十一章《四節 サクラスの願い》2
「よっ、代わろうか」
「すみません……。では……」
軽い調子の懐かしい声と、耳に馴染んだ落ち着きのある低い声。
窓の外で抑えられた声が聞こえ、ロゼは再び意識が浮き上がるのを感じた。
目は閉じたままであるものの、すっきりとした心地で、仰向けに寝返りを打つ。
潜り込んだ寝台は、オルグレンが困らず寝ていたことが示す通り広く、だいぶ余裕があった。
その上で、生まれ出るように思うまま四肢を伸ばす。
どうにか薄らいできた眠気の膜から、ロゼはようやくと抜け出し目を開けた。
寝台の上で身体を起こすと、柔らかな毛布が滑り落ちていく。
崩さないよう避けていたはずの毛布。きっちりと畳まれた毛布が、いつの間にか掛けられていた。
標高が高いためか、この土地は建物の中など影に入ってしまえば、暑さはない。
かといってこの時間であれば寒いほどではない。しかし、それでも……と思ってくれたらしい。
察し、唇が緩んだ。
そうすればロゼの胸には、面倒見の良い整った顔が浮かんでくる。
毛布を畳み直し、ロゼは手首に巻いた髪紐で、解いたままだった髪を緩く束ねた。
そして自分の長靴に足を通す。
おなざりに靴紐を締め、その格好でロゼは戸を動かした。
戸の脇。すぐの軒下に人影がある。そうして座り込んでいるのは、大剣を傍らに置いたゼオンだ。
どこかで体を動かしてきたのか、肌に浮かんだ汗を布で押さえている。
その向こうをロゼが目で辿ると、オルグレンがちょうど、ケッフェルが住まう母屋に入っていくところだった。
「お、起きたか」
寝坊助め、とゼオンが言う。
頂きを少し過ぎた陽射しに、養父の麦藁色の金髪が光る。
それに目を細めつつ、ロゼは答えた。
「おはよう、ゼオン」
「おはよう。と言っても、昼過ぎだがな」
笑いながら言ったゼオンが、汗拭きの布を自身の首へと掛けた。
そのうえで、彼は首を傾げる。
「体調が悪い、とかじゃないんだな?」
ゼオンは、ロゼがどのように寝るか知っている。だからこその疑問だろう。
それを聞きつつ、ロゼは養父の横に座った。
彼と同じ方を向き、同じ景色を目に映す。
そこでは手入れの行き届いた庭が、視線の高さであたたかく照らされていた。庭木の枝葉と草花がそよ風にゆるく撫でられている。
「違うよ。なんだか、よくわからないけれど眠たくて」
問いにロゼが答えると、ゼオンがふぅんと喉の奥を鳴らした。
「なら、お前の友達は、お前のことをよく見ているな」
心配はないから、起きるまで眠らせてやってほしい。
朝餉にも昼餉にも現れなかったロゼを心配した婦人――ラビナに、そうと説明したのはオルグレンだと言う。
「うん。オルグレンはそういう人なんだよ」
ゼオンが顔を向けてくる。それに、先を促された気がしてロゼは言った。
「いつも気遣ってくれて、優しくて、強くて……」
言葉を切り、ゆっくりと息を吸い込む。
そうしてから、ロゼは養父を見上げた。
懐かしい、優しげな顔。その顔は、白き峰々の戦場にいた頃よりもさらに柔らかな様子となっている。
その彼の、穏やかな顔に告げる。
「サクラスが――、最後に言ってくれたんだよ」
名前を出すと、ゼオンの緑がかった青の瞳が揺れ、肩が少しだけ動いた。
ロゼは続ける。
「一年間……復讐を禁じる、と。そして、私に友を作れとね」
「……あいつが、なぁ」
ゼオンはぼやくように言い、地面に両足を組んで座った姿勢のまま、頬杖を突いた。
彼は北の山の稜線を見やっていたが、ややあって目だけでロゼを振り返った。
「それで、あの兄さんと友達になったのか?」
「うん、そう。……初めは、あなたに似ていると思ったんだ」
ロゼが言うと、ゼオンがふっと笑った。
頬杖を突いたまま、唇で弧を描いている。ロゼはその横顔を見ながら、はっきりと言った。
「もちろん、すぐに認識を改めたよ。オルグレンは、あなたと違って几帳面で、しっかりした人だったからね」
ゼオンは怒るでもなく、笑みを深めている。
その養父の顔から、ロゼは東の山並みへと目を移した。
遠く、本当に遠くとなった、東端の荒れた波を思い出す。そこから西へ、西へと歩いてきた情景が、次々に瞼に蘇ってくる。
「ここまで、ずっと一緒に歩いてきた。いろいろなことがあったよ、本当に……色々と。彼は私に助かった、感謝していると言ってくれるけれど、もっとたくさん私は彼に助けられたんだ」
「……そうか」
ゼオンがゆっくりと頷いた。
そして――
「ロゼ」
ゼオンが落ち着いた口調で呼ぶ。それに合わせてロゼは師であり、養い親である人の目を、改めて仰いだ。
「サクラスの遺言、叶えられたと思うか?」
――友を作れ、とサクラスは言った。
ゼオンに問われ、ロゼは不意に思い出す。
オルグレンに問うたのだ。友人とは何だろう、と。
思い出しながら、ロゼは頷いた。はっきりと。
「うん。――オルグレンのお陰で」
言い切ったが早いか、頭の上に重みが乗る。ロゼはその大きな手の平穏な重みを感じた。
「そうか。……そう思っていること、ちゃんと彼にも伝えるんだぞ」
言ったゼオンが腕を動かす。
ロゼは思わず手を上げた。髪の毛を混ぜ返される。せっかく束ねた髪を無為に戻され、止めさせるためにその腕をつかまえた。
鍛え上げられた、太い腕だ。
ロゼは見た。
そのゼオンの腕には、以前にはなかった傷が刻まれている。
加えて、彼の小指――大剣の精密な操作を行い、握り込むために必要な指が欠けているのも、ロゼは昨日聞いた。痺れや、痛みがある指が他にもあるのだとも。
更に雨で濡れた服を替える際に見た、背中に広がる火傷と、いくつもの矢傷の跡……。
「……ゼオンはあの後、どうしてたんだい?」
ロゼが聞くと、ゼオンは片眉を寄せた。
そして頬杖の手で口元を覆う。
「お前たちと、はぐれた後か……。まあ、大した話じゃないさ」
手を降ろしゼオンが、座ったまま背後の壁に背中を預けた。
サクラスが死んでしまう三つ月ほど前、つまりエーイーリィの最後の砦が落ちた頃。ゼオンは燃え落ちる砦の残骸からサクラスを庇って、深い手傷を負った。
ロゼやサクラス、ひいては傭兵団『猛りの尖兵』と共に長距離の撤退についていくことが難しくなり、途中の村落に匿われることになったのだ。
「動ける様になった後、お前達のところに戻ろうとはしたんだが……情けない話、昔の知り合いに見つかってな」
彼の言う、昔の知り合いとはクゼリュスの一将とみて間違いないだろう。
そして、苦いものを噛んだようなゼオンの表情から、ロゼは仲が良かった人物ではないと察した。
追われ逃げる内、エーイーリィの方面からは離された。
そして色々とあって逃げ切れず、追い詰められ……どうにか捕まらずに逃げおおせたものの、その時には大怪我をしていたのだ、とゼオンが話す。
「それでもアィーアツバス辺りに抜けられんかと思って……こっちに来たんだが、崖から落ちて見事に行き倒れてな」
そして、この里の者に拾われたのだ、と彼は言う。
話し終わり、ゼオンは両腕を天に突き上げるようにして体を伸ばした。
腕を戻すと、ゆっくりと深く呼吸をする。
「……戻れなくて、すまなかったな」
ロゼは首を振った。
確かに、彼が居ればサクラスは、無謀なことなどしなかったと思う。
クゼリュス王を直に襲うという危険な作戦には、乗らなかったかもしれない。
だが、今それを思おうと、時を遡ることなどできはしない。
それに、あの時は、そうするしか無かったのだ。
ロゼはゆっくりと立ち上がった。
「ねえ、ゼオン」
ん? と、ゼオンが喉で返答をする。
「サクラスがあなたに残した遺言を、叶えてもらえるかい?」
養父の顔が変わるのを目にし、ロゼは一度客間に戻った。
立て掛けた二振りの半曲刀から一方、サクラスの愛刀だった黒い鞘の方を外す。
戸口から姿を現したゼオンに、ロゼは向かい合った。
両手で半曲刀を捧げ持つ。
そうして彼へと、――サクラスの半身を掲げた。
「渡して欲しい、と私は聞いた」
サクラスがそう言った、と。
ロゼがそう伝えるとややあって、剣の重みがゼオンへと引き取られる。
彼は、何も言わなかった。
いや、何か言おうとしたのだ。喋る前のような、短い息の音が聞こえた。
だが……それをやめ部屋の奥へと歩き出し、ロゼの脇を抜ける。
そのすれ違いざま、ロゼは肩を叩かれるのを感じた。
トンと、軽く押すような手。
その意図が染み入るようにわかり、ロゼは部屋を出た。
そして振り返らず、後ろ手に戸を閉める。
サクラスの相棒――
剣聖ゼオンが、今だけは一人になれるように。




