二章《一節 死神の遺言》1
走った距離はそれほど長くない。
広場を走り抜け、市街地に入ってからは人混みを縫うように、ただ歩いた。
始めこそ、騒ぎがあった方から走り出てきた者として好奇の目が向けられたが、さほど経たずにその視線が消えていく。
商業や交易、観光の場所である目抜き通りを抜け、少しばかり閑散とした方へ。
散歩か何かのようにしばらく歩き、ロゼはようやく足を止めた。
そこは共同水道らしい。湧き水と思しき水流が、壁泉から石の水盤へと落ちている。そして、そこからも溢れた水は、脇から足元の貯水槽へと流れており、どうやら洗濯場となっている様子だった。
石鹸のものと思われる、油の独特の香りが残っている。とはいえ、洗濯や、朝餉の片付けをする頃は終わったようで、人影はない。
「さて、少し休もうか」
そうロゼは後ろへと声をかけた。私も少し疲れたよ、とぼやきを続けて。
振りむけば、オルグレンが頷く。彼は大きく息を吐いた。そうして浮かべるのは、ようやく緊張から解放されたと言わんばかりの面持ちだ。
青年は思わず、とばかりに水盤に手を入れた。冷たい水の流れが変わり、水音が少しの変化を見せる。
それを横目にロゼは、歩いてきた方角を振り返った。
被っていた外套はすでに解き、身につけ方も変えてある。そして、彼の視界に不穏な人影はない。
ロゼは自身の口元に手を当てた。そうして、……たぶん、と胸中で呟く。行うのは思考だ。恐らくだが、ルキフ兵も騒ぎを起こした加害者達を、易々と街の中に入れるような真似はしないだろう、と。
確認を終えてから、ロゼは手袋を外した。水口から水をすくって飲む。口から喉へ、その下へと冷たい感触が流れていくのが、温度でわかる。
春というには早い時期だが、動けば暑いと感じる気温なのだから仕方がない。
「……流れ人のロゼ、また助けられたな。感謝する」
オルグレンも水を飲み、一息ついてから言った。
その、ロゼよりも高い位置にある顔。
その容貌は海の男を名乗るには、すっきりとしており、通った鼻筋にどことなく上品さがある。肌も海の男を名乗れるほどには、焼けていない。
かといって柔い印象はほとんどなく、精悍さが感じられる顔立ちだった。
夏空のような青い目に、肩まで伸びた赤銅の混ざった黄金の髪は、どこか輝くような印象がある。
「かまわないよ。……というより、私は君を利用しようと思っているだけだからね」
そうロゼが告げると、オルグレンは首を傾げるだけだった。
彼は妙な口を聞くな、などと怒り出すこともなく、実にあっさりと話を聞く姿勢を取る。
失礼ながら、見るからに年上とわかるその人の、ある種素直とも言えるその態度に、ロゼは少しだけ笑った。
彼は記憶を失った不自由な身でありながら、実に誠実で、根が優しく、こちらの態度を鏡のように返してくれる……そう、ここ数日で思っていたことを再認識する。
そうして、ロゼは口を開いた。
「ええと、説明するその前に、一つ確認をいいかな」
「ああ」
オルグレンが頷くのを見てから、ロゼは表情を引き締め直す。
そして静かに聞いた。
「君は、どこかに行かなくてはならない、ということでいいんだよね」
何処かへと帰るべき船人――オルグレンが、口を閉じた。
その沈黙は、答えに詰まったような空気ではない。事を成す前に集中するような、心を据え直すような、そんな一瞬の間だった。
「――その通りだ。流れ人のロゼ、俺は帰らなくてはならない」
低い、静かな声。だが、しっかりとした意思のある声だった。
だが……、しかし、と。彼は言葉の調子を落とす。
「どこへ帰らねばならないのかも、どこを歩けばいいのかもわからないが……」
「うん。まあ、その点は心配しなくていいよ。私が協力しよう」
「……あなたはどうして、俺に親切にしてくれるんだ?」
あなたに利はないのでは、と言うオルグレンは誠実そのものだ。
彼の疑問は最もだと、ロゼにもわかる。
故に黄金の髪を持つ青年に対して、人差し指と中指を立てた手を向けた。
「理由は二つ。一つは、……私の今の行いは師匠の真似だ」
私も人に拾われて、生きながらえた身の上だから、と中指の関節を曲げる。
「もう一つは?」
「それは、利用と言ったことと関わってくるのだがね」
ここで伝えるべきことを自身の言葉で言おうとし、ロゼは言葉を止め、立てたままの指を小さく振った。
そうしながら、どことなく言い出しにくい言葉であるな、と気づきロゼは胸中に靄を覚える。
とはいえ、ここまで口にして言わないのも妙だともわかっている。彼としては、ここでオルグレンに不審を抱かれては、困るのだ。
青年を見てからロゼは続けた。
「……率直に言うよ」




