十三章《四節 有為転変》1
オルグレンは外を見た。
標星の大国らしい、石造りの屋敷の一室。
豪華にも硝子がはめ込まれた窓は、閉じ切られていても明るい陽射しが差し込んでいる。
だが、水滴が落ちた水面の様な歪み越しの景色は、ぼやけ色あせて見えた。
ただ息が詰まる。
閉塞感に喉を絞められるような気がし、自然と喘ぐような息となった。
焚かれた涼やかな香の匂いも、気を落ち着かせてくれることはない。
立派な屋敷に通され、柔らかな寝台と広い客間を貸し与えられても、胸の重圧は消えなかった。
旅装束から上等な滑らかな生地の衣服に着替えたが、鎖のような重さが絡みつくばかり。
逃げ切れただろうか。怪我をしていないだろうか。
自身がここから逃れることよりも、オルグレンの脳裏に過るのは、そのことばかりだった。
彼ならばうまく逃げおおせていると信ずる気持ちと、その姿を確認することができない焦燥に似た気持ちがせめぎ合う。
その中で、
「オルグレン様」
扉が拳骨の硬さを感じさせる音で叩かれる。
オルグレンは、立ったまま居住まいを正した。そして、感情もなにも全てをただ平坦にし、どうぞと応じる。
入ってきたのは、老人だ。
あのアィーアツバスへの抜け道で待ち伏せていた、ひと際立派な鎧に身を包んでいた老武人。
その人が部屋へと入り、両手の手のひらをオルグレンに向けたまま、指先だけを合わせた。そしてその手を額のあたりに掲げ、静かに一礼する。
クゼリュス式の挨拶だった。
「こちらにご案内しておきながら、ご挨拶が遅れ申し訳ない」
「……マクベッド殿」
オルグレンの口は心に浮かんだまま、その人の名前を呼んだ。
相対したことのある、一軍の将であるとも頭に過ぎる。
そして、彼の丁寧な挨拶に答える。
しかし、作法は今までのように、ただ腰を折るだけのものにはならなかった。
利き腕は自身の鳩尾の辺りに当てる。同時にもう片方の腕は背中の方へと回す。
オルグレンは思い浮かぶままの仕草で、深く一礼を返した。
そうしてから気づく、これがアィーアツバスの礼なのだ、と。
捕えられクゼリュスの物事に触れるたび……、――いや、ロゼと共に西の大地を見てからだ。
オルグレンの中では砕けた石板の破片が、かちり、かちりと組み合わさり始めた。
半年前、海で見失った欠片が徐々に……だが、急速に。
何かを見るたび、触れるたび、波間から破片が見つかり、組み上がっていく。
筋道が立ったものでも、全体が見通せるようなものでもないが、かつてあった輪郭が少しずつ蘇り始めていた。
「……たしか、ご記憶を失っておられるとお聞きしておりましたが」
言いながら、マクベッドの皺の奥の目が、細められた。
「――はい、相違なく。ですが、自身のすべてを失ったわけではありません」
オルグレンがそう答えると、マクベッドが顎の髭を扱く。
「では、先ほどの挨拶は無礼でしたな」
言って、老武人が腕を動かした。アィーアツバス式の礼を、取り直してくれようというらしい。
その動作を、オルグレンは軽く手を挙げて断った。
「館の主は貴方です。それに私は囚われの身の上、そこまでの気遣いは無用に願いたい」
そうする間に、また扉が叩かれる。
マクベッドが入室を許可すると、現れたのは小間使いと見える人々だった。部屋の小卓の上に茶器が持ち込まれ、すぐに茶の準備が整う。
実に手際がよく、彼らが人をもてなすのに慣れているのが見て取れた。
淀みなく小間使いが部屋を辞すと共に、マクベッドの片手が緩やかに動く。その手が厚みある作りの椅子を指し示し、オルグレンに卓につくように促した。
配された陶器の茶碗を満たすのは、湯気を薄く揺らす、透き通った琥珀色の茶だ。クゼリュスの冷たく乾いた空気に、聊か不似合いな仄かな柑橘が香っている。
向かいに座ったマクベッドは、少し粗野な調子でその茶碗を鷲掴んでみせた。
それから、酒のように茶を啜る。
上品な事も出来るだろうその人が、そう振る舞うことで、では、ざっくばらんに行きましょうと示しているのだ。
「……従者の方は、なんともお強いですな」
先ず、とばかりに老武人がそう言った。
従者……
言われた言葉に、つい顔をしかめそうになるのをオルグレンは堪えた。痞えを茶の一口と共に腹の中へと沈める。
自身の掛け替えのない身内である事を晒せば、それはそれでロゼの妨げになりかねない。
加えて、オルグレンが射線を遮っていたとはいえ、あの時、実際に少年へ射かける者が居なかったことが気にかかった。
ロゼに対しても、誰かの思惑が働いているのかもしれない。
そうと推測し、
「彼は旅に詳しかったもので、案内をと。まさか、あのような強者だとは……」
知らなかった、と息を吐くようにオルグレンは嘯いた。
どこまでを知り、どこまでを受け入れたか……、老武人は口元の皺を深めて笑む。
「ならば、いい人選をなさいましたな。こちらもそれなりの人員をあてがったものの、まんまと逃げおおせられましたわ」
かかっ、と老武人が笑声を出す。
そうして、さてとばかりに背を正した。
「貴方にとっては嬉しくない話でありましょうが……。御身を明日には首都アスデウスに、お送りいたします」
アーベルト様のご命令で、と言葉が足される。
その名前で、オルグレンの脳裏にはまた一つ、記憶の欠片が見つかった。
アーベルト・ルガト・エルベリア……
その名前と共に白髪混じりの赤髪が浮かび、切れ長の目が思い出された。
そして五年前、自身を捕えた将だと、記憶が浮かぶ。
――はたして何処で何をし、捕えられたのだったか。
オルグレンの胸の中で、疑問が首をもたげた。
だが、その答えとなる欠片を探そうとすると、遮るように頭の芯に痛みが走る。
一瞬、刺すような苦痛に眉が動いた。
それを見て取ったのだろう。しかし、老武人は別の意味で受け取ったらしい。
「……まあ、そう悲観なさいますな」
と、彼は言う。そして続けた。
「御身の安全は、我が息子マグリットに守らせます故」
監視では? という鑢目の様な一言をオルグレンは飲み込んだ。
少なくとも、この老武人はオルグレンに礼を尽くしてくれている。
縄を打ち、手枷なり足枷なりを持ち出せばいいものを、そうはしていない。軟禁状態ではあるものの、上等な部屋を貸し与え、衣類も食事も客人に等しい扱いをしてくれている。
それらは恩義を感じられるものではないが、かといって無下にしていいものともオルグレンは思わなかった。
「お心遣い下さっていることには、感謝致します」
それだけを告げる。
マクベッドは、それで十分と言った様子だ。
そして老武人は、アスデウスまでに掛かる日数などの説明を始めた。




