私のバイト、先輩目当てになるかも
初めてのバイトの日、私はいつも以上に緊張していた。
新しい制服は少しだけ大きめで、エプロンを結ぶ手も震える。鉄板を前にして、生地を慎重に流し込むものの、手元が狂って予想以上に多く注いでしまった。
「まあ、最初だし仕方ないよね」と自分に言い聞かせながら、緊張を誤魔化そうと必死だった。
だが、時間が経つにつれて生地の周りが黒く焦げてきた。焦げた匂いが立ち込める中で、頭が真っ白になる。
「あーあ、焦がすのも才能かもね」
後ろからクールな声が響いた。
その言葉に驚き振り向くと、そこには先輩が立っていた。整った顔立ちに鋭い目つき、それに反する落ち着いた声。まさにクールという言葉が似合う人だ。
「す、すみません!」と慌てて謝る私に、先輩は少しだけ肩をすくめてみせた。
「まあ、次は気をつければいいよ。焦げたの、見てみる?」
先輩は私に鉄板を指差し、自然と手伝う姿勢を見せる。その動きはあまりにもスムーズで、つい見とれてしまった。小さい頃にテレビで見た料理人のような手際の良さに感心しながら、「私もこんなふうになれるのかな」とぼんやりと考えていた。
「ほら、こんな感じで焼けばいいんだよ」と、先輩は穏やかに解説しながら新しい生地を鉄板に流す。
先輩が焦げた部分をさっと片付けている間、私は次の手順に進もうと気を引き締めた。
作業が一段落したあと、先輩がふと私を見て微笑んだ。その微笑みは一瞬だけだったけど、まるで「大丈夫、頑張ればうまくいくよ」と言われているような気がして、不思議と胸が温かくなった。
心の中で「この先輩、ちょっとかっこいいな」と思ったのは秘密だ。
忙しい夕方のピークタイム。
お好み焼き屋の店内は熱気に満ち溢れていた。厨房からは鉄板で焼ける香ばしい匂いが漂い、お客様たちの楽しそうな会話が響いている。
私は何とか自分の担当分を焼き上げ、心の中で少しだけ達成感を感じていた。トレイの上には、綺麗に焼けたお好み焼きが並び、自分でも「今度こそ完璧だ!」と思えた。
「これでテーブルに運んだら、一息つける」と思いつつ、お客様の席に向かおうと足を踏み出したその瞬間。
「えっ!」
気付かないうちに足元の電源コードにつまづいてしまい、体勢が崩れた。拍子にトレイが傾き、載せていたお好み焼きが床に散らばった。床に広がる無残な姿を見る。心臓がきゅっと縮んだような気がした。
周りのお客様たちの視線が一斉にこちらに向く。その場で固まった私は、顔が熱くなるのを感じながらどうすればいいかわからずただ立ち尽くした。恥ずかしさで頭がいっぱいになり、「またやってしまった…」という思いが胸を打つ。
「……君、相変わらずだね」
静かな声がその場の空気を切り裂くように響いた。顔を上げると、先輩がすぐ後ろに立っていた。先輩は驚くことも怒ることもなく、淡々と状況を見つめていた。その目には鋭さがありながらも、どこか落ち着きが感じられる。
先輩は軽くため息をつきつつも、黙ってしゃがみ込み、床に散らばったお好み焼きを片付け始めた。
その姿勢に気圧されながらも、「私がやります!」と声を上げる私。しかし先輩は片手を軽く上げて制す。
「こっちは私が片付けるから、君は新しいのを作って」
先輩の行動は素早く、迷いがない。
その背中に頼もしさを感じつつも、情けない自分に対して悔しさが込み上げてくる。
私は急いで厨房に戻り、新しいお好み焼きを作りながら、さっきの失敗を何度も頭の中で反芻した。「なんであんなミスをしたんだろう」「どうしてもっと注意しなかったんだろう」と後悔ばかりが巡る。
しばらくして、先輩が厨房に戻ってきた。
手には片付けたトレイを持ちながら、新しい具材を冷蔵庫から取り出して差し出してくれる。
「これ、もう一度作るんだろう?」
その何気ない一言に、救われたような気持ちになる。
「ありがとうございます、本当にすみません!」
俯きながら謝る私に、先輩はポンと軽く頭を置きながら笑った。
「謝るより、次はちゃんと運べるように頑張りな」
その言葉には何の飾りもなかったけれど、心にまっすぐ響いてきた。私は思わず「はい!」と力強く返事をし、先輩を見つめながら「次こそ失敗しないぞ」と胸に誓った。
閉店作業が終わり、店内には静けさが訪れていた。
厨房の鉄板も冷め切り、散らばった具材を片付けた後、ようやく一息つく。
私はカウンターの片隅で雑巾を絞りながら、今日一日の失敗を振り返っていた。失敗は数え切れないほどだったけれど、先輩が何度もフォローしてくれたことを思い出すたびに、胸が温かくなる。でも、それと同時に「いっぱい迷惑をかけたな」という申し訳ない気持ちが押し寄せる。
「お疲れ様」
驚いて振り向くと、先輩が鉄板の近くで照明のスイッチを落としながらこちらに向かって歩いてきた。
その姿はどこか疲れているようにも見えたけれど、先輩はその鋭い目でしっかりとこちらを見ている。私は慌てて「お疲れ様です!」と返事をしたが、声が空回りしているのが自分でもわかった。
先輩は壁にもたれるように立ち止まり、視線を少し外しながら「あんた、今日いろいろやらかしたね」と呟いた。
その言葉にドキッとする私。
冗談か、それとも少し呆れられているのか…先輩の顔を見る勇気がなく、ただ俯いて雑巾をしぼり続ける。
沈黙が心を不安で締め付ける中、先輩は突然近づいてきた。足音が静かに響き、私の目の前で立ち止まる。
そして、ふいに体を傾けて耳元で囁いた。
「君がドジっ娘なの、意外と好きかも」
その瞬間、私の脳内は真っ白になった。
冗談か本気かもわからないまま、心臓が大きく跳ねるのを感じる。
「そ、そんなことないですよ!」
慌てて否定しようとするが、先輩は軽く首を振りながら「あんたのその反応も、嫌いじゃない」と続けた。
なんだか胸がじんわりと熱くなる。先輩の口調はいつも通り冷静なのに、まるで心の奥底まで見透かされているような気がした。
先輩は何事もなかったかのように立ち去り、閉店作業の残りを進めていった。
私は、その場に立ち尽くして、考える。
「好きかも」という言葉の意味を考えれば考えるほど、胸が高鳴り、頭の中でぐるぐると回っていく。
「私のバイト、先輩目当てになるかも」
かも。かもかも。
鴨? って、違う。
私、何言ってんだ。
学費のためにバイトを始めたんだろ!!