三章《三節 芽吹く》2
翌朝――
空が白む。
尾根の向きと異なるため、日差しは感じられない。
だが、ささめくような明るさと共に、周囲は清浄とさえ感じる空気に満たされていく。
その新しい空気の中……
「草の民、だったか……」
オルグレンは、思い出すように言った。
そうしながら、焦がし麦の堅焼きに手を付ける。油紙に包まれたそれを一枚手に取り、曲げるように力を入れた。
昨日ルキフの街から出る前に買ったそれは、長持ちするよう水分を抜くため、よく焼き固められている。オルグレンの手でも少し堅く、おおよそ食べ物らしからぬ……名前の通りの有様で、板が折れるような音を立てて割れた。
「草の民ね……」
ロゼが考えるように言った。
知っているのかと思い、オルグレンが目をやると、ひらっと白い手のひらが上を向いた状態で向けられる。
それの意図を、オルグレンは察した。……いや察してしまった。
「……お前な」
仕方なく、オルグレンは手の中の堅焼きを食べやすいよう、更に半分に割った。形が小さくなるほど、それは大きな力を要する。
どうにか割ったそれを一つ渡すと、白髪の流れ人がにっと笑った。
うまく使われたな、と。そうは思ったが、どうとも言う気になれず、オルグレンは頬を緩めて息を吐いた。そうして、割った片割れをの端を口にする。
香ばしい匂いを噛み締めたくなるが、歯に当たる感触は、手にした通りの硬さだ。しばらく、口の中でふやかすか、あるいは別の手段が必要だ。
その別の手段――、堅焼きをくわえたロゼが器用に手を動かす。
掻き起した焚火に当てた、矢床鍋だ。それへ湯を沸かしている。そこへ鹿の油で肉や野菜の干物を固めた、携行食の一種を入れ煮溶かすと汁物ができた。
矢床鋏で器用に鍋を持ち上げ、木をくり抜いた木杯に注げば、それからは湯気がふわりと漂う。野菜のだしと肉の脂が合わさった、いい匂いだった。
手近な石を卓としてそれを受け取り、オルグレンは固焼きのふやけ始めた部分を噛み砕く。そうして、残りを汁に浸して具材とした。
そうしてオルグレンがお祈りをし、汁物と堅焼きを、分かち合って食べた、朝餉の終わりごろ。
「さて……。草の民について、考えていたんだけどね」
器に残った固焼きを汁に浸したものをすっかりと平らげ、ロゼが言う。
「実は心当たりがないのだよ」
「……そう、か」
彼も知らないとなると、だいぶ難しいなとオルグレンは感じた。
自身がそう呼ばれたとはいえ、彼に心当たりはなかった。都合よく心が騒ぐような、そんな感覚もまるでない。
「まあ、クゼリュスは、よその国をその国の愛称じゃなく、蔑称で呼ぶことが多くてね」
白き峰々を雪降る地とか、とロゼが続ける。
「だから、草の民もその部類なんだと思う。穀倉地帯とか、あるいは草原がある辺りかな」
そう話しロゼが木杯を置いた。
そうして彼は、焚火の世話に使っていた枝で、たまっていた灰に文字を書く。
「クゼリュス……」
ロゼの描いた文字は、標星を大国の名だ。オルグレンはそれを苦く読み上げた。
「……君、文字が読めるのだね」
「そういうお前は、書けるんだな」
互いに顔を見合わせて、小さく笑う。
文字は貴族の物であり、一般的なものではない。村長など土地や人の管理を行うものや、商人など一部例外はあるが、普通は代筆や代読が当然だ。
ともあれ、その話は切り上げ、オルグレンは文字に目を戻した。
それを見てか、ロゼが話を続ける。
「クゼリュスは年中寒くて、森や木々の少ない、岩山とガレ地が多い国だ。農耕もやっている場所はあるけれど、自国だし、わざわざ草の民なんて呼びそうな場所はないかな」
そう言って、白髪の流れ人は先ほどの文字を枝で、灰を荒くかき乱して消した。
続いて彼が名をつづったのは――
「エーイーリィ」
オルグレンはそれを読み上げた。それは自身が乗っていた船の出発地であり、昨日まで共に過ごしていた海の男達の生まれ故郷でもある。
ロゼが頷く。
「そう。かの国は、白き峰々と雪、そして凍らない港をもつ海の国だ。同じ北の国だけれど、クゼリュスとは違って、農地があって、木々が豊かで森も深い。けれどすでに、雪降る地なんて呼ばれているから……」
多分違う、と。そうロゼが言う。そうして、彼は文字を柔らかく払って消した。
「さて、私が知っているのは、エーイーリィと船の往来がある国か、……他はちょっと有名どころぐらいだけれど」
そう前置いて、ロゼが続いての文字を描く。
「……シェリンダー、アディーシェ」
そうオルグレンは読み上げた。
シェリンダーは、昨日までいたルキフの街や、難破船が漂着した村が属している国の名だとは、彼も把握している。
そして、アディーシェは隣国の名だと、ルキフの兵ユドから聞いたのを思い出した。
「……この二つの国はかなり緑豊かでね、広大な穀倉地もあるから疑わしいけれど、ここシェリンダーのことならあの追手たちがもっと慌ててそうかな。草の民なんて投げかけないぐらいに」
言って小さく笑い、ロゼがシェリンダーの文字を消す。
「それから、お隣のアディーシェだね。ユドさんがクゼリュスと小競り合いをしていると言っていた国だよ。こっちは……、確か船荷の国だったかな。河の国だったかな……」
たしか、そういう蔑称で呼ばれていた、とロゼが言う。
「草ではなく、船と河か」
オルグレンは呟いた。
「うん、そう。本当は滔々たる大河の国と呼ばれていてね、大河とそれによる水運が有名なのだよ。」
これも違うかな、とロゼが消す。
次なる国の名は、ツァーカ。
「確か、砂糖を作っている国だったか」
オルグレンが言うと、ロゼが大きく頷いた。
「その通り。黄金の国ツァーカだ。君が乗っていた船が行きつくはずだった場所だよ」
ただこの国も……、と少し考えを巡らせるように空を仰ぎ、ロゼが言う。
「草の民と呼ばれるかというと、すこし違う気がしてるのだよ。話に聞いている限りだと、砂漠という砂の海原と、海に浮かぶ島々の国らしいから。だから、後は……」
ロゼが文字を消し、次の国名を綴る。
アィーアツバス――。
その名前に、オルグレンは胸骨を、トンと指で叩かれたような気がした。それで何か思い出すわけでもないが、なにか他の国の名前とは違う感触を得る。
その反応に気づいたか――ロゼがじっと双眸を向けてくるのを、オルグレンは感じた。声をかけてこないのは、邪魔をしないためだろう。そうと感じつつ、オルグレンは己の裡の方を注意深く探った。
なにか、何かを感じたのだ。
だが……、静まり返った記憶の水面は、何の波紋も浮かべてはくれない。
「ロゼ、その国のことを何か知らないか……?」
何か聞けば、気づけるのではないか、と。オルグレンは問うた。
しかし、ロゼの方は少し眉を寄せる。
「……申し訳ないんだけど、私はそちらの国のことには詳しくないのだよ。エーイーリィからだと、アィーアツバスはクゼリュスを挟んだ西にある国だからね……。馬が有名と聞いたような……」
ロゼが首を捻るよう仕草をした。
彼の言葉に、オルグレンは目の前が開けるのを感じる。
馬……。馬とは、草原を生きるもの。そうと気づくと、遠くから草を揺らし、吹き渡る風が彼の身中を通り過ぎていった。
ならば――、ひょっとすれば、と彼は一度口を閉じる。
今、やるべきことが見えた気がした。
「勘、だが……」
オルグレンは言った。
「まずは、そこを目指したい」
「いいのかい? 私もすべての国のことを知っているわけではないから、ひょっとしたら違うのかもしれないよ」
それでも? と、ロゼが言う。
「ああ、それでも。まずはアィーアツバスへ行きたい。……ロゼ、頼めるか?」
「もちろんだよ、オルグレン。それにここが東端の国だから……かの国までに他の国を抜ける。その間に、なにか気づくこともあるかもしれないしね」
まずは西へアディーシェの地を抜け、さらに西へ、西へとロゼが言う。
ツァーカの端を通り抜けたその先が、アィーアツバスなのだと。




