。
確かに恐ろしいとしか言いようがないのだ。
身を隠す場所に困らない、木々の多い山の中であるが……。だが、逆に魔物を見つけられない可能性もあるのだ。
しかし――、それらの事情とは裏腹に、芽ぐむ淡い緑に包まれた、山の景色と澄み渡る風は美しかった。
西へと目を向ければ、行く先に海と見間違わんばかりの大河……滔々たる大河が、その名の通りの雄大な姿を陽を浴びてきらめかせている。
山を進むこと、更に幾日か。
足元の傾斜はなだらかなものへと変化した。
ようやく山脈を抜けたのだ。
「クゼリュスの騎士たちはどうなっているかな……」
ロゼが呟く。
どこまで来ており、一体何名となっているか。
オルグレンも確かにそれは、気になった。
得たい情報ではあるが、得られない情報でもある。
とはいえ、一応の見立てはあった。足に怪我を負った赤髪の騎士が、こちらの狙い通りに足を引っ張っているのであれば、まだ山脈を迂回している途中といった具合か。
そして……
「海路の方に人を割いてくれていればいいんだが……」
オルグレンは言った。人数の事だ。少し追手の数が減っていればいいが、と付け足す。
ロゼからある程度、このあたりの情報は聞いている。
例えば、シェリンダーとアディーシェのあるこの土地は、交通路が少ないのだと、そう聞いていた。
東と南が海となっており、他方、北を白き峰々、西を滔々たる大河にふさがれているという地形なのだ。
――故に、この地を出るための道は絞られやすい。
特に西へと至るには、海を利用するか、滔々たる大河を渡す唯一の橋――タロトの大橋を使うか。
この二つに一つ。
「外洋に出て、よその国に入るような、大きな港がある街は一つだけだから、見張り程度の人数は割いているといいな」
ロゼが、はるか南を見て言う。
そして、それでも――、と彼が言う言葉の先は、オルグレンが継いだ。
「あのベイセルという男は、タロトに来る、か」
「うん。彼は君に一番のご用事があるらしいけれど、……私のことも覚えていたようだから」
きっとあの夜の言葉通りにすると、ロゼが言う。
そう言って、彼は自身の頬をさすった。
「顔を見られたのは、まずかったなぁ……」
「そういえば、……死神の縁者と呼ばれていたな」
オルグレンが聞けば、ロゼが頷く。
白い流れ人は少し迷うようによそへと視線を投げかけ……、ややあってオルグレンをちらりと見上げてきた。
「……私がエーイーリィから来たのは知っているね?」
話すかどうか、先ほどの間に決めたのだろう。
彼が口を開く。
「そしてエーイーリィがクゼリュスに苛まれていたことも」
オルグレンは頷いた。事情は知らない、だがそれらの行動があったことは知っており、覚えていることを示して。
「私はそこで、師匠……サクラスとゼオンと言う人に世話になっていてね」
歩きながら話すロゼの言葉に、オルグレンは顎の辺りに手をやる。脳裏を何かがかすめるのを感じたのだ。
「死神と、剣聖……か?」
オルグレンは、よぎった言葉をそのまま呟いた。
ロゼが目を丸く開く。
自身を振り仰ぐ顔が、今までになく子供のような目を輝かせた顔となったので、オルグレンは思わず驚くとともに――笑ってしまった。
「どうやら、俺でも分かる名前のようだな」
「――みたい、だね」
ロゼが他所を向く。
その様子は、先ほど思わずの顔をしたのを、ごまかすようでもあった。
「ともあれ、そんな勇名の人の近くにいたから、クゼリュスの兵の中には、私を知っている人もいるのだよ」
戦場での異名持ちとは、相手側からそれだけ恨まれているということだ。ロゼとベイセルという男にも、そのような縁があるのかと、オルグレンは察する。
そうするうちに、景色が変わった。
小高い丘の端に行きついたようで、眼下の景色が広くよく見渡せる。
低い木々と、草原の景色だ。台地は比較的なだらかで、隆起しか見えない。景色だけで見るならば、穏やかな土地だ。
高い尾根にいた際見えた街を目指し、降りてきたつもりではあったが、地形などに阻まれだいぶ北の方に流されていた。
ここから街を目指さなくてはならない。
だが――歩き出す前、オルグレンは気づく。
少し先で土埃が上がっている。高台から見下ろす格好になったため、喧騒もかすかに届いてくる。
「戦だな」
小さな人々の動きを、オルグレンはそうと見た。
規模は小競り合いほど。
攻めと守り手の動きが、双方ある程度まとまって見える。恐らくは、訓練された者たちの動きだ。
とはいえ、土煙によって霞む為、あまりはっきりとはしない。
だが、攻め手と思しき者たちの旗が、翻るのが目に映る。オルグレンはそれを注視した。
やがて、砂塵が願いを叶えたように風でくねり、瞬きの間薄らぐ。
その中で視認できたのは、褐色の生地だった。
それが、風に広がる。はためくのは――威風堂々と旗を斜めに貫く一本の槍。
「ロゼ」
白い流れ人が言っていた旗を見、オルグレンは彼を振り返った。
その先で、ロゼがつぶやく。
「猛りの尖兵……。……、ウルローグだ」
少年の顔色は複雑だ。喜びと、同時に別のものが同居しているような色。
それを目に映し、――オルグレンには、少年の肩が薄く感じられた。小さく、細く、不安げなように……




