12_三章《二節 隻腕の騎士》1
ルキフの門衛棟。
月が頂に登った時分であるが、半木骨造の宿舎にはまだ明かりがついている部屋があった。
その一室――
「ご苦労だった。下がれ」
一礼をして退出する部下を見送り、ベイセルは息を吐いた。
椅子に深く背を預けると、軋む音がかすかに鳴る。
兵卒の報告は、ベイセルの予想の範囲内のものだった。
――見つからなかった、と。
それは夕刻、日が落ちる間際の出来事だ。
ベイセルはしかと確保せよとされた人物を、取り逃していた。それは少しでも、歯車が一つでも違っていれば、捕えられたのかもしれないものだったが……だが、残念ながら結果は、現状の示す通りだ。
落とし格子をすり抜け、逃げのびた標的……。
無理を通して開門を願うには、ベイセルらは不興を買いすぎていた。加えて、開門を強要する意味もなかった。
あの出来事の後、すぐに夜の帳が下りたからだ。馬は昼間の生き物であり、臆病でもある。あいにくと連れてきた軍馬には、闇を恐れぬ訓練を受けた馬は、割り当てられていない。つまりは、落とし格子を上げさせ馬を出しても、何もできないということだ。
ならば人が……と、勝手門の使用許可を得たが……すでに二人の姿は、闇に紛れて消え失せた後だった。その後も探させはしたが、兵卒の報告の通り。
闇夜に蠢く魔物のことを考えれば、深追いは危険が過ぎる。
朝、自身が席を外していなければ……と考え、ベイセルは首を振った。今までさしたる交流のなかった、この地に対し、少しでも礼節を払おうとしての行いだった。だが……それを悔いても、もはや結果は変えられない。
とはいえ、実に見事な逃げざまであった、そう隻腕の騎士は考える。
そして――ベイセルは苦く笑った。
「どうかなさいましたか?」
ベイセルの横、今まで静かに控えていた青年――ジナが口を開く。隻腕の騎士は静かに視線を動かした。
寝台が二つと、簡単な執務用の机と椅子だけが配置された室内。そこに若い姿が、ぼんやりと蝋燭の光りに照らされている。
ベイセルは答えた。
「……アーベルト様が仰られたことを思い出した」
アーベルト――ベイセルにこの件を指示した高位の軍人貴族であり、アベスの父親でもある。このアーベルト様の采配により、彼は実に複雑な立場と、今のような事態に置かれているわけだが……ベイセルは一旦それを横へ置いた。
ジナが首を傾げて問う。
「かのお方は、オルグレン様をなんと……?」
「人を惑わせる性質だ、と称されていた」
ふっと、ベイセルは息を吐いた。聞いたときには妙な言葉だと思ったが、今はまさにその通りだと思っている。
オルグレン・サイラス・レヴァニールは、常に何らかの縁に恵まれた男だからだ。
実際に……と、ベイセルは物事の整理も兼ね、実例を口に乗せた。
「まずはクゼリュスからの脱出」
コツ、と彼は右の人差し指で執務机を鳴らす。
これにジナが、わずかにもの言いたげな顔をした。かの人物の軟禁先として、とある軍人貴族の屋敷が選ばれていたのだが……その貴族が脱出の手引きをしたという話は、公然の秘密だ。
ジナはその秘密を知りつつも、自身が口にすべき内容ではないと、堪えた様子を見せた。
そうと察しつつ、ベイセルは続ける。
「次に、エーイーリィへの逃亡」
これも、クゼリュスから早急にエーイーリィへ逃亡するなど、土地勘のないオルグレンが、しおおせることではない。
「そして……」
これは、ジナが言った。
「エーイーリィからの船、でしょうか」
ベイセルは頷いた。
船乗りは気難しいものだ。加えてエーイーリィは戦時だったのだ。潮の匂いのない部外者、それを二人も……乗せたがらない方が当然のはずなのだ。だが、黄金の髪の青年は海へと出た。
そして――
「最後が、今日。……あの黒い旅人、ですね」
ジナが言う。何者でしょうか、と。
ベイセルはその姿を思い出し、自身の左腕へと手をやった。断ち切られた、そこが疼く。
そして、水が湯になるように沸き上がる腹の熱を、逃がすように息を吐く。
「死神の剣という者を、聞いたことがあるか……?」
努めて低く、ベイセルは口にした。
「はい、もちろん。エーイーリィの狂った死神と謳われた、サクラス。それと行動を共にしていた……」
言って、ああ、とジナが短い声を発する。
気づいたのだ。ベイセルはジナを副官として育てており、執務全般を任せている。
情報の整理も、彼の仕事のうちだ。
「白髪に赤い目の子供。狂った死神の剣――狂剣のロゼ。彼が、あの……」
持っていた情報と、現実の見聞が合致したのだろう。金髪の見目の整った青年が言うと、不吉な名も一種の詩のように聞こえる。
ベイセルは再び頷いてみせた。
――狂剣。戦場伝説や噂の類を信じるならば、かの子供は二年ほど前の戦役で、砦を急襲しようとした少数部隊を壊滅させている。クゼリュスの強き兵を、無残に斬り殺した、と言う話だ。
こういった話には、誇張がつきものであるがために、そのままを信じることはできない。だが……以来、あまりにも仰々しく禍々しい、その名が刻まれたのは確かだった。
そして――これはもっと以前。――五年前の話になる。
ベイセルが、腕と共に未来を絶たれた事件。
これにも件の人物達と、かつて剣聖ゼオンと謳われた、裏切り者が関わっていた。
……あの出来事を、ベイセルは忘れたことなど無い。
あの時まで家名を背負い、駆け上がっていた階段は、突如失われ奈落へと落ちた。
試されし大地とも呼ばれるクゼリュスの地は、弱きものを決して許容しない。そう言った欠点を持つものを侮蔑する。
まだ大いなる武名を残してのそれであれば、栄光と賞賛があるが……ベイセルが片腕を失った経緯は、そうではなかった……
腕よ戻れ、とばかりにそこを握り締める。
だが、ややあってベイセルは、また内心で首を振った。
「……あれと、オルグレンがどこでどう接触したかは、わからんが……厄介ではあるな」
「はい……」
わずかに唸るような声で、ジナが頷く。
この青年と自身の懸念は同じであると、ベイセルは思った。
なにせ、死神サクラスは神出鬼没だったのだ。
将として戦場に立っていた際にも、奇襲を得意としていたと記録がある。それを辞し、エーイーリィ側の傭兵に身をやつしてからは、尚更に。
昨年のクゼリュス王暗殺未遂事件……、ベイセルは胸中に呟く。
その折に深手を負い、川に流され死んだとされているが……それと疑われる遺骸は、特徴を削ぎ落とした上で燃やされていた。
故に生き延びており、また身を隠しているわけではないか、と言う意見も多い。
その死神の付属品たる剣が、その隠密行動の技術を持っていたとしても、何ら不思議ではないのだ。
そうだとすれば、本国の名に懸けて捕えよとされたオルグレンを、また見つけることは難しい。
とはいえ、一つ種を蒔いている。
――草の民、と。あの時、ベイセルはあえてそう呼んだ。
オルグレンについて、自身の名すらわからぬ有様とは聞いているが、隻腕の騎士は一つ確信していることがあるのだ。
かの黄金の髪を持つ青年は、決して祖国に帰ることを、あきらめはしない。
それは漠然とした、勘のようなものであった。そうであったが、かの青年が狂剣を庇い、ガレオへと刃を向ける姿を見た今は、確信へと変わっている。
そうと行動するのであれば、あの言葉は芽吹くはずなのだ。
――この地から真直ぐ、西へと駆り立てる種が。




