十九. デス・キス・フォー・ベネファクター
コオリさんは冷涼な気を絶え間なく身にまとっているため、冷却機能を備えたストーブが座しているようなものである。クーラーを稼働させなくても、熱気むんむんだった室内が、見違えるように過ごしやすい気候となっていた。
道行はいったん場を仕切り直すことにする。
「まずは名前からでいいんで教えてください。いつまでも『コオリさん』じゃ、僕を『ヒトさん』って呼んでるような感じで、変なんじゃないですか?」
「べつになんだっていい」
投げやりに答える彼女は、ご機嫌斜め。態度をめっぽう悪くしてしまっている。退屈な授業をうけているように、半目をあけてテーブルに頬杖をつき、道行から完全に視線を反らせていた。
「氷女が本名ってことですか? 子泣きじじいや猫娘みたいに」
「誰? その人達」
「人じゃなくて妖怪……コオリさんもそうなんですよね?」
「知らない」
「妖怪でなければ、なんなんですか?」
「なんなんでしょう」
「くそっ、またこのパターンかよ……」
「私の名前はちゃんとある」
「え? なんて言うんです?」
「ミチユキには教えな~い」
ダンッ!
と、道行はテーブルを叩きつけた。
「これじゃ話がぜんぜん進みませんよ! ……わかりました。この際、コオリさんが何者とかはどうでもいいです。とにかく、アイスクリームなんですよね? アイスクリームを食べさえすれば、目的達成ってことで、あなたはどこにあるとも知れない妖怪横丁に帰ってくれる、もうそういうことでいいですか?」
いつまでも家に居座っていられては困る。
座卓を挟んで対峙しているのは、得体もしれない妖怪少女――かどうかは不明だけど〝溶解少女〟なのは間違いなく、家族にはとうてい説明できっこない存在。
一刻も早く、立ち去っていただきたい。
とりわけ、一番先に返ってくるであろう、中学の妹が部活から帰宅するまでにはケリをつけておきたい、と道行は新たな問題に直面しているのだ。
アイスクリームを与えさえすれば解決するはず。
しかし、――
「私はもう帰れないよ?」
なぜか疑問形となって淡々と返ってきた言葉は、肝を凍りつかせるものだった。
「帰れないって……どういうことですか」
「私が、氷女であると、ミチユキが知ってしまったから。そういう掟」
「……掟? 人間に正体を知られるとなぜか帰れなくなる的な、昔話的な、それですか?」
「そう」
「二つ返事で片付けられても困りますって! コオリさんが自分からバラしたことじゃないですか!?」
「そうしなければ私は死んでいた。死んじゃうよりはいい」
「そりゃそうでしょうけど……深刻きわまることをさらっと言いますね。帰ってもらわないと困りますよ。何か方法はないんですか?」
「あることにはある」
「よかった! すぐ試しましょう!」
「ミチユキがいいって言うのなら」
突如、コオリさんはテーブルに両手をついて立ちあがった。
天板の上に膝を立てて、四つんばいの女豹体勢になると、対面する道行に向かって脛をこすらせながら這い寄ってくる。
霧氷でメイクアップされた薄紅色の唇が、どんどん近づく。
凛然とした空気をともなった顔が、ズズッと、口元へ急接近。
道行はたまらず上体をのけぞらせた。
「なななっ!? なにしようとしてるんですか急に!?」
「接吻」
「せっぷん……キ、キスぅ!? なんでキスが解決策になるんですか!? 昔話みたいな掟だけに、ひょっとして、契りを結んで夫婦になることで万事解決しちゃうっていう裏ワザのようなものですか!?」
「ううん。口から冷気を注ぎ込んで、氷漬けにして、息の根を止めようとした」
………………。
…………。
……息の根を止める?
「僕、今死ぬとこだったんですか……?」
「おしかった」
「おしくない!」
「正体を知る者がいなくなれば【縛り】から開放されて、帰れる。単純」
「ダメですよ、ダメダメ! どーして僕が死ななきゃなんないんです。あっけらかんと言いのけないでください。僕はあなたの命の恩人ですよからね。なのに殺されるって、どんだけ不条理なんですか。ほんとは怖い系の昔話パターンはごめんですよ。そんななら、コオリさんが帰れないまま野垂れ溶けてくれたほうがマシですから! でなければ、早池峰山あたりに飛んでけ!」
コオリさんがジッと見据えてくる。
「あれれ、なんだか私、急にお家が恋しくなってきちゃった」
と、顔をふたたび寄せられた道行は、のけぞった姿勢から猛然と手足をやみくもに動かして後退していく。「まって、タンマ!」と両手を突き出し、座卓から下りても無表情のまま這いずりをやめてくれないコオリさんを、なんとか静止させようと試みる。
「焦らずに、平和的、人道的、道徳的解決手段を模索しましょう……ね?」
だがしかし、這い寄る動きは止まらなかった。
あれよあれよという間に、道行は壁際まで追い詰められてしまう。
背中が壁にぴったりと押し当り、もう下がることが出来ず、横へ逃げようと立ち上がろうとしたときには、腕をつかまれていた。冷たい感触に、ひえっ、となっているうちに、座った体勢へと引き戻され、そればかりでなく、太ももの上に、お尻をどっしり乗せられてこられてしまったのである。
「すぐ終わるからジッとしてて」
と、鼻がこすり合うような距離で、コオリさんが身も心も凍らせるようなことをつぶやく。その吐息は、真冬の極寒で吐き出されたように白く着色されており、道行の顔に当たると、冷気が皮膚をゆっくりなでつけながら放射状に広がっていく。
スカートから伸びている両脚までもが、道行の腰裏に絡みついてきて、冷たさと恐ろしさに、ぶるぶる全身を震わせた。
「冗談……ですよね?」
「ほんと。アイスクリームくれなかったし」
「それはすぐには無理だって何度も――――んんっ!?」
腕を背中に回されて引き寄せられたと思うがはやいか、唇がふれあっていた。
大福状のやわらかいアイスを押し当てられたような感触。
感じる冷たさとは逆に、道行の頭がぼーっと火照って熱を帯びる。
でも、それは一瞬だけ……。
次の瞬間には、喉元を凍てついた空気が伝いだしていた。
……ヤバい。
マジで息の根を止められる!?
万事休した直後、
ガチャッ!
部屋のドアが勢いよく押し開けられ、
「対面座位!?」
と驚く、妹の声が室内に響く……。