性癖破壊幽霊と少年⑤
「ハァ……」と一息ついた少年は木々の間から空を見ながら呟いた。
「大人ってすごい……」
予想通りの展開ではないが、とにかく暴力的にも性的にも度を越した手段を用いることなく、彼をこの場に留めることには成功したようだった。
「あれはなんていうジャンルなんだろう?」
「じゃんる?」
今度はなんの話だ。
「今日はなんて日だ。自転車は壊れるし、先生に指名されまくるし、体育は長距離走だったし、昼ごはんの食パンはカビてたし、妹にラブレターを渡した男子の住所氏名を探らなきゃならないし、妖しいえっちなお姉さんとくねくねからまんまと逃げおおせたかと思ったら天国を見るし、日経平均株価は下がるし、人類はいつまで経っても戦争をやめる気配がないし……」
なに言ってんだこいつ。
こちらへ話しかけるというよりは長々とした独り言といった風情だった。
放心して反射的につらつら言葉を継いでいるようだ。
「ああ、うん……無事でよかったよ」この隙に調子を取り戻さねば。「どこか痛いところはあるかい? ええと、後頭部以外で」
すると彼は少し睨むようにして、まるでこちらがなにか不義理をしたかのような態度をとった。
「強いて言えば……心ですよ。健全な青少年の性癖を歪なにが楽しいんです? あなたのような人がいるから、際限なく新しいジャンルが生まれてしまうんだ」
さっきからなに言ってんだこいつ。
もう一度透明になり、後頭部に打撃を与えてやった。
実体化して元の体勢に戻る際に、彼はまた天国を見たらしい。
「いい加減にしてください……僕をどうしようっていうんです」
彼は息も絶え絶えに抗議した。いい加減にしてほしいのはこちらなんだが。
ともあれ、ようやく本題だ。
「そこにある石塔を倒してほしいんだ」
石塔。
この姿になってすぐのこと。
俺の怨霊英才教育を義妹が断念したあの日、「お義兄様はしばらくここで良い子にしていてください」とか言ってせっせと石を刻んで製材し、瞬く間に建てていった、高さ膝下くらいの小さな石祠だ。
俺をこの地に繋ぎとめる、凶悪な封印の発生源だ。
「そこ、って……」
少年が身を起こし、俺が示す先を見やる。
途端、彼は硬直した。
「少年?」
呼びかけに応じない。呼吸もしていないかのように静止している。
まるで本当に心の底から驚愕して、静かにパニックに陥っているかのように。
「ここは……」
バッと勢いよく振り返る。
視線は俺ではなく、俺の背後の石碑を見ているらしかった。
「カンエ様……!」消え入るような声で彼が発する。
──カンエ様?
「うお!」
弾かれるように立ち上がった少年の顔面が俺の頭部をすり抜けていく。
石碑の台座脇にかけていた彼の上着がバサリと落ちる。
彼は一方向、俺の背後を瞬きもせず見つめ、わずかに息を荒げている。
「お、おい、どうしたんだ」
「シッ!!」
俺の呼びかけを制して人差し指を口の前に立てた。
視線は動かさず真剣な顔でゆっくりと屈み、履いていた白いスニーカーの紐を手探りでほどき始めた。
そしてそのまま片方の靴を脱ぎ、頭に乗せた。
──いよいよこいつのことがわからない。
履いていた靴を片っぽ頭上に頂かなければいけない理由がこの世に存在するだろうか。
急におもしろ一発芸を思いついたからやってみますなどという陽気さは、しかし彼のシリアスな面持ちからは感じられなかった。
次に彼は石碑に相対したまま合掌し、スニーカーが落ちないようバランスを取って後ずさりながら聞き慣れない言葉を繰り返した。
「いものこいものこ」
──い……いもの、こ……?
いものこ。いものこいものこ。
その一見間の抜けた響きが、この状況の異常さを引き立てた。
「おい、少年……?」
少年は「いものこ」と繰り返しつつ後ろ歩きのまま木立の端、道路との段差を器用にぴょんと飛び降りた。
「ふー……」
そこでようやく緊張を和らげた少年が息をついてスニーカーを履きなおす。
「なあ、なにを──」
「シッ! しゃべらないで!」
少年は暴走する恐竜を諫める調教師のように、全身で“ストップ”の意を示す。
さっきまで骨抜きのようだった彼の豹変ぶりに、俺はつい気勢を削がれてしまった。
「お姉さんも同じようにしてください!」
「え、同じってさっきの……」
「静かに!」
どうしろというのだ。俺は黙り、説明を求めるように肩をすくめて見せる。
彼は怒鳴ったことを少し申し訳なさそうにして、声のトーンを落として続けた。
「そこではしゃべっちゃダメなんですよ。入るのも本来ダメなんです。静かに、落ち着いて、さっきみたいにして出てください。でないと、よくないんです。その……」
少し目をそらし、躊躇いがちに続ける。
「あ、悪霊が、祟るって……」
「悪霊? カンエ様っていうのが──」
「その名前を言わないで! ……後で説明しますから、大丈夫ですから、さあ」
言いながら胸の前で手のひらを高速回転させている。手招きしているらしいが、急ぎ過ぎてゴリラのドラミングのようにも見えた。
ふむ、察するに──俺は慣れ親しんだ我が家ともいえる木立を見回した。
この地には悪霊がいて、なんらかの理由で祟ることがある、ということだろう。
俺はここでもう長年過ごしてきた。自慢じゃないがずっとアニメとか洒落怖動画とかを観てグータラしていたのだ。
その間、通いの家庭教師だった義妹以外の幽霊には一度たりとも会うことはなかったが、なんということだ、まさかそんな恐ろしい存在が知らぬ間に同居していただなんて。
くわばらくわばら……。
ふむ……。
──それって俺じゃね?




