十二章《三節 黒妖犬》2
そして、ベイセルが手を離すや否やだった。赤髪の軍人貴族は天板から奪うようにしてそれを取り上げる。
そして、油紙が邪魔だと言わんばかりに破り捨て、その中身を取り出した。
中身――それは、紙の束だ。
糸で綴られ、まとめられたそれには、整った文字がびっしりと綴られている。
それは、ベイセルの副官ジナが調べ、書きまとめた資料だった。内容は、アーベルトがベイセルへと与えた命令とその仔細、かかわった者、物と金品の動き。
更には、ベイセルの前任者が与えられていた任と、その仔細。
これらが丁寧に書き連ねてある。
無論、普通の命令であれば彼のような振舞をする必要はない。しかし、彼には何が書かれているか急ぎ確認をせねばならない事情があった。
赤髪の軍人貴族がベイセルやその前任者に与えていた任務は、表向きだけのものではないのだ。
紙束は、これらに対しベイセルのみが責を負わされることがないよう、手を尽くし備えてくれたジナの真心の結晶だった。
走らせるようにしてアーベルトが内容へと目を通し、……やがて紙束を握りしめた。そして、無意味な塵であるとばかりに床へと叩き落とす。
「すべてではないではないか!」
彼はそう叫ぶ。後ろ暗く感じているものの大半が、そこに無いことに気づいたのだろう。
「それは、剣聖ゼオンを地に堕としたものでありましょうか」
ベイセルはただ口に音を乗せるようにして言った。
さらに続ける。
「それとも、昨年に王御自らの視察の情報を、雪降る地の者――いや、死神へと向けて流したことでしょうかな」
言いながら、赤髪の軍人貴族が顔を赤くするのを見やる。
そして、ベイセルは低く告げた。
「よくお考えいただこうか。たかが一度の協力でお返しするには、卿の不義理の数はあまりに多すぎる」
腕を小刻みに震わせるアーベルトの様子は、目に滑稽にすら映った。
赤髪の軍人貴族は哀れなる片腕の騎士が、自身に歯向かってこようなどとは、夢にも思っていなかったらしい。
それは慢心であり、ベイセルをあまりにも甘く見ていたが故の愚かさでもある。
とはいえ、それは少し前までは正解だった。
ベイセルとてアーベルトに逆らう気などなかったのだ。ある一点を除き、ベイセルは養い子達と静かな生活ができれば、それで十分だったからだ。
だが、しかし――。状況が変わった。
そして彼はベイセルの道を阻もうとした。息子であるアベスを失った悲しみのあまり、ベイセルを罰し、しようとすることの邪魔をした。
自身を阻む者は何者であっても、排除するしかない。
それを果すためであれば、何を利用し、何を排除しようと構わない。
失った左腕の先がうずく。
その腕の感覚と共に、ベイセルは副官であったジナを思い浮かべた。
途方もない悲しみからどうにか生き残った、才能を持ち、輝かしい幸福な未来を甘受するべきだった青年は、無残にも首を斬られもういない。
彼の片割れである少女は、あの日以来、笑顔を浮かべなくなった。
今も、床に落とされた片割れの文字をかき集め、守るように腕に抱いている。
腕さえあれば、ベイセルは彼ら双子をこのような目に遭わせることなどなかった。
狂った剣に報いを――。
あの白い凶獣は、ベイセルの全てを奪い踏みにじった。
故に相応の報いをあたえねばならない。
そのために、ベイセルはオルグレンを追わねばならない。
――オルグレン・サイラス・レヴァニール。
一人であれば何処かへと紛れてしまうだろう狂剣を、捕える鍵は、かの者にあると言えた。
その者が急ぐ限り、遠回りである砂漠越えはない。
かと言って、主要な街道であるリリートゥには、アーベルトが配した傭兵の網がある。
この状況で、残された道はあえてクゼリュスを横切るか。或いは近くを掠め通るか……
つまり、こちらへと関わる地を通らざるを得ない。
記憶がないというその男がアィーアツバスを目指す限り、その道程はある程度絞れるのだ。
家督を受け継いだベイセルには、今人を使えるだけの財力がある。
そしてシルヴァストル家の領地は家臣のものを含めれば、クゼリュスの西に広がっているのだ。
そして、アーベルトも西側の領地を持つ。その上、この立場では協力をせざるを得ない。
追い風は他にもある。
ベイセルは窓の外を見た。
ついさきほどまで、全く意識に入らなかったその景色は、暑い時期の短いクゼリュスらしく、木々の葉が枯色に色づき始めている。
新年の頃、クゼリュスは開国記念式を執り行う。
この式典に、馬司の国アィーアツバスから取り上げている人質であるオルグレンが居ないことは、クゼリュスにとって不都合以外、何物でもなかった。
今、標星の大国は盤石ではない。周囲から揺さぶられている。
その一つ。白き峰々の国エーイーリィは首都を落としたものの、残党はいまだに抵抗を続けていた。
もう一つ、滔々たる大河の国アディーシェの和平会談は、落とし所もなくしばらく平行線をたどっている。
この状況で、西の馬司の国アィーアツバスの動く口実ができればどうなるか……。
一国対三国の状況となれば、黄金の国ツァーカがクゼリュスの味方をすると考えられはしない。
今はそれでも均衡を保てている。
だが、オルグレンという存在は、これを容易に崩し得る者だ。
これが為に、オルグレンをつかまえるという名目であれば、クゼリュスという国は各勢力が協力をし合わざるを得ない状況なのだ。
ベイセルは改めて、アーベルトを見た。
「さて、アーベルト卿。貴方は良き配下と、目をお持ちだったはず。ご協力いただけますかな」
問うたが、可否を訊ねるつもりはない。ベイセルはただ、目を細めた。
朱殷に染まる、己の剣を思い浮かべて――




