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第5話 拓跋珪

「ふ、馮安ふうあん様!」

「どうした、鮑遵ほうじゅん

「我らはいま、迅雷の攻め手にて苻丕を打ち取りました、ならば拓跋珪とて――」

「やめておけ」

「いっ、いかなる故にございますか?」


迫りくる騎兵団の、その寸毫すんごうとも揺らがぬさまを目の当たりとし、馮安は嘆ずるよりほかなかった。


「やつの率いる、その一軍が我らに等しい。ならば鮑遵、おまえは六倍する自身を向こうに回し、どう勝ちを収めようというのだ」


いきなり現れた新手、その威容にうろたえる。ひととしてごくありふれた気持ちであろう。ならば、そこを責めたところで意味がない。鮑遵の肩に軽く手を置けば、わずかに震えているのがうかがえた。

いや、あるいは、自身の震えか。


慕容永ぼようえいどの」


迫りくる大軍を前に、ひとり泰然自若であるものに向け、問う。


「何が起こっているかを把握なされておるのは、どうも貴公お一方のようだ。少しでも良い、お教え願えまいか?」


す、と慕容永の目つきより、熱が落ちた。

たちどころに、馮安は気付く。

「仮面を、脱ぎ去った」のだ。


「見ての通りよ。われ拓跋たくばつを引き入れたのだ。なに、ふう公。そなたには大いにご尽力いただいた。悪いようにはせぬともさ」


その口ぶりまでもが違う。

手綱を取り、押し寄せる軍勢に向け、悠然と馬を進める。それからちらりと馮安に目をくばせてきた。ついてこい、とでも言わんばかりである。


応じるよりほかない。矛は従者に預け、腰に剣を帯びるのみで、続く。


軍気、とでも呼べばよかろうか。

拓跋の旗が近づけば近づくほど、馮安の総身を熱とも冷気とも呼びきれぬ何かが刺す。この感覚を、馮安は良く知っている――それは、はじめて慕容垂ぼようすいと対峙したときのこと。


あのときの馮安は、たちどころに悟った。勝てぬ、と。

今よりも遥かに幼く、未熟であった頃のことである。だが改めて、同じきものを目の当たりとしてみれば。


慕容永は最前に出たところで、馬を降りてひざまずく。包拳を高く掲げ、自らの顔は伏せる。

掲げる高さは、すなわち対手に払うべき畏敬の念の高さでもある。


馮安は、拓跋珪たくばつけいを知らない。ただし軍気に当てられさえすれば、わかる。今ここで慕容永に倣わなければ、たちどころに、滅ぶ。

慕容永より馬一頭ぶん後ろで止まり、下馬。慕容永と拝礼を同じくする。


「よもや無事生き延びるとはな、慕容永! きさまの豪運、賭けてみたかいがあったわ!」


その音声、特段怒鳴っていたようでもない。しかし、大いに耳を叩く。

何よりも驚かされるのは、その若さ、である。声の張りからして、齢三十にも届くまい。だというのに、なんと底知れぬ響きを孕むのか。


代王だいおうよりのご支援を賜り、こうしてしん氏に奪われたえん人二十万の奪還叶いました。まこと、感謝申し上げます」

「要らぬ言葉よ! おれには関中かんちゅう擾乱じょうらんが必要であった! たまたまきさまと利害が合ったにすぎぬ!」

「恩は恩にございますれば」


どがら、と単騎が前に出たのがわかった。


「まぁ、良かろう! それで? きさまとおれとの約定は果たされた! ならばこの先に何を望む?」

「代王の扶翼ふよくとしての、燕祚えんそ光復こうふくにございます」

「ほう?」


気配が、やや剣呑けんのんさを帯びる。総身に冷たい汗が噴き出す。

上目遣いにて、慕容永の様子をうかがう。その首筋には、やはり滂沱ぼうだと汗が染み出ていた。


「顔を上げろ、いつまでも伏せられていては聞けるものも聞けぬ」

「――は」

「合わせて、馮安とやらもだ」

「は?」


思わず、声を上げてしまった。

とは言え、命は命である。顔を上げ、はじめて代王の姿を目の当たりとする。


大きい。

体格、のみではない。その自信か、あるいは傲岸ごうがんさは、天下を飲み尽くすことになんの疑問をも抱いていないかのように思われる。連れ立つ騎兵らも、また驃騎。ひとりを討つのに、はて、こちらがいかほどの犠牲を払わねばならぬやら。


「大叔父上が語っておったぞ、おれには過ぎた将である、とな。きさまの一騎駆けについては、こちらでも見届けさせてもらった。老いてますます盛んとは、まさしくきさまのことだな」


「い、痛み入りましてござる。なれど、大叔父上――とは?」


拓跋珪が、ひととき止まり。

ややあって、呵々と笑う。


「そうか、きさまは知らぬのか! おれの祖母は、慕容垂どのの姉よ! その縁を差し置いても、あの御方には多くのことを教わった! いま、おれがここに立つも、あの御方よりの導きなくば叶わなかったであろうな!」


だが、その笑いが、一息もせぬ間に――凍る。


「慕容永。燕祚の光復とはよくも言ったものよ。ならば燕地に軍を率いる大叔父上は、僭称せんしょうの大逆をなしておられる、ということで良いな?」


言葉にして、刃。拓跋珪が慕容永を見れば、背後に立つ騎兵らの殺気もまた、慕容永へと注がれた。


「さにあらず。大逆は垂の祖父、かいにございます」


それは、あらかじめ用意してあった言葉でもあったのだろう。とは言え、祖父とは。あまりにも奇をてらいすぎておりはすまいか。


「大いなるわが祖父、慕容雲ぼよううん。慕容の統帥は本来祖父に継承されるべきものでございました。なれど祖父は廆の奸計に嵌り、その身を貶めねばなりませんでした。廆の血筋は、燕の地を統べおおせこそすれど、しょせんはかりそめの王位。故にこそ秦氏に土地と民を奪われるに至ったのです。いま、天罰はくだされ、新たなる世が始まらんとしております。偽りの慕容は役目を終え、正しき慕容が、拓跋の旗がもと、燕の民を導くときが参ったのでございます」


迷いなき慕容永の言葉は、しかし理路としては大いに破綻したものである。

口に上った、慕容廆。仮に慕容永の祖父が奸計に陥れられたところで、その血統は確かに百年もの間北方の覇者足り得たのである。まして、いま燕の地の輿望よぼうを一手に集めるのは、間違いなく慕容垂、慕容廆の孫。まかり間違っても、慕容永ではない。


ならば、ありえぬはずのことがあり得る、と考えるしかあるまい。

それを裏付けるかのように、拓跋珪が、くっと笑う。


「百年の逼塞ひっそくの末、よくものたまうものよ!」

「古には、光武帝こうぶていの例もございます」


――拓跋珪は、既に慕容垂との開戦を決意しているのであろう。

そうでなくば、慕容永とこのような言葉遊びに付き合う義理もあるまい。


改めて、慕容永が包拳を示す。


「いま、苻丕を打ち滅ぼして得たるこの地は、我らにとりてはただの道。ならば王に献上仕りましょう――どうぞ、王よ。ここよりは、王をお名乗り遊ばしませ」


ふん、と拓跋珪が鼻を鳴らす。


「口上はもう良いわ! ならば勝ってみせよ、その武をおれに示せ! しかる後にであれば、諸々考えてやらぬでもない」


拓跋珪よりの下賜品、慕容永よりの献上品が交換される。その中には慕容永の嫡子の姿もある。慕容永が約定を違えれば、かれは遠い異国の地にて殺される。自らのさだめをよくよく弁えていたのであろう、拓跋珪らが馬首を返したあとも、慕容永の息子はずっと父を見つめていた。当の父はじっと頭を垂れたままであったが。


拓跋珪らが遠く離れてから、はじめて慕容永は面を上げた。満身を濡らす汗もそのままに、長く、長く息を吐く。


馮安は、そんな慕容永の胸元をつかみ上げた。


「きさま、なにを語った! よりにもよって、慕容垂どのを、だと!」


慕容永の冷ややかなまなざしは揺らがない。

代わりに、兵たちが馮安に刃を突きつけてくる。その気配を察するのと、慕容永に振りほどかれるのが、ほぼ同時。


「そなたがかしづくは、燕祚に対してであろうに。ならばその功に免じ、この無礼までは許そう」


両者の間に、兵らが割って入る。抵抗する暇もなく馮安は後ろに追いやられ、もはやいかほどの長さの槍であれ、慕容永には届かない。


「わきまえろ、馮安。そなたとて、あれを目の当たりにしたではないか。誰があれに勝てるというのだ? あり得るとすれば、それこそ慕容垂どのくらいではないか? しかし、あの御方がお隠れになったあとでは?」


冷厳なる言葉に、返す言葉を失う。

馮安自身、うすうす感じていたことであった。燕国は、あまりに慕容垂の強さに寄り掛かりすぎている。才人がおらぬでもない。しかし、突出しすぎた軍才は、いきおい後進の牙を折る。


「分かるか? あれと対等であってはならんのだ。恭順の意を示し、隙をうかがう。我らも痛いほどに感じ取っておることよ、覇者の才は、必ず子に譲られるものでもない。ならば、時を待つのだ。慕容垂どのは、それをやるには大きくなりすぎた。ならばせめて、我らの手で葬るのが情けというものではないか?」


その言葉の裏に潜むものが何であるか、うかがい取る事はできない。ただ、分かることがある。戯れで語っていることでは、ない。


「それがきさまの語る、慕容存続の道、ということか?」

「そう。払わねばならぬ犠牲だ」

「犠牲――」


不意に、馮安の脳裏にかすめるものがあった。


「きさま、まさか!」


その言葉を、あるいは慕容永も待っていたのだろう。その手が掲げられると、一台の車が場に現れる。

そこには慕容忠ぼようちゅうを始めとした、燕の皇族の死体が載せられていた。


――なお、拓跋珪は間もなく魏王を自称するようになる。

のちの北朝、北魏ほくぎである。

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