十三章《一節 アィーアツバスへ向けて》2
男はそのままぼやくように話す。
「橋づくりの時の護衛も、綱渡しをした始めの一度きりだったしの。リリートゥ辺りにでも、遊びに行ったか……」
あんたらと違って嘆かわしい限りだと、男は肩を落とし、続ける。
「兵役から戻ってようやく孝行してくれるかと思ったんだが……」
「ねえ、すまないのだけれど、一つ聞いてもいいかい?」
ロゼが言うと、髭面の顔が皺の笑みで頷いた。
「最近抜け道まで、誰か行っただろうか。教えてもらっていいかな?」
「おお、ここ数日は皆、橋にかかりきりだったからおらんぞ。それに、このところは夏ごろに薬草を取りに行く道としてばかり使っておるからな」
魔物が怖いんで普段はあまり行かんのだ、と彼は言う。
ロゼは頷いて、質問を足した。
「なら、クゼリュス方面には誰か行ったかい?」
これには、髭の顎が横に振られる。
「この集落で武器を使えるのは、俺と息子ぐらいだ。街に行くときは声をしてもらうんだが、聞いとらんよ」
聞きたかった答えをもらいロゼは、ありがとうと柔らかく礼を言った。
男とはそこで挨拶をして別れ――ロゼは足を、オルグレンよりも一歩先に出した。
そうしたものの確かに言われた通り、草や小枝、土の具合を見ても人が通ったような形跡はない。
いくらも行かない内に、進むには枝打ちが必要になり、無傷の蜘蛛の巣が悠々と風に揺られているのも見えた。
いくら歩きながら痕跡を透かし見ようと、獣のもの以外は特に見つからない。
「……息子さんが通った痕跡はないね」
行った先がリリートゥならいいのだけれど、とロゼがぼやくように言うと、オルグレンが先を見ながら答えた。
「そうだな。……とにかく、気をつけて進もう」
注意を払いつつも順調に歩を進め、やがて更に山へと分け入る。
山の高さ故に木々が生えない辺りと、逆に木々が茂る辺りを縫うように進み――
途端、西側の視界が開けた。
息を呑む、わずかな音が耳へと届く。
オルグレンと同じく、ロゼもその景色を目に映した。
眼下に見下ろすのは、広大な西の大地。
それはまるで地上に広がる、黄金の海原だった。
秋の色に染まった草原が、風の波紋を描きながら、どこまでも遠くまで広がっている。
ずっと、ずっと先まで馬で駆け抜けていけそうな、風が渡る地。
草の民……その言葉を思い出す。
それはクゼリュスの蔑称に違いない。だが、腑に落ちる言葉でもあった。
思わず、ロゼはオルグレンを見上げた。
目の前の大地と同じ黄金の髪が、眼下から吹きあがってくる風に揺れている。
青年は草原の上に心を走らせているかのように、ずっとずっと遠くを見ていた。
彼の空の様な瞳が、ひたすらに遥か先を映す。
胸を打つ物があったのか、心を奪われたように雄大な景色を見ている。
ロゼは静かに半歩下がった。邪魔をしたくなかったのだ。
それに、魔物や獣への警戒を忘れてはいけない。
青年がこの先へと意識を向けているのであれば、彼を補い守るのはロゼの役目だ。
地形の確認、天候の確認、そして異変がないかと連なる山々の深い方へと視線を走らせ、やがて……
ロゼの目は、ある山の形に止まった。
森林を突き抜け、岩肌が突き出した山だ。まるで獣の爪がとび出たような、特徴のある形のその山。
そびえ立つ、その向きと形。陽の浴び方……。
あれは……と、ロゼは内心で呟いた。
両腕に疼くような感覚が蘇り、思わず服の上から握る。
耳の奥に清水が流れるせせらぎの音が過ぎり、森林の冷たい匂いが鼻をかすめたような気がした。その山を、もっと近い位置から見上げていたような、そんな光景が過る。
懐かしいような、寒いような、熱いような……。
感覚が移ろっていきズキリと胸、――肺の位置が痛み、ロゼはそこを押さえた。
鼻の奥に、噎せそうなほど濃い煙の臭いと鉄錆の匂いが蘇る。
息を継ぎ、ロゼは落ち着くように努めた。
そうする間に、知らぬうちにかいていた汗が首筋を伝う。それが風に冷やされ、身震いが起きた。
「ロゼ?」
その動きで気づかれたらしい。オルグレンが首を傾げる。
ロゼは、首を振った。そして羽織るだけにしていた外套を、身に巻き付け直しつつ、
「……申し訳ないね。なんでもないよ」
「――ロゼ」
今度は僅かばかり、諭すような響きがオルグレンの声に混じった。
「ごめん……、むこうの山。……あの山を間近で見たことがある気がしたんだ」
ロゼが正直に言えば、彼はその方を振り返ろうとする。
だが、それよりも、とロゼはオルグレンの腕に触れて注意を引いた。
「あと、申し訳ないけれど、……体が冷えてしまったみたいだ」
君に景色を見せていたいけれど、ここは冷えるので先に行きたい。体を動かせば体温が戻るだろうから、とロゼはそう言った。
青年の首が縦に動く。
「なら、先へ行こう。それでも冷えるようなら、少し早いがあたたかい物でも作って食おう」
「ありがとう」
背を押してくれるオルグレンの手に促されるまま、ロゼは歩き出した。
そうしながらもう一度だけ、山を見やる。
ふと、視界に霞のような情景が浮かびかけ……
しかし、それが形を成す前にロゼは顔を背け、洞窟があるという方だけに目を向けた。




