冷ややっこ
今日は、かーさんの給料日。
と言っても、掛け持ちしているパートの中で一番稼ぎのいいスーパーのやつだ。
私の家の食卓は、主にかーさんが仕事先で買ってきてくれる値引き商品で成り立っている。
値引き商品はそれなりに人気があって、なかなか残らないらしいけど。
「今日はさ、賞味期限まで全然余裕の高級豆腐で~す!」
一丁百円の豆腐を拝むように掲げて、かーさんが渡してくれる。
私も「ははー、ありがたきしあわせ~」と受け取って、二人で大笑いした。
主菜は冷ややっこで、副菜は野菜炒め。
萎びかけた青菜は切り花みたいに水を吸わせてから、今日が賞味期限のモヤシはしばらく水に浸けてから野菜炒めにすると美味しい。
今日は値引きシールの張られたハムも刻んで混ぜた。
「美味しい。彩夏、料理上手くなったよね」
「へへ、そうかな。嬉しい」
かーさんは午前中は弁当屋、昼間はスーパーで働き、週二でスナックのバイトに行ってる。
働きづめで、私を育ててくれてる。
私は出来るだけの家事をする。狭い家だし、女二人暮らしだから、それほどの手間じゃない。
かーさんは私にとって義理の母親だ。
『貧乏人同士でも、助け合って暮らせば楽しくやれるだろ?』
実の父親はそう言って、かーさんと結婚した。
最初は、その通りに真面目に暮らしてた。
でも、父親の勤め先が潰れてからおかしくなった。
かーさんは、一度もあいつを責めなかった。
バイトでも二人で働けば、なんとかやっていけるって励ました。
でも、父親は正規雇用にこだわっていた。
なかなか再就職できなかった父親はある日、出かけたまま帰って来なくなった。
それから三年経った。
今、私は、中学三年生だ。
私はかーさんのお陰で幸せに過ごしてこられた。
いわゆる普通の家の子じゃない私は、少し目立つのかもしれない。
同級生の中には、いろいろ言ったり、馬鹿にする人もいる。
私は、あんまり他の人の生活に興味がないから思わないけれど、興味がある人には気になることもあるんだろう。
馬鹿にされてるな、と感じても別に悔しくもなんともない。
それに、そんな子ばかりじゃない。
同級生に、老舗のお菓子屋の息子がいる。
将来は跡継ぎになることが決まっていて、家では厳しく躾けられてるらしい。
お茶席に呼ばれることもあるからと、お稽古事も、いくつかやってるようだ。
男子でお茶にお花をやってる人は、あまりいないけれど人付き合いのうまい彼は揶揄われる様子もない。
女の子のクラスメートと数人で、昨日の夕飯の話をした。
「昨夜は、冷ややっこに残り物の佃煮のせたら美味しかった」
私は、そう言った。
「え? それおかず? お酒のおつまみじゃない?
そんな夕飯、変だよ~」
「うん、ちょっと変わってるよねぇ」
佃煮のせ冷ややっこは、お醤油とは一味違って、すごく美味しかったのだ。
変だ変だと言われても、別に私は何とも思わない。
だって、家は貧乏だし。毎日、肉が食べられるような生活じゃないし。
それでも、かーさんと楽しくやってるし。
「佃煮のせ冷ややっこかー。旨そうだな。俺も真似しよ」
件の菓子屋の息子がするっと話に入ってきた。
「自分で作る?」
「さすがに、冷ややっこは自分で出来る。
モモヤ豆腐店のちょい堅絹豆腐、俺好き。一丁百円のやつ」
「あ、うち、昨夜それだった」
「お目が高い。冷ややっこならアレだわ」
「うんうん」
「え~? 豊君って男の子なのに豆腐の値段までわかるんだ」
さっき、うちの夕飯になんか言っていた女子が割り込む。
「分かるよ、俺、スーパーまで買いに行くもん。
お客さん来たり、祭事とかで手伝いの人が多かったら、お袋の手回らんし」
「お母さん、けやき堂の若女将なのに、ご飯作るの?
お手伝いさんとかがやるんじゃ?」
「どこの金持ちだよ、それ。
普通の家事もするし、あと、従業員の人たちにお昼出すから、お袋は一日中動き回ってるし」
「女将さんも?」
「もちろん。味噌汁は今でも祖母ちゃんが作ってる。
おかずも、祖母ちゃん秘伝のおから和えとか、なかなか教えてもらえんらしい」
けやき堂の女将はパリッとした和服美人。
学校の式典の来賓だった時に見たことがある。
「けやき堂って儲かってて、セレブ生活なのかと思ってた……」
女子はすっかり気落ちしていた。
なんだろう、将来の婿候補の家が思ったようじゃなかった、みたいな?
完全に話は逸れてしまい、私の家の冷ややっこは忘れられた。
女子たちが解散した後、豊君が訊いて来る。
「な、佃煮ってどんなやつ?」
「葉唐辛子」
「しっぶいな~。辛いの平気なのか? 俺も好きだけどさ」
「好き嫌いは無い、つーか、好き嫌いする余裕がない」
「そっか。……あのさ、彩夏のお義母さん、うちで働く気ない?
秋前に従業員の募集するみたいなんだけど。
俺が決めるわけじゃないから、絶対とは言えんけども」
「いやー、ありがたい話だけどさ。
けやき堂に勤めたら毎日、食事が和菓子になりかねないので」
「あー、なるほど。……って、んなわけあるかい!」
「一応、訊いてみるけど。
けやき堂って老舗だから、従業員もそれなりに茶道とか華道の心得がいるのでは?」
「うーん、販売の人はそうだけど、裏方ならいらないかな?
入ってから習う人もいるよ」
「なんか、かーさんは格調高すぎるって断る気がする」
「まあ、菓子屋はイメージも大事だしな。
ああ、それでセレブとか誤解されるんか」
「女将さんの和服姿も、パリッとカッコいいしね」
「それ、祖母ちゃんに言っとくわ。褒められるの大好きだから」
その夜、けやき堂の話を聞いたかーさんは、やっぱり断ると言った。
「豊君には、よくお礼言っておいて。
心配してくれてありがとう、って」
「うん、わかった」
「ごめんね。その話がほんとになれば、彩夏ともっと一緒にいられるのに」
「ううん。平気。それに、かーさん、今の仕事場、全部好きでしょ?」
「うん。皆、良い人だし。働きやすいんだ。
それじゃ、スナックのバイト行ってくるから。
ちゃんと戸締りしてね。なんかあったら、お隣に声かけるんだよ」
「うん。ちゃんとするから大丈夫だよ」
このアパートはボロいけど、住人は皆顔見知り。
困った時は相談して、どうすればいいのか教えてもらう。
「もうすぐ、夏休みだね」
かーさんが言った。
「どうしようか、一日中アパートに居たら暑いし」
「図書館行くからいい」
夏休みは図書館も混むけど、クーラーが効いているので、なんとか潜り込めば涼しく過ごせる。一人だと、歯抜けの席も見つけやすい。
夏休み初日の夕方、うちに珍しいお客さんが来た。
「すみません、狭い家で」
「いえいえ、突然、夜分にお邪魔したこちらこそ、申し訳ないです」
なんと、来客はけやき堂の女将。豊君のお祖母ちゃんだった。
薄ーい麦茶をそっと出して、かーさんと私はなんだか縮こまった。
「ごめんなさいね。ちょっとお願いがあったものだから」
「お願い、ですか?」
そこで、かーさんは先日の仕事の件を思い出したらしい。
「あ、先日はお孫さんに仕事のことをご心配頂いて。
ありがとうございました」
「いいえ。スーパーでお見掛けしても、しっかり働いていらっしゃるから、前向きに考えてもよかったのですけど。
今のお仕事を楽しんでらっしゃると聞きました」
「ええ。おかげさまで」
「それは何よりです。
今日は、お母様ではなくて彩夏さんにお願いがあって」
「私、ですか?」
「ええ。彩夏さん、夏休みの間、私の付き人をしてくれないかしら?」
「付き人?」
「実はね、この暑さのせいか、少し体調が悪くて。
幸い、店の方は嫁も頑張ってくれているので大丈夫なんですけど、外での用も結構あるので。
どうしても私が行かなければならない時に、そばに付いてくれる人がいると安心でしょう?」
「ですが、彩夏はまだ中学生ですし」
「こちらの都合ですけれども、気を遣い過ぎる人が側に居ると、かえって疲れます。
一緒にいて、どうしても困った時に、タクシーを呼んでくれたり、人を呼んでくれたりするような人が欲しいんです。
ほら、例えば、お手洗いで具合が悪くなりそうだったりする時もあるじゃないですか?
……ああ、二人とも若いから、分からないかもしれないけど」
女将さんは苦笑した。
「少しなら分かる気がします」
「彩夏?」
「ほら、かーさん、高田のおばちゃんが玄関で倒れたことあったでしょ?」
去年の夏、同じアパートに住む高田さんの奥さんが玄関前で倒れていた。
何か変な音が聞こえたかも、と通路を覗いて気が付いた。
その時は、他に大人がいなかったので私が救急車を呼んだのだ。
その話をすると、女将さんは頷いた。
「そうなのよ。若い時とは違って、無理がきかなくてね。
もちろん、無理しないのが一番だけど、誰か付いててくれれば安心できて、ストレスも減るでしょう?」
女将さんの外出する用事は、毎日というわけではなかった。
それと、付き人なのでバイト代を出すという。
「中学生のアルバイトは確か、職種が限られていたのでは?」
かーさんが心配げに訊く。
「その辺のことは、いつもお願いしている弁護士さんにきっちり確認するから、大丈夫ですよ」
「そこまでなさって、うちの子を?」
「孫から聞いたんです。
彩夏さんが、私の着物姿がパリッとしてカッコいいって言ってくれたって。
なんだか嬉しかったんですよ。付き人をお願いしたいのも本当だけど、たまには若い女の子と話してみたくて。
どうかしら?」
かーさんは考えていた。
女将さんは、私に向かって言った。
「彩夏さんは、どう? 会議の時、ロビーで待っててもらったりしなきゃいけないし、退屈なこともあると思うけれど」
「本を持って行ったら、読めますか?」
「ええ、大丈夫だと思うわ。たいていのロビーにはまあまあのソファがあるから。なければ、パイプ椅子ぐらいは借りられるでしょう」
「冷房があるところで、本が読めるなら最高です」
「あら、よかったわ」
「あの」
かーさんが考え終わったようだ。
「アルバイトではなく、社会見学ということで、バイト料無しなら私は許可したいと思います」
「失礼ですけど、経済的にはいかがなの?」
「カツカツですけれど、何とかなってます。
そういう事情もあって正直、この子と一緒に外出する暇がなかなかありません。
ですから、女将さんのようなしっかりした大人の女性の側で、その立ち居振る舞いを見るだけでも勉強になると思います」
「なるほどねえ。彩夏さんは、どう思う?」
「かーさんに従います。
あの、私が一緒に行くことで、交通費とかいろいろかかりますよね」
「そうね。もちろん、私が払いますから心配いらないわ」
「それで、充分です。本も読めそうだし」
「お二人がいいなら、私に異存は無いわ。では、明日にでも予定を報せるわね。
本当に夜分にごめんなさいね。ああ、これ、店の商品だけど良かったら召し上がってね」
「まあ、こんないいものを。ありがとうございます」
「ありがとうございます」
二人同時に頭を下げた。
「ふふ、親子で息がぴったりね。じゃあ、おやすみなさい」
女将さんのお土産は、けやき堂の詰め合わせ。
「うわー、本物の高級菓子だ!」
「夕飯の後だけど……」
「かーさん、私は我慢無理、食べたい。お茶淹れる」
「うん、今日は特別だ」
どら焼き最高!
かーさんと私は麦茶で乾杯した。
三日後が初仕事、じゃなかった初見学の日になった。
指定の時間より少し早くけやき堂に行くと、店員さんが「少しお待ちください」と言ってベンチを勧めてくれる。
包装待ちのお客さんが座る場所に腰掛けると、少しして女将さんが出てきた。
「おはようございます」
「おはよう、彩夏さん。お待たせしたわね」
「いいえ、少し早く着いてしまいました」
今日は、県の和菓子組合の定例理事会だと聞いている。
タクシーで繁華街にある和菓子組合に向かった。
「和菓子組合のロビーのソファは、わりと新しいから座り心地がいいはずよ」
本の入ったトートバッグを抱える私に、女将さんが教えてくれる。
組合の建物は、裏通りに面している。
女将さんに続いて中に入ると、受付の女性が迎えてくれた。
「藤江さん、こちら、私の付き人の彩夏さんよ。
会合の間、ここで待たせてもらって大丈夫かしら?」
「はい、今日は他に会議も入っていませんし、人の出入りは少ないはずです。
私もずっと受付にいますから、何かあったら相談してください」
「よろしくお願いします」
私は頭を下げた。
「じゃあ、お願いするわね。
彩夏さん、一時間くらいしたら休憩になるから、その時はお願いね」
「はい、わかりました。行ってらっしゃい」
「はい、行ってきます」
女将さんはにっこりすると、会議室の方に歩いて行く。
受付の藤江さんは三十代くらいの綺麗な女性だ。
「窓際のソファをどうぞ。明るすぎたら、他に移っても大丈夫ですよ。
それから、こちらに給茶機があるので、自由に飲んでください」
「ありがとうございます」
紙コップの給茶機は飲み放題らしい。
一応、ペットボトルの水もバッグに入っているけれど、ありがたくいただこう。
涼しくて静かな空間、美味しいお茶、座り心地の良いソファ。
読書が捗る。
「彩夏さん、どう?」
一時間経ったのだろう。女将さんがロビーに現れた。
「はい、すごく読書が捗りました」
「まあ、良かったわ。お手洗い、付き合ってもらえる?」
「はい」
「三分ぐらい経っても出て来なかったら、ちょっと声かけてくれる?」
「わかりました」
私はしばらく廊下のベンチで待つ。
ここは、男子トイレと女子トイレが並んでいないので、廊下を通るのは女性ばかりだ。
女将さんは無事に出てきた。
「ありがとう、大丈夫だったわ。具体的にはこんな感じでお願いするわね」
「はい」
それからさらに一時間。持ってきた本を読み終える頃、会議が終わった。
「さてと、今日はだいたい予定通りに終わって良かったわ」
「お疲れさまでした」
「ふふ、ありがとう。
ねえ、彩夏さん、時間は大丈夫かしら?」
「はい、今日は母のスーパーの仕事が早上がりなので、夕飯の心配はいらないって言われてます」
「いつも、あなたが食事の支度を?」
「ご飯を炊いて、お味噌汁を作るくらいですけど。
あとは野菜炒めとか」
「ふんふん。じゃあ、ちょっと軽い食事に付き合ってくれる?」
「はい……具合は大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ。店に帰るとすぐに仕事モードになっちゃうから、少し息抜きしていきたいの」
「わかりました」
女将さんと一緒に表通りまで五分ほど歩く。
「モモヤ豆腐茶屋?」
「ええ、ここモモヤ豆腐店の出しているお店なの」
時間は午後一時を回っていて、席の埋まり具合は三割ほど。
「いらっしゃいませ」
お茶を持ってきてくれた店員さんが私にもメニューをくれた。
「食べたいものがあったら何でもどうぞ。
お豆腐屋さんだから、あんまりガッツリしたものは無いけどね」
厚手の和紙で出来たメニューを開くと、写真はなく筆で書かれた文字だけ。
「わぁ、綺麗な筆遣いですね」
「おや、若いのに渋い感想ねぇ」
和紙には押し花が漉き込まれていて、それも綺麗だ。
木綿豆腐、絹ごし豆腐、寄せ豆腐、豆乳、湯葉……目移りする。
「種類が多くて難しいです」
正直に言うと、女将さんは微笑んだ。
「じゃあ、この食べ比べセットはどう?」
「はい、それでお願いします」
「私は、お酒を一口頂きたいけど止めておくわ」
注文するとすぐに料理が運ばれて来た。
細長い皿には、五種類のお豆腐。
「お醤油や塩をかけてもいいんだけど、まずはそのまま味見するのがお勧め」
五種類全部少しずつ味わってみる。
すごく濃くてクリーミーな味のもの、濃くてもさっぱりしたもの、どれも美味しい。
「どう?」
「美味しいです。食べたことない高級な味?」
「そう。他には?」
一つだけ気になるものがあった。
「この、真ん中のお豆腐。スーパーで売ってる一個百円のちょい堅絹豆腐と同じ味な気がします」
「まあ、大正解!」
丁度、汁椀を持ってきてくれた店の人も頷いていた。
「お若いのに、味が分かってらっしゃいますね。
当店の豆腐をご贔屓にしてくださってありがとうございます」
「……い、いえ」
なんて言ったらいいのかわからない。
百円のお豆腐、しょっちゅう食べてるわけじゃないし。
「そうそう、葉唐辛子の佃煮を載せても美味しかったって聞いたわよ」
教室で豊君としていた話を、女将さんも聞いたようだ。
「お醤油みたいに全体に広がらなくて、ギュッとしょっぱいのとふわっとした豆腐の味が良かったです」
「あらまあ、大した舌だわよ」
「本当ですね。
こちら、食べ比べセットのお吸い物になります。
熱いですから気を付けてどうぞ」
お豆腐を味わうために、敢えて後から出すという吸い物。
具はシメジとネギにワカメ。
塩気は薄い。
「お出汁が美味しいです」
「そうね。
彩夏さんの家では、味噌汁に何の出汁を使っているの?」
「うちはナナネ食品の顆粒だしです」
「そっか。顆粒だしも、今ではずいぶん美味しくなったんでしょうね。
出始めの頃は、ちょっと不自然な味で敬遠したものよ。
……って、あらぁ嫌だわ。年寄臭かったわね」
「いえ。女将さんはどんな出汁を使うんですか?」
「私は鰹節と昆布を使うわね。出汁を取るところから始めるの」
女将さんはキョトンとした私に気付いた。
「ああ、そっか。ちゃんと説明しないとわかんないわね」
そこから、お出汁の取り方を教えてもらった。
そんなに手間のかかる作業を味噌汁のためにするなんて、驚きだった。
「このお吸い物も、そういう出汁で作っているんですね」
「そうかもしれないけれど、そうではないかもしれないわよ。
自然な味の顆粒だしが使えるのなら、例えば、店独自の配合でダシの製造元に頼んで作ってもらうことも出来るだろうし」
「訊いたら教えてもらえますか?」
「企業秘密だろうから、訊かないほうがいい」
「はい、わかりました」
女将さんは悪戯っ子みたいに笑った。
その日から四日に一回くらいのペースで付き人をした。
会議以外にも、お得意様への贈り物を探しに行くとか、他の和菓子屋さんの店先を視察するとか、日によって用事はいろいろだった。
用事の後は毎回、どこかで休憩。
バイト料をもらうより、飲食料金のほうがずっと高くついてる気がする。
「私も一人で出かけたら喫茶店一つ入るのも億劫だから、付き合ってもらえると嬉しいのよ」
女将さんはそう言うので、有難くご馳走になる。
そういう時は雑談の時間。
お出汁の話に始まって、いろいろな話を聞かせてもらった。
昔の洗濯機はローラーに挟んで脱水してたとか、テレビにはテーブルみたいに脚が付いてた時代があるとか。
そういうものを展示する博物館もあるから、いつか機会があったら行ってみましょうか、と誘ってもらった。
幸いにも、付き人をした期間中に女将さんが体調を崩すことは無く、私の社会見学は無事に終了した。
「え? 女将さんが入院?」
学校が始まり、いつも通りの生活が戻って半月ほどしたころ、豊君が教えてくれた。
「大したことないらしいけど、今まで少しの不調ならって騙し騙し働いてたみたいで」
主治医に勧められて人間ドックを受信したそうだ。
手術するような病気は無かったが、二週間ほど入院して体調を整えることになったという。
「お見舞いに行きたいな」
「うん、彩夏ならそう言ってくれるかなって祖母ちゃんが。
でも、退院してから自分で会いに行きたいって」
「そっか」
その夜、かーさんにその話をした。
「そうだね。入院中は療養に専念するのが一番だろうね」
「かーさんは入院したことある?」
「無いよ。ほら、子供も産まなくても出来ちゃったし?」
「出来ちゃったんだ」
「出来ちゃったんだよ」
うはは、と笑ったけど、ちょっとだけ苦い。
いつか、父親のことなんて忘れたい。
私の親は、かーさんだけでいい。
十月に入り、かーさんと高校進学の話をした。
「なんとか頑張れば、公立行けると思うんだけど。
彩夏、成績もいいし、給付型の奨学金がもらえる可能性が高いんじゃない?」
「それだったら、私立の授業料免除を狙ったほうが安くつくと思う」
「うーん、どうしても私立一択?」
家から通える私立で、成績次第で授業料が免除される高校がある。
奨学金をもらうのに成績は問題ないと担任のお墨付きだ。
それでも、試験に失敗することもあるだろうし、アクシデントも起こりかねない。
だけど、試験に落ちるのも、不運に見舞われるのも同じことだ。
進学できるか、できないか、どっちかに道がつながるだけ。
これ以上、かーさんが仕事を増やして身体を壊したら、後悔してもしきれない。
奨学金が受けられない時は、高校入学を諦める。
私はそう決めた。
私の頑固さをよく知っているかーさんは、あっさりと引き下がる。
「あんたなら、学校へ行かなくても、したい勉強はするだろうしね」
私たち親子の進学会議は穏やかに終わったのに、それをぶち壊すようなことが起きたのは、月末近くだった。
三年ぶりに帰って……いや、訪ねてきた父親は、小綺麗な格好をしていた。
見たことのない包装紙の菓子折りを土産だと言って差し出して来る。
仕方ないので、かーさんは上がるように言った。
「彩夏、中学卒業後は俺と暮らそう。
佐登子、いや佐登子さん、今まで娘の面倒を見てもらって済まなかった。
高校からは俺が引き受けるから、あんたは楽になってくれ」
そう言って、かーさんに離婚届を差し出す。
「一緒に暮らしてる人がいるんだ。今は、その人の商売を手伝ってる。
彩夏を引き取ってもいいと言ってくれてて……」
かーさんと私は絶句する。
「……これまでの養育費は、少しずつ払うつもりだ」
沈黙に不安になったか、父は言い訳を始めた。
トイレに立った時に、豊君に連絡した。
『いやさ、こういう時、まずは土下座でしょ! 土下座!』
『あーうん、そうかもな。それより、父暴れる人?』
『それはないと思うけど』
ちなみに父、やせ型非力小男。かーさん、立ち仕事で鍛えてる。
殴り合ったら、まず、かーさんが勝つ。
なんなら、わたしも加勢する。
戻ってみると、まだ、父親が一人で喋っていた。
「確かに俺が悪かったけど、何か言ってくれないか?」
「………」
気まずい沈黙が続くようになり、しばらくした頃、呼び鈴が鳴った。
戸を開けると、女将さんだ。
その後ろにはマッチョな男の人。いいスーツを着ている。
「失礼。ちょっと割り込ませていただくわ」
「どなたです?」
「彩夏さんと、そのお母様に縁のある者です。
だいたいのお話は存じてますわ」
「よその人が首を突っ込むことじゃ」
「まあまあ、こういうことは冷静な第三者を挟むべきですよ。
大人の話し合いをしましょう」
女将さんはさっさと上がって、正座した。
狭い四畳半はそれで満杯。
マッチョマンは台所で立っている。
女将さんも座ったまま黙っているので、父親は焦り始めた。
直接、私を口説きにかかる。
「彩夏、これからは俺と暮らそう。
お前だって、実の親といたいだろう?」
「嫌だ。私はかーさんと暮らしたい」
「え?」
父親はなぜかショックを受けていた。
私はかーさんの腕にしがみつく。
「お前の親は俺だぞ」
「あんたなんか親じゃないもん」
「なんだと!」
手を挙げかけた父親を、かーさんが静かに睨みつけた。
少しびくっとして、父親は手を下ろす。
「結論は出たようですね」
女将さんが言う。
「俺の娘なんだから、俺が引き取るのが筋だろう……」
マッチョマンが割り込む。
「事故や事件に巻き込まれたわけでもなく、ご自分の理由で蒸発して娘さんを放置していた。その間、しっかり娘さんの世話をなさっていた奥様を蔑ろにするのはどうかと思いますが」
「あんたは誰なんだ!?」
女将さんが笑顔で告げる。
「うちで何かあった時に相談にのっていただいている弁護士さんですよ。
もしも、法的にどうこうという話になったら、私から彼に彩夏さん親子の手助けをお願いしようと考えています。
話を聞いてもらった方が早いから、同行をお願いしたの」
「弁護士……」
とうとう父親は黙った。
「養育費を支払われると伺いました。
他にも、慰謝料などありますから、こちらで計算して書類を送ります。
連絡先を教えていただけますか?」
結局、父親は言われるままに住所などを答え、挨拶もせずにふらっと帰ってしまう。
家の中にはまだ、女将さんと弁護士さんがいたけれど、私は力が抜けた。
「彩夏?」
気が付けば涙がポロポロ零れて止まらなかった。
「……かーさん」
「うん、どうした?」
「私、かーさんと一緒にいたい。
私のせいでお金がかかるなら、自分で働いて払うから」
「うん、わかった。一緒に頑張ろう」
抱き寄せられて見上げると、かーさんも泣いてた。
女将さんの優しい声がする。
「よかったわ、二人は心を決めたのね。
ねえ、私から提案があるんだけど、話だけでも聞いてもらえるかしら?」
あれから一年経った。私は今、私立高校の一年生。
成績をキープして奨学生を継続すべく頑張っている。
この高校は、自由を尊重する校風。
勝手にしろ、というのではなく、各自の目標を一番に、というものだ。
プロのスポーツ選手やタレントを目指すような人のために、時間割を変更することにも柔軟に対応してくれる。
私にはまだ、具体的な目標はない。
ただ、かーさんや女将さんみたいな大人になりたいと思う。
私を守ってくれた、助けてくれた人たちみたいに、いざという時に誰かを守れる、助けられる人になりたい。
「警察官とか看護師さんとか?」
「それもいいね」
「制服が、いいよなー」
「そっちか!?」
菓子屋の跡取り、豊君とは同じクラスだ。
「制服、大事だろう。ところで今日、一緒に帰ろう」
近くにいたクラスメートが、ん? と反応した。
こいつら、付き合ってるのか、と思ったかも。
「お稽古日だね」
「そう。サボると師匠が怖い」
そういう話じゃなさそうだと、クラスメートの興味はすぐに逸れた。
ここの生徒は、たいてい自分方向に集中している。
絡むような面倒臭い奴には今のところ会ってない。
「ただいま」
「ごめんください」
「いらっしゃいませ。おかえりなさい」
奥から迎えに出てきたのは、かーさんだ。
「なんか、いい匂いしてる」
「今日はケーキを焼いたの。お稽古の前に、どうぞ」
「嬉しい!」
「楽しみです」
今住んでいるのは、前のアパートじゃない。
父が帰ったあの後、女将さんはこんな話をした。
「私ね、隠居することにしたの。身体の不安もあるし、そろそろ息子夫婦に店のこと全てを任せる頃合いだしね。
同居だとつい口出しするから、別居するつもりなの。
夫は先に逝ってしまったけれど、二人の隠居用に買った別宅があるから」
ここからが本題だと言わんばかりに、女将さんは姿勢を正した。
「それで、住み込みの家政婦さん募集中なんだけど。
出来れば、子連れがいいわねえ。中学生くらいの女の子だとなおいい」
そう言いながら、笑顔でかーさんと私を見つめた。
それって、つまり?
「……そうですね、私もそろそろ、気持ちを切り替えないと。
彩夏、このお話、お受けしようと思うけど、どう?」
「女将さんの家で、一緒に暮らすってこと?」
「彩夏さんと話したいこと、まだいっぱいあるのよ。
どうかしら?」
「私も、女将さんともっと話したいし、いろいろ教わりたいです」
座り直したかーさんに倣って、私も姿勢を正した。
「女将さん、どうか、よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いいたします」
「ありがとう。こちらこそ、どうかよろしくね」
それからしばらくして、かーさんはパートを全て辞め、二人で女将さんの家に引っ越した。
引っ越しの日は、女将さんが夕食を作ってくれた。
「今日はお祝いだから」
ちらし寿司にお吸い物、煮物やぬか漬け。全て和食だ。
「お口に合うといいけれど」
「すごく美味しいです」
「まあ、本当に料理もお上手なんですね。
私、家政婦つとまるかしら……」
「大丈夫よ。毎日、余所行きの料理を食べてたら肩がこるじゃない?
普通の家庭料理でいいの。
たまに一緒に作りましょう。教え合えばレパートリーが増えるわ」
「秘伝のおから和え……」
前に、豊君に聞いた料理を思い出した。
「別に秘伝でも何でもないんだけど、もちろん教えるわよ」
女将さんはケラケラと笑った。
実は、おから和えは嫁いで直ぐの若女将に教えたのだそうだ。
若女将が自信がないからと試行錯誤しているのを誤解されたらしい。
「いい嫁なのよ。でも、私のことを立て過ぎだったわね。
確かに私は、お出汁にこだわってたけれど色んなものがあっていいの。
時代は変わるし、舌も変わるんだから」
女将さんは女将さんを引退したけれど、お茶とお花の免許があるので、この家でお教室をやっている。
学び直したい経験者とか、おさらい希望のけやき堂社員とか。
女将さんの顔見知りの人が来ている。
実は、お教室をやると聞きつけた取引先の社長などから身内の娘を通わせたいという連絡がかなりあったのだ。
そこまで本格的に教えるのは、もっと新しい生活に慣れてから、とお茶を濁しているという。
「要するにね、私に顔を繋いで、けやき堂の嫁候補として売り込みたいのよ」
「……豊君の嫁」
「引退した私が店に関わることに口を出すつもりは無いんだけどね。
なんか、影の実力者みたいに思われてるのかしらね」
食後のお茶の時、女将さんが少し居住まいを正した。
「これから同居するにあたって、ひとつお願いがあるの」
「なんでしょうか?」
「今まで女将さんって呼んでくれたでしょう? 今後は……」
「奥様?」
「柄じゃないわね」
「ご主人様」
「やめてちょうだい!」
思わずみんなで笑った。
「あのね、あなたたちが嫌でなければ、お母さん、お祖母ちゃんと呼んでもらえないかしら?」
「え? いいんですか?」
かーさんは言葉が出ないようだ。
かーさんは子供の頃に両親を亡くしている。
親戚の家に預けられて、だいぶ苦労したらしい。
「……お母さん」
そう言う、かーさんの目がウルウルしてた。
「はい、これからほんとに、よろしくね」
ダイニングに行くと、紅茶が湯気を立てていた。
「おかえり、豊、彩夏」
ポットを置いた女将さん、いや、お祖母ちゃんが迎えてくれる。
「ただいま、祖母ちゃん」
「ただいま、お祖母ちゃん!」