前編
計1万字以下で全3話です。
煌びやかなシャンデリアが揺れる大広間。
王都で開催された舞踏会は貴族たちの社交の場として、今宵も賑わいを見せていた。
そんな中、エルナ・ヴァレンティアは静かにワイングラスを傾けていた。
隣には本日もまた、彼女の婚約者であるセシル・アインスローがいない。
視線の先。
紅いドレスの令嬢と楽しげに踊るセシルの姿が見える。
彼の口元には、エルナが見たこともないような笑みが浮かんでいた。
―――何度目だろう。
そう思いながら、エルナはひとつ息を吐く。
「嫉妬しないの? あなたの婚約者が他の女性と踊ってるのに」
背後から、くすりと笑いを含んだ声が聞こえた。
侯爵令嬢のルミナだ。セシルに熱を上げていることで有名で、今夜も彼女はわざとらしくエルナに絡んでくる。
「ええ。毎度のことですし、驚くようなことではありません」
「まぁ、そうですのね」
「思ったような答えが得られず、残念でしたか?」
エルナはにこやかに微笑んだ。
その完璧な淑女の笑みに、ルミナはわずかに顔を歪める。
平然を装うのは、もう慣れたものだ。
だけど、本音を言えば。
……この人は、いつまで私を“試して”くるつもりなのかしら。
そんな言葉が思い浮かんで、エルナはふっと瞳を伏せた。
セシルはいつも、エルナの感情を引き出そうとする。
他の令嬢に贈り物をし、舞踏会では誰かと踊り、わざとらしく噂を流す。
そのたびに彼は、エルナの顔色を盗み見るのだ。まるで、愛されていることを確認したいかのように。
だけど、愛しているのなら―――なぜそんな方法しか取れないの?
ワインを一口飲む。
喉が焼けるように熱いのは、きっとアルコールのせいではない。
今日こそは、もう我慢できそうになかった。
セシルと視線が交わる。
彼は、まるで勝ち誇ったように口元を吊り上げた。まったく、子どもじみた笑みだ。
エルナはそっとワイングラスをテーブルに置いた。
「失礼。少し、外の風にあたってまいります」
誰に言うでもなく呟き、大広間を後にする。
だがこの夜エルナの中で何かが、音を立てて崩れ始めていた。
―――――
―――
―
涼しい夜風が、エルナの頬をなでた。
石造りのバルコニーに出ると、遠くの街灯りがかすかに瞬いている。
心臓の奥に、いつからか張り詰めていた糸がある。
それはもう、限界寸前まできしんでいた。
「……エルナ」
背後から聞こえた声に、エルナはゆっくりと振り返る。
セシル・アインスロー。エルナの婚約者。いや―――もう、そう呼ぶべきかも迷う相手だ。
「君って、本当に変わらないよな。さっきだって、俺が他の子と踊ってても無表情で」
セシルは笑う。
その顔には、悪びれた色など一切なかった。
「どうして何も言わない? 悔しくないのか?」
「……悔しい、ですか?」
エルナは少しだけ瞳を細めた。
喉の奥で、何かがぐらりと揺れた。
「あなたもしかして……私が嫉妬して泣いたり、怒ったりするのを期待していたの?」
「っ……」
セシルは言葉に詰まったように、眉をひそめる。
その反応だけで、十分だった。
「……哀れな人ね、あなたって」
静かな声だった。
けれどその一言は、鋭利な刃のようにセシルの心を突いた。
「っ、エルナ?」
「愛されたいなら、素直に言えばよかったのに。どうしてそんな回りくどいやり方でしか、人の心を試せないの?」
その声は冷たいのに、不思議なほど静かだった。
静けさの中に、確固たる“終わり”の気配が漂っていた。
「君が、俺に本気の気持ちを見せないから……」
「私は、家のためにあなたとの婚約を受け入れたわ。でも、それでも私は……あなたを見ようと、歩み寄ろうとした。けれど、あなたが差し出してきたのは“疑い”と“意地悪”だけだったでしょう」
エルナの唇がきゅっと引き結ばれる。
「あなたが私にくれたのは、ただの試練。何年も耐えて、何度も心の中で叫んで、それでも私はあなたを嫌いにならないように努力してた」
「……」
「―――でも、もういいわ」
セシルの顔から、いつもの余裕が剥がれ落ちていく。
「ちょっと待て、エルナ。今夜は―――その、君の気を引きたくて……!」
「気を引きたいなら、なぜ令嬢たちと親しげに踊ったの? わざわざ、私の目の前で」
「……」
「ねえ、セシル。あなたにとって私は、“どれだけ耐えられるか”を試す玩具だったの?」
「ちがっ……!」
セシルは言葉を失い、何かを言いかけては口を閉じる。
だがもう、彼のどんな言葉もエルナの心には届かない。
「……申し訳ないけれど、この婚約、破棄させていただくわ。正式な手続きは後日、父とともに」
淡々とした声音で言い放ったその瞬間。
エルナの背中にまとわりついていた何年分もの重みが、ふっと剥がれ落ちた。
「君は俺を捨てるのか? 本当にそれでいいのか!?」
セシルが必死に言葉を投げるが、エルナはふっと笑った。
「捨てたんじゃないわ。あなたが、自分で私を手放したの」
「まっ……エルナ! 待ってくれ!」
夜風が彼女のドレスをふわりと揺らした。
背後から呼び止める声はもう、彼女には届かない。
―――そうして、エルナは“過去”を置き去りにして歩き出した。
まだ見ぬ“未来”に向かって。
続きは12時過ぎです。