十二章《三節 黒妖犬》1
こんなものだったのか。
この程度のものだったのか……
乾いた心地でベイセルはそれを見た。
屋敷の執務室。飴色に磨かれた重苦しい執務机の片方に、男が一人座っている。
現シルヴァストル家当主――セルジット・グマ・シルヴァストル。
シルヴァストル家は、クゼリュス王に仕える家柄の一つ。さほど大きい武名はないものの、堅実な働きをしたという曽祖父が、家名を頂戴する名誉を賜り、そこから続く家柄である。
三代目当主であるセルジットは、既に自身が動く立場から退いて久しく、無駄な肉が革帯に乗った体つきとなっている。
若かりし頃――自身に男児が生まれなかったことから、ベイセルを養子に迎えたころの、鍛えていた体躯は今や見る影もない。
年齢の刻まれた顔で、奥歯を噛み締めた表情をしているが、輪郭は引き締まることはなく、襟の上にだぶつきを乗せている。
半年ほど前は威厳を感じていたはずのその顔に、ベイセルはただただ平坦な目を向けた。
欠片の敬意ももはや感じられない。
いかに鋭く視線を向けられようと、何の痛痒も感じられない。
故に……こんなものだったのか、と。
この国の大半を占める荒涼の大地のような心地が、ベイセルの胸中に広がっていた。
やがて、セルジットがようやく羽根筆を取る。
いかに不服を態度で示そうと、意味はないと気付いたらしい。
そうして没食子の黒墨をつけ、自身の名を羊皮紙に綴った。
内心に抱く感情に震える指で署名をしたが、まだ彼の屈辱は終わらない。
ベイセルは視線を向けた。
その仕草だけで、意図を察したノージスが動く。金属製の匙と、瓶の乗った銀盆を運び、彼女はセルジットの右側へそれら道具を配した。
続いて、細い指で小さな燭台を取り、現当主の前へと置く。
セルジットが眦を上げてそれを見た。
植物の油脂が僅かに香る蝋燭へ、消えて失せよとばかりの視線を向ける。
ベイセルの目は、ただただその有様を映していた。
かつては父と仰いだ人の枯れた顔を見やる。
そうして、意味をなさない間は、短くもなく長くもない沈黙の後に動いた。
セルジットが鈍い手を動かす。
瓶から黒い蝋の欠片を手に取り、金属製の匙へと乗せた。
その一つ一つの行動が鈍い。一瞬でも長く当主の革椅子をあたためたいのか、名残惜しいのか……ベイセルにとって関心のわかない光景だった。
とはいえ、それが功を成すこともなく、セルジットが燭台の灯で蝋を溶かした。
そこからは、さすがに封蝋をしくじるなど無様な振る舞いはできなかったのか。
羊皮紙に蝋を垂らし、外した指輪を柔らかい蝋へと押し当てる。
今ようやく、蝋にシルヴァストル家の紋章が刻まれた。
――たったそれだけの作業。
それで貴族は、ただのだぶついた肉を纏った男へと落ちていく。
彼が今しがた署名した羊皮紙は、証書となっている。
内容は至極単純……ベイセルに家督を譲るという旨のもの。
ベイセルの片腕が失われて以降、娘が産んだ孫に譲ろうと保持していたもの。
それをセルジットは今、手放させられたのだ。
ただの存在と化した男から、ベイセルは次なる者へと目を向けた。
セルジットの向かいに腰を下ろす、赤い髪に白髪の混じった男。
アーベルト・ルガト・エルベリア……現クゼリュス王の忠臣の一人として名高い男は、憮然と腕を組んでいる。
セルジットとは違い、まだ軍人貴族の威厳を身に宿しているが、ただそれだけだ。
片腕となった自身を変わらず取り立てた、恩義ある人物。
とはいえ、ベイセルにとっては最早どうでもいいことだった。
オルグレン・サイラス・レヴァニール――彼を捕らえよというその命令すらも……。
いや――、とベイセルは胸中で首を振る。
確かにオルグレン自体への関心などない。だが……、それと共に居る者に対しては、話が違ってくる。
熱が腑の奥底から沸き立つ。それをベイセルはどうにか己の内に留めた。
その間にも、署名と封蝋が終わった羊皮紙をノージスが運んで行く。赤髪の軍人貴族へと。
セルジットとは違い、アーベルトの動きに遅滞はない。
彼は羽根筆を手に取ると、黒墨で手早く自身の名を羊皮紙に綴る。
エルベリア家の蝋印が押されれば、羊皮紙は証人付きの公的文章の体裁を成した。
続けて副本を同じように作成する。
そうして、ベイセルは自身の目の前に置かれた正本に視線を落とした。
もはや耐えかねて、と言った所か。
セルジットが腹を持ち上げて席を立つ。
「紋章指環を」
書面に向けたまま、ベイセルは立ち去ろうとする男へ言った。
呻くような音の後、苛立たしげにセルジットが指環を外す。後は机ごと砕けろとばかりの音を立て、それが置かれた。
紛うことなく、シルヴァストル家の紋章指環。
そうであることだけを目に映し、ベイセルは書面へと目を戻した。羊皮紙の上では羽根筆の文字が、薄茶から徐々に黒色へと変色し乾いていく。
それを一頻り眺め、
「ご心配なさらずとも、ご令孫が成長なされたあかつきには譲りましょう」
立ち去るセルジットの背中へと、儀礼的にベイセルは口にした。
この地位は立場と金が用を果たすまでの間、あればいいのだ。それ以上はどうでもいい。
一片の興味さえない。
ベイセルの一言を聞いてか聞かずか、セルジットが執務室から出ていく。
扉が荒く退室を叫んだ。
その最後の後ろ姿を見ることもなく、ベイセルはアーベルトを見た。
その目顔は、早くしろと物語っている。
それに従うでもなく、上着の懐から束を取り出す。
油紙に包まれたそれをベイセルは、執務机へと置いた。




