序章二〈波濤〉
海では、波が荒れ狂っていた。
途方もない水の塊が大きくそそり立ち、砕け、ぶつかり合ってうねっている。
暴れ狂う海に対し、空もまた吠えていた。滝のように雨が降りしきり、閃光が雲と風を切り裂いて奔る。
この状況では、船は渓流の落ち葉と同じだった。
百名ほどの海の男達が乗り込み、多くの荷物を運ぶ大型の木造船ではあったが、今はなすすべもなく、暗く黒い無数の波に揉まれている。
沈没を回避するためのいかな努力をもってしても、自然の力にはあらがえなかった。
雷鳴に負けぬ轟音が響く。
波とは違う力が船を襲った。
その衝撃にあらがい切れず、嵐に立ち向かっていた男たちが、幾人も海へと落ちていく。
波にもてあそばれた船が、海上に突き出した大きな岩場へとぶつかったのだ。そして、その力は船を真っ二つに引き裂いた。
破れ、浮き方を忘れた船は、ただ波に呑まれていくしかない。
「……オルグ……レン、様」
船倉――いや、乱暴に引き裂かれた船倉だった場所。
そこで青年は、自身の〈主〉を呼んだ。
か細い声だった。本来であれば彼も腹の底より出した、しっかりとした声に敬愛を乗せて呼びたかったところだ。だが、二度とそうできないことを、手探りで感じた自身の状況から悟る。
腹の中身があふれ、とうとうと降り注ぐ雨とも波とも分からぬ水面に漂っていた。
彼の身体は今しがたの衝突で、船倉を突き破った岩の間に挟まれたのだ。
そして、荒波に削られた岩の切れ味は、実に素晴らしかったらしい。人間の柔い腹の肉など容易に食い破られた。
――腹の傷ではすぐに死なない。そう彼は、戦場での経験から判断する。そして、途方もない苦痛にあえぎながら、手足を動かし自身が仕える主の元へと参じた。
「オルグレン……、さ、……ま」
床か、壁か、わからぬものの上を這いずり、青年は傍らの人影に手を伸ばす。
そうして触れるのは、彼自身とそう変わらぬ年ごろの男だった。
船を軽くするため、荷や浸水をかき出す作業を共に行っていた、青年の〈主〉。
その所々に赤銅色の房が混ざり、まさに黄金といった色彩である金髪が、雷光で照らされる。
そこに今は赤い液体が混じっているのが、青年の目に見て取れた。
わだかまるような血に濡れており、酷く頭を打っていることが明白に分かる。そして、その体には衝撃で崩れた船荷がのしかかっていた。
ああ……、ああ……、と青年は天に嘆くように喉を震わせた。
なんということだ、と。彼はここで死すべき人ではないのに、と。
彼がいなければ、祖国を救うことができない――少なくとも青年はそう考えていた。
彼らが船に乗った目的は、観光などではない。
帰らなければならなかったからだ――祖国に。
かの蛮族に脅かされている祖国に帰り救う……、そのために彼らは苦心してかの地より逃れ、放たれた追手を振り切り、この船へ乗り込んだのだ。
――おのれ、と。青年は苦痛のうめきの中に怨嗟を混じらせた。
かの蛮族――標星の大国と呼ばれる国が、彼らの祖国を侵さねば、このようなことにはならなかったからだ。
怒りと悲しみを込め、青年は投げ出された〈主〉の手を、強く握った。
「う……」
小さなうめき声が、青年の耳に届く。
そして、ゆっくりと血まみれの頭が小さく動く。やがて夏の空を思わせる目が静かに開いた。
「……オル、グレン、様」
感激に叫びたい所であったが、青年にはもうその体力はなかった。
口へと逆流してきた血を力なく吐きながら、ただただ〈主〉の手を強く握る。
「どうか……、」
どうか逃げ延びてください、と。
ほとんどは息となり、青年が思う程声にはならなかった。
それでも彼は続けた。
そしてどうか、お救いください、我らが祖国を。
そのために、帰りましょう、我らが国へ、と。
果たしてどこまで言葉を紡げたのか、青年には分からなかった。
だが、伝え、そして願った。
意識のなくなった手が、力を失い、落下する。
その時、かろうじて岩場に引っかかっていた船体が波に呑まれた――




