十三章《三節 追手、搦手》2
ロゼは、振り払うように首を振った。
まるで、夢と現の間に身を置いているような感覚がある。
かと言って、こころの繋がりの中という訳ではない。確かに現実だとしか言いようがない所にいるが、白昼夢の中にいるようでもある。
身になにか異常が起こったのではない。
それでも、奇妙な状態だった。
記憶と今の境目が、なくなっていく。
山に近づくにつれ、それが酷くなってきていた。
向かっている場所は、天に伸ばされた爪のような、奇妙な山容を持つ山。
その山の名は、――昊天の峰。
ロゼは、そうはっきりと思い出す。
そこへと歩む足元には、あの先に道があるはず……という予感の通り、獣道と化しているものの道があった。
この先へは吊り橋があったようなという朧気な光景が、現実のものに代わっていく。
もしかすれば、わかる場所かもしれない……。地の利が欲しいと、薄い希望を辿って近づいた場所のはず。
だが、今はもう、ここは知っている場所なのだという確信に変わっている。
近くなった山を見上げ、溢れだすように過去が脳裏に蘇り、ロゼは頭を振った。
五年前のあの日を含め、もうはっきりとしなくなっていた、幼い頃の記憶。
思い出すのもつらいと胸の中にしまううち、虫に食われたように判然としなくなっていたものが、つくろわれたようにつながっていく。目の前がぐらりと巡るようだった。
だが、そんな場合ではない。気を張っていなくては……、と心を固めロゼは唇を引き結ぶ。
自身を引き締めると共に、目立つ白い髪は上着の中に収め、深く外套を被って隠した。暗色の古い森の中に、そうして身を潜める。
秋の夕暮れの赤さと、青暗い闇が混ざる頃。
それが動き始めた。
ロゼの痕跡を追い、黒装束が音も立てずに廃れた道を進んでくる。
跡追いの術を身に着けた技能者――跡追いの者。
余人の気配は邪魔になると言ったところか、一人だった。
それでも、身体を低く保ち、四方のみならず全体に視線を走らせるなど、警戒を怠っていない。
ロゼは低い枝葉の中に紛れ、ただ観察した。
今矢を構えれば、たちどころに居場所を露呈してしまうと思えた。
追跡者も腰に矢筒を携えていることを考えれば、それは避けたい。それに逃げられ、また追い掛けられても面倒なのだ。
奇妙なものとはいえ、少なからずの地の利がある、ここで決着をつける。
この厄介者を抹殺し、自身の痕跡を消し、以降追ってこれなくしようと言うのが、ロゼの心算だった。
その殺意を押し殺し、今はただ見る。
跡追いの者は、時折しゃがみ込み、次には首を伸ばすようにして道や周囲を調べている。
土の状態を透かし見、或いは周囲の枝や、草の状態を確かめているらしい。
そして、あるところで歩みを止め、足を戻し始めた。
この行動に、思わず細く息を吸う。
道理で、と納得が湧いた。
ロゼはそこで止め足をしてみていたのだ。
進んできた足跡の上を踏みしめて数歩戻り、脇の藪へと跳び、進路をごまかしたのだが、跡追いの者にはそれが読み取れるらしかった。
痕跡をごまかす技が、簡単に見破られている。
跡追いの者は、いくらか道を戻ると他を見渡して藪へと入り、ロゼが進んだ道を正確になぞって見せた。
今まで何度か足跡が残らないようにもしてきたが、それでも追跡が止まなかったのは、この熟達した技能によるものだろうとも分かる。
他にも、合わせて透けて見えることもあった。
彼ほどの技能者は、恐らくそれほど多くはないのだ。もしも多くいるのであれば、オルグレンの追手は騎士だけではなかったはずだからだ。
ロゼがそう察しをつける間にも、跡追いの者は動いていた。
そして、その姿は吊り橋へと差し掛かる。葛を編んだその吊り橋は、散々雨風と年月になぶられた姿となっていた。橋としての体裁を保ちつつも今にも落ちんばかりに、傷んでいる。
少し前に、ロゼが渡るだけで、苦悶の軋みを上げ、悲鳴のような音を立てていたのだ。
男が慎重に観察を始める。本当にロゼが渡ったのか、渡ったと見せかけただけの罠ではないのかを見定めているらしい。
だが、有能な彼は橋を渡ったのだと、判断をつけるのも早かった。自身も橋を渡るか否か、次はそういった思考をしているところか。
だが……わざわざ吊り橋をかけている地形というものは、迂回をすると時間がかかる。
それに、いかに技を持っていようと、あまり離され時間が経てば追跡は難しくなる。山は特に天候が崩れやすい。頭上を覆う木々の合間から見える空に、雲が立ち込めていることを考えれば、あまり距離を稼がれたくはないはずだ。
ロゼは、相手の判断をただ待った。
今なら射かければ殺せるのではと言う、内なる誘惑の声には耳を貸さず、ただ静かに待ち続ける。
その甲斐あってと言った所か……男は橋を渡り始めた。
綱を持ち、一歩一歩。注意深く足を運ぶ。谷を渡る橋はそれなりの高さがあった。
ぶら下がって遊ぶ子、――幼い頃のロゼを大人が叱ったのは、落ちればどうなるかを知っているからだ。
年季の入った有様の橋に、足を滑らせないよう十分に注意しながら渡ってくる。
――あ、と言う悲鳴をロゼは聞いた。
黒装束の男が、橋の上で不自然に腕をばたつかせる。その場で片腕が動かなくなった様子だった。
その男は、踏み外さぬよう足元を見るあまり、手元の欄干については、少しばかり散漫となっていたらしい。
輪状の紐が苔やその上に生えた雑草に隠して、結び付けられている等とは、思わなかったのだろう。
ロゼが仕掛けたのは掛かったものを、輪が締まって絡めとる、――くくり罠。
慎重に、擦る様に手を動かすうちに、いくつか仕掛けた罠の一つにかかったのだ。
ロゼは目を細めた。
罠は獣避けを解体した紐で作ったものだ。
よく撚って作られたその紐は、細くとも強い。大人であっても手では引きちぎれないほど。
それに急に腕を取られ、跡追いの者は不安定な吊り橋の上で姿勢を崩した。
ただそれだけのことで、橋が限界の苦悶を響かせる。崩壊を予感させる軋みが鳴った。
とはいえ、危機的な最中に、男は暴れ出しはしなかった。慎重に罠を解こうとする。
その、己のことで手一杯となる姿。
――ロゼは静かに構えた。
やることは、ただの作業だ。弓に矢を番え、放つ。
男の体に鏃が吸い込まれる。鎧をまとっていない肉は、重装備の騎士たちとは違い、やわらかい。
胸の臓器を矢が貫き、瞬く間に人だったものと化す。
意識が失われると同時、身体が橋へと無遠慮にもたれかかった。
次いで、いつまでも去らない重みに橋が軋む。
体重を支えていた、床のさな木が折れた。そうしてできた橋床の穴に、遺体がずるりと滑って落ちる。
後は積木が崩れていくようだった。
罠にかかったままの腕が離れず、欄干に死体が勢いよくぶら下がり――その衝撃で、橋全体が揺れた。
宵闇の迫る静かな森の中に、蔦や縄が切れていく、場違いで異質な騒音が木霊する。
ロゼはそれを見送らず、踵を返した。
念の為足跡を作ってしまった場所を、靴底で慣らして消し、後は夜目を利かせて石の上などを選んで離れる。
本当は、橋をもう一度通れれば良かったが、立ち昇る朽ちた木とほこりのにおいを感じながら、ロゼはそれをあきらめた。
この騒音を聞きつけて来るだろう騎士に、見つかる前に姿を消す必要がある。
そして、オルグレンを早く助けに行かなくてはならない。
クゼリュスの首都アスデウスに連れて行かれる前に助けねばと、思考する。
次はどうするべきか。
と――、こころに……何か触れるものを感じ、ロゼは背を緊張させた。
頭とは違うどこか、ものを考える所に、柔らかなそれでいて包まれるような、穏やかな懐かしいあたたかさを覚える。
しかし、一度きりだ。
身構えたが、少し待ってももう一度は訪れてこない。
ロゼは、山を見上げた。獣の爪のように尖った山は、今はただ静かにそびえている。
不意にそこへ行きたい、と何かが沸き立った。
どくりと胸を突き上げるような感覚に、山の方へと一歩を踏み出す。
だが、もう一方の足は動かない。……いや、思考が行くなと言っている。
今するべきことは何か、と選択を迫られるような心地の中で、ロゼは首を振った。
本当は、今接触してきたものは何か確かめたい。
知るには、行くしかない。行きたいと、思う。
だがしかし、ロゼは強く歯を噛み締める。
今、行うべきは何か。自分は、何を一番に行いたいのか、それを自身に問う。
「ごめんなさい。必ず、行くから。だから、しばらくは……」
もう少しだけ待って、とロゼは呟き、昊天の峰に背を向けた。
今は己のことよりも、なによりもやらなくてはならないことがある。
ロゼは進んだ。黄金の髪の青年を、救いに行くために――




