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グラシェーナは高を括っていた。というよりも、想像力が欠如していた。
類稀なる頭脳を持ち合わせている彼女は、もちろん賢い。情報や統計に基づき結果を導き出す事など容易くできる。
しかし想像に於いては、いまだ10歳の少女そのものであった。
手ずから厳選した者に試行錯誤しながら誂えた豪奢な衣装を纏わせたら、自身はどう思うのか、何を感じるのか。
その想像が足らずに取り返しのつかない事態を招いてしまう───
隣室から扉をトントンと叩く音が響く。アリテアが着替えを終えたのだ。
入室を許可すれば、おずおずと顔を出したが一向に入る気配が無い。
「入れと言ったのだ。さっさと此方へ来るがよい」
「はっ、失礼します……」
観念したアリテアは自暴自棄に歩み寄ったが、その振る舞いはいっそ堂々としていた。
自棄になろうとも令嬢故に動作は優雅で、肉体言語で語り合うマルスル国の令息が持ち得ない気品と凛々しさを兼ね備えた風格があった。
「御命令通り、着替えて参りました。……いかがでしょうか」
不安げな眼差しを受けたグラシェーナは、しげしげと全身を眺めた。
形こそ令息の衣装だが、全体にあしらった婦人服のような刺繍とレースが華やかさを演出している。
細やかな装飾は、アリテアの印象をより中性的に見せた。
全体の配色も黒髪と青い瞳が映える出来上がりに、グラシェーナは達成感以上の何かを感じた後───
「い、息が……この胸の痛みと熱は一体……?」
───動悸、息切れ、発熱の症状があらわれ始めた。
「え……あの?」
着替え前と打って変わったグラシェーナの態度に動揺するアリテア。
腐ってもマルスル王国の貴族令嬢である。
敬愛すべき王女のただならぬ様子を心配し、そっと顔を覗き込んだ。
その行為によって悪化の一途を辿るとも知らずに。
「グラシェーナ王女殿下、お加減が優れないのですか?」
「うっ」
グラシェーナの顔は赤く、口をはくはくと動かし呼吸が苦しそうな様子だった。
この王女がこんな姿を見せるなど、自分が部屋を出ている間に何かあったに違いないと思い至ったアリテアは、無礼を承知でグラシェーナを横抱きに持ち上げる───例に漏れずアリテアも体を鍛えているため、グラシェーナくらいの少女を持ち上げるくらいどうという事は無いのだ。
しかし、そんな思いを知らないグラシェーナはただただ焦るだけであった。
「其方なにをっ!? お、降ろせ……!」
「医師のところへお連れします。どうぞ私に身を委ねてください」
「ひうっ……」
凛々しい表情で間近に迫られ、悲鳴ともつかない声を上げるグラシェーナ。
そうしてこの瞬間、ふと思い出してしまった。
かの国の恋愛小説『花々と麗しき令息』でも、主人公のアルトゥールが今のように令嬢を抱き上げる場面があったな、と。
唐突に小説の内容を追体験している錯覚を覚え、グラシェーナの体中がどんどんと熱を帯びていく。
抱き上げているアリテアも気づいたのだろう、先程よりも表情に焦りが見てとれた。
「殿下、急に熱が上がって……!?」
男装したアリテアを見てからというもの、謎の不調がグラシェーナの体を蝕み続ける。
どう考えてもアリテアが原因なのだが、なぜそんな症状があらわれるのか。グラシェーナにはそれがわからない。
「い、医師に診せる必要などない!」
「しかし殿下……」
「これは命令だ! 今すぐ降ろせ!」
「は……承知しました」
グラシェーナの心情はつゆ知らず、腕の中の王女殿下を見遣り苦しいのだろうと憂慮していたアリテアは、渋々と腕から解放した。
やっと人心地つけるとアリテアから背を向けたグラシェーナだっだが、今度は切ない痛みが疼き始める。
───もっとアリテアの姿を見ていたい。
その事実に気づいた時、グラシェーナは雷に打たれたような衝撃と共に理解した。
「もしやこれが…… 麗しい貴族令息の、魅力なのか……!!」
突如としてグラシェーナを襲った様々な症状。
それはもちろん病でも何でもなく、ただ男装したアリテアの魅力に当てられていただけだったのである!!
「なるほど、恋物語の題材にされる理由がわかるな」
「お一人で何を納得されておられるのです? もうお加減はよろしいのですか」
頷いていると、背後のアリテアから声が掛けられたが、グラシェーナは否と応えた。
「その姿は私にとって目に毒だという事がよくわかった。もう着替えるがよい」
「お、お待ち下さい!」
やけにあっさりと解放されそうになり、焦燥感を覚えたアリテアは声を上げ、グラシェーナへ向き直る。
もしかしたら、何も無かったようにこのまま帰されるのでは……そう思ってしまったのだ。
「どこかお気に障ったのでしたら謝罪いたします! ですからどうか……どうか!」
アリテアは約束を反故にされないよう、それはもう必死に、令嬢らしからぬ勢いでグラシェーナに詰め寄った。
焦る余り、足を縺れさせて御前で片膝をつくほどの勢いだった。
訳あって良い縁談が見つからないでいたアリテアは、この機会を逃したら後がない事を分かっていた。
王女殿下の口添えさえあれば、自身より倍の年齢もある男の後妻や愛妾になるのではなく、もっと良い条件で嫁ぐことができる。
だからこそ見苦しかろうと、縋り付いて慈悲を請う以外に方法が見つけられなかったのだ。
結果としてその行動は間違いでは無かった。
ただしアリテアにとって吉と出たかは定かではないが……。