三. 寝転ガール
「痛ぅ~っ……あれ? ひんやりして、やわらかい……」
大転倒のすえの大回転がおさまり、衝撃で目をつぶっている道行は、奇妙な感触を覚えた。熱されたフライパンのような路面を転げていたはずなのに、止まったあとに体の表面が接地している場所が、やけにひんやりとして、冷涼な心地よさがあるのだ。それになんだか、フカフカとしてやわらかい。道端の草むらに投げ出されてしまったのだろうか。
……でも、冷たいのは、ナゼ?
身を起こすため、転倒で痛んでいる両腕を、自分がはいつくばっている地面に突き立てるようにして伸ばす。
手のひらにふれた場所が安定せず、むにゅむにゅと揺れ動いた。
上半身を弓なりに起こし終えると、恐恐と瞼を持ち上げる。かたくなに目を閉じていたせいか、曇ったガラスのように世界がぼやけていた。パチパチと瞬きをするのにともなって視界が段々クリアになっていく。
「……人の、顔」
目下、吐息が吹きかかるようなわずか数十センチのところに、女の子の横顔があった。長い黒髪がアスファルトに放射状にひろがっていて、不快そうに、はたまた苦しそうに歪められた表情をのぞかせている。
途端、道行の心臓がドカドカ跳ねた。
あろうことか、地べたに横たわっていたセーラー服の女の子に、折り重なるようにしてのしかかっていたのである。手のひらを置いた地点が、むにゅむにゅしているのは当たり前。ふくよかな胸の膨らみを押しつぶしていたなのだから……。
意識が途絶えているように見えた少女の、薄桃色の唇がわずかに動く。
「……重い……熱い」
苦しそうに二言だけ、幽かで涼やかな声でつぶやいて閉口する。
「ごごごご、ごめんなさい!」
謝罪とともに、セーラー服少女の上から全力で飛び退いた。
わけのわからない状況に陥ってしまい、道行は目を白黒させる。
地面でもみくちゃになったばかりの体の節々から悲鳴が上がるが、それどころではない。痛みはとりあえず無視で、「ほんとにごめんなさい!」と、倒れている少女のすぐかたわらで土下座し、ひたいをアスファルトに叩きつけた。
しかし、焼け石の鉄板みたいになっている地表に、焦げつくくらい額を押しつけていても、少女はいつまでも仰向けになったままである。二言だけしゃべってからはだんまりを決めこみ、ウンともスンとも言わないのだ。
深呼吸をして脈を整えてから、道行はゆっくり面を上げていく。
「……あ、あのぅ……大丈夫ですか?」
呼びかけるが、応答はない。
少女は相変わらず両眼をつむって不機嫌顔。
年齢は道行と同じ高校生だろう。瞳を閉じて眉根を寄せている表情からでも整った顔立ちであると判断できる器量の持ち主だ。
あらためて彼女の体を見てみると、からっからの晴天にもかかわらず、身に着けている夏物のセーラー服が、びしょ濡れであることがわかった。か細いボディラインが、くっきり浮き彫りになるくらいに水分を含み、肌に張りついている。おまけに、彼女が横たわっている周辺の路面まで、雨が染みたように色が濃く変色して湿っていた。
「……どういう状況? 事件? 事故?」
少女の着衣はバケツの水を被ったかのように濡れそぼってはいるが、傷や汚れはなく、肌も陶器みたいにつるりと綺麗。道行が来る前に、すでに轢かれていたとは考えにくい。おのずからただ仰向けになっていただけのように思える。
彼女の頭のほうへ這いより、肩のところを叩いて再び「大丈夫?」と声がけを行った。……しかし依然として無反応。声を発することなく渋面を固めたままになっているので、気を失ってしまったのかと思い、汗がにじんでいる頬を軽く叩いたときだった。
「冷たァッ!?」
と、道行は弾かれるように手を離す。
少女の頬が異様なほど低温で驚いたのだ。
あたかも氷にふれたようである。
自分の体が、暑さと自転車漕ぎと思わぬハプニングで、上気し、火照っているため、彼女との体温差でそう感知したのか、何かの間違いではないのかと、道行はあくまで見極めるためにもう一度手を差し伸ばすが……やはり非常なまでの冷たさ。
氷によって包まれていたのではないかと疑わしいレベルだった。
こんな40℃を越える酷暑の中で、ありえないことのように思うけれど、低体温症とかいう危うい状態なのかもしれない。
「とりあえず大至急、救急車呼びますから!」
ズボンのポケットから道行があたふたとスマホを取り出す。
「割れてるし!」
スマホは転倒の衝撃で液晶に亀裂が走り、おしゃかになっていた。電源ボタンを長押ししても、沈黙しっぱなし。役たたずのガラクタと化してしまっているのだ。
「……うぅ……ん……」
ようやく仰向けに横たわる少女が呻き声を漏らし、
「大丈夫ですか、何があったんです!?」
道行は即座に身をかがめた。
今度は呼びかけに応じて、彼女の瞼が重々しくあがる。
半開きになった眼の色は、海に浮かぶ氷山のように澄んだブルーだった。
カラーコンタクトレンズを装着しいているのだろうか。でも、鼻筋の通ったシャープな容貌をしているし、肌も雪肌である。異国の人にも見えなくはない。さっき口にした言語は短いながらも発音のしっかりした日本語だったので、北欧系の血が混じったハーフなのかもしれない。
なんとか開眼しているような状態で、少女が苦しげにつぶやく。
「……助けて……欲しい」
「しっかりしてください! 名前は、名前は言えますか!?」
「こおり――」
とだけ告げ、尻切れになる。
「……コオリ?」名字を口にしたのだろうと道行は思って呼びかけた。「コオリさん、しっかりしてください、今助けを呼びますからね! でもすみません、転んだときに僕のスマホが壊れちゃったんですよ。なのでコオリさんのスマホを貸してもらえますか?」
「……スマホ?」と今度はコオリさんが、彗星のような尾を引いている眉毛を寄せる。「それってアイスクリームのこと?」
「えっ? 何言ってるんです?」
そこで、仰向けのまま微動だにしていなかったコオリさんが初めて動いた。
瀕死で砂漠を彷徨っていてようやくオアシスに巡り会えたという表情で、ゆっくりと寝返りをうつ。胸から下がった群青色のスカーフが地に着き、横寝の体勢にかわると、道行が握っている壊れたスマホに向かって、手を伸ばしてきたのである。
「それ、アイスクリームなんでしょ? 欲しい。食べたい。ちょうだい」
冗談ではなく本当にスマホをもぎ取って口に運びそうな気があったので、道行は急いで身を退かせる。
……これは大変だ。
意識がはなはだしく混濁していらっしゃる。
「違いますって、これはアイスクリームじゃないですよ!」
否定されると、地面から這い出たゾンビの体のコオリさんは、憔悴した顔つきに戻り、力なく腕を下げた。
「もしかして、喉が渇いてるんですか?」
「冷たいものが……必要」
やはりそのようである。
絞り出された声を聞き届けると、道行は膝立ちで辺りを見渡す。投げ捨てたペットボトルを探したのだけれど、残念ながら見当たらない。思いっきり放ってしまったため、道路から外れた背高草の群れに入り込んだようだ。
発見できたのは、ノックアウトされたボクサーよろしくガードレールにもたれかかる愛チャリの無残な姿である。ハンドルは曲がり、前輪のタイヤはひしゃげ、ペダルはポッキリ折れ、ベルトチェーンがだらりと垂れていた。ガードレールの側面には化け物にでも引っ掻かれたような傷が長々と描かれてある。
なんてこった……。
スマホはお陀仏で、飲み物は消失、自転車も大破。そのうえ、コオリさんの着衣のセーラー服には携帯電話などが入っている膨らみは見られず、着のみ着のまま、何も所持していないようである。
現時点で道行にできることといえば、彼女を救うため、最も近場に居る他の誰かに徒歩で助力を求めに行くことくらいだろう。
しかしながら、錯乱傾向にあって今にも力尽きてしまいそうな様相をていしているコオリさんを、日照りのもとに放っておくわけにもいかなかった。救助を呼んでいるうちに、ひかれてしまっていたら洒落にならない。真上に太陽があるため、待避所となりそうな影場は無く、道路両脇は樹木がひしめき合っていて、とてもじゃないけれど寝かせておけるような状況になかった。
「ごめんなさいコオリさん。今はちょっと飲み物は無理です。もうちょっと我慢してください。――頭は打ったりしてはいませんか?」
「…………」無言のまま、かろうじて首が横に振られる。
幸いにも脳への物理的ダメージは無いようだ。この際、彼女が路上に仰臥していた理由などは二の次である。選択の余地はない。道行は、彼女を背負って救助を願いに行くことに決めた。そのことをコオリさんに告げ、軋む身体に鞭を打ち、立ち上がる。すると、――
ピチャッ
足元から水音が聞こえ、道行が「ん?」と視線を下に落とせば、靴の先から放射状に小波が生じていた。彼女の体周域に広がっていた染みが、いつの間にか、水溜まりにバージョンアップしているのである。
カンカン照りの日差しで路面の染みが縮んでいくならまだしも、乾くどころか一帯が水溜りに転じている。ずぶ濡れ状態にあるコオリさんの全身から流れ落ちた水分によって形成されているのだろうけど、いささか、水量が多いのではないのかと気になった。
しかしそれも今は頓着しているような場合ではない。
「さあ、行きますよ!」
道行は、すっかり閉口してぐったりとしてしまったコオリさんを慎重に担ぎ起こす。
おんぶすると、坂道を下りはじめたのだった。