中編
領地の空気は、王都とは違う。
澄んだ風に緩んだ肩を預けながら、エルナは久しぶりに外を歩いていた。
石畳の先、訓練場の片隅。誰かが剣を振っている。
目に留まったのは、黒髪の青年だった。
流れるような剣筋、無駄のない動き。だがどこか懐かしい雰囲気を纏っている。
「……もしかして、リオ?」
思わず声に出すと、青年が振り向いた。
エルナを見るなりぱっと目を見開く。そして、嬉しそうに笑う。
「エルナ……様? 本当に……エルナ様、ですよね?」
「ええ、久しぶりね。覚えててくれて嬉しいわ」
リオ・フェルスター。
子爵家の次男で、昔学問所で共に過ごした。
柔らかな雰囲気と人懐こい笑顔で、当時から誰にでも分け隔てなく接する青年だった。
リオは騎士団に入ったと風の噂で聞いていたが、まさかこんな所で会えるなんて。
エルナは思わず笑みをこぼす。
「久しぶりどころじゃないですよ! もう何年も会ってませんでしたよね? こんなところで再会できるなんて……」
嬉しさを隠せず、リオは思わず笑った。
まっすぐなその眼差しが、今のエルナには少しだけ眩しい。
「王都に行ったって聞いてましたけど……まさか、領地にいらっしゃるとは」
「まあ、いろいろあったのよ。……ちょっと休暇中ってところかしら」
「……いろいろ、ですか」
リオの声が少しだけ沈む。
それ以上は聞かない。けれど、その瞳は何かを察していた。
「でも、また会えて本当に良かったです。昔から、エルナ様に……僕、ずっと憧れてたんです」
唐突な言葉に、エルナはまばたきをする。
「え?」
「あっ……あ、いや、変な意味じゃなくてっ」
「え、えぇ……」
「あの、昔から“芯が強くて、誰にでも優しくて、かっこよくて……”って、ずっと思ってたんです!」
まっ赤になりながら必死に説明するリオに、エルナは思わず笑った。
それは、王都ではもうしばらく浮かべることのなかった、素直な笑顔だった。
―――――
―――
―
数日後。
領地内にある湖のほとりで、エルナはリオと再び顔を合わせていた。
「まさか、お一人で来られるとは思いませんでした」
リオはそう言って微笑む。
彼の隣には小さな布包み。中には焼きたてのパンと、甘い果実の瓶詰めが詰まっていた。
「偶然見かけたってことにしてもいいけど……私がここにくるって、知ってたわね?」
「え、バレてました?」
「もう……」
肩をすくめて笑うリオに、エルナもふっと小さく笑った。
風が吹き、湖面が揺れる。静かで、心地よい時間。
王都では得られなかった、柔らかな安らぎがそこにあった。
「ねえ、リオ」
「なんですか?」
「どうして、騎士になろうと思ったの?」
湖に石を投げながら尋ねると、リオは少しだけ考えてから答えた。
「えーと、守りたかったから……ですかね。誰かのために強くなれる自分でいたかった。それが、僕の中では“騎士”って形になったんです」
その目は真っ直ぐで、濁りがなかった。
嘘も見栄も、意地悪な期待も含まれない、本物の“善意”だった。
「……エルナ様こそ、なんであんな男に耐えてたんですか?」
リオの問いかけにエルナはしばし沈黙した後、静かに答えた。
「家のため、それだけよ。私が我慢すれば、家も名誉も守られるって思ってた。でも……もう限界だったの」
「……あの人、何も分かってなかったんですね」
そう言うリオの拳が、少しだけ震えていた。
自分のことのように悔しそうに。
「僕だったら、絶対に手離しません。誰よりも大事にする。エルナ様が笑ってるだけで、十分すぎるくらい幸せになれますから」
「リオ……?」
それは、告白ではなかった。
けれど心に響く真心のような言葉だった。
エルナは何も言えず、ただ、リオを見つめた。
エルナを試すのではなく、エルナのために真っ直ぐ尽くしてくれる言葉。
それがどうしようもなく胸を打った。
……この人は、私が何も持っていなくても傍にいてくれる人なんだ。
エルナの心が少しだけ温かくなる。
気づけば、頬が緩んでいた。
「ちょっと、言いすぎよ。もしかして女の子慣れしてるの?」
「え!? 違います!」
「そう?」
「エルナ様にしか、言ったことないですから!」
顔を真っ赤にして慌てるリオに、エルナは声を上げて笑った。
それは、久しぶりに心から出た笑い声だった。
続きは17時過ぎです。