十四. イン・ユーテロ
玄関ドアを蹴破る勢いで、道行が裸一貫、屋内へと転がり込む。
火がついたように泣く声は、寸刻のうちにパタリとやんでしまっていた。
両腕に加わる重みは、濡れたシャツとズボンの重さだけでしかないように思われる。
膨らみが消えて平坦になってしまった衣服を、道行は廊下の上り口に横たえた。
息が切れ、痰がからみ、咳き込みながらも呼びかけをおこなって、覆いかぶさっている布を不安混じりでめくる。
「着きましたよ! 今すぐ氷を――」
おもわず、声を失った。
シャツ腹部の白地には、極小の水溜りが湧いていて、その中央にコンタクトレンズのような、薄い円盤の膜がひとつだけ浮かんでいる。
もはや目に入れても痛くない大きさ。
人の像はおろか、氷の塊ですらない。
「遅かった………………――いや、」
うなだれた頭を左右に振り、道行は歯を食いしばる。
中途で倒れてしまっては、はじめから何もせず、見捨てたのと変わらない。
「まだだ、まだ彼女はここにいる!」
片手で浚って、水溜りを手のひらの窪みに移す。
透き通った桜の花びらの形状になっているコオリさんが、雪解けの清冽さが漂う水面を、くるくる踊り、たゆたう。
道行は手元に注意しつつ、靴を履いたままフローリングの床に飛び乗った。
呼吸をするのも忘れて廊下を前進し、台所のドアを開け放つ。
入室してすぐ右手の壁際に、大容量型の冷蔵庫が鎮座している。観音開きになっている冷蔵室の下には、大小二つの引き出しが並んでおり、右側の大きいほうが冷凍室で、左側の小さいほうが製氷室だ。
ちゅうちょすることなく製氷室の取っ手に指をかけて引っ張りだす。
貯氷スペースには運良く、立方体になった氷の結晶が満杯に山積している。冷気が這い出してくるその頂上で、そっと手を傾けて、砂粒のようにちっぽけになってしまったコオリさんを注ぎ込み、引き出しを押し戻した。
……どうだろう?
道行は深い溜め息をはきだす。
この方法で正しかったのかは定かではないが、やるだけのことはやった。
非現実的な存在は手元から離れてしまったが、いままでの出来事が、真夏の暑さが見せた幻ではないことは、低度の凍傷になってジンジン痒みをともなう腕の腫れが証明している。
☓ ☓ ☓
ブゥーーーーン
冷蔵庫から響く低いモーター音と、屋外で鳴くセミのくぐもった声、それから自分自身の荒い呼吸だけが耳に入る。
道行も限界ギリギリを迎えていた。
口内は干上がり、体からは雑巾を絞ったように汗が流れてしまっている。
ミイラと化してしまう前にコップを手にし、蛇口から水をくんで一気に飲みほす。
流し台の棚に背をあずけて座り込み、冷蔵庫の製氷室を見つめた。
すると、――
ゴソゴソゴソッ
注視する的から、こもった物音がとどいてきた。
自動製氷機能によって氷が落下し、ぶつかり合う音のようにも聞こえたが、収納空間は満タンだったので、落ちてくるはずがない。
ゴソゴソッ……ゴソッ
と、また物音が聞こえる。
跳ね起きた道行きが、冷蔵庫前に仁王立つ。
固唾をのみ、意を決して、製氷室を全開まで引き出す。、
「……よ……よかったぁ~……」
心の底からホッとした。
ついさっきまでは、なみなみとして飽和状態にあった氷が、何分何秒とたたず、ごっそりと減っている。そのかわり、まぶたを健やかに閉じた白雪のように柔和な塊が、アイスベッドの上で、眠っていた。
人の形を取り戻したコオリさんが、超小型のバスタブ容器に、横向きで、両手と両足はバッテンを作るように交差させ、ちょっぴり窮屈そうに体を丸まらせているのだ。
さながら、子宮の中の胎児である。周囲に散在する氷は、羊水ならぬ羊氷といったところだろうか。
ふいに、彼女の顔前に転がっていたアイスキューブが、ゆるゆる動き出す。白い唇に近づいていき、ピタリと触れるなり、めり込むように体内へ浸透していった。それにともなって他の個体もつぎつぎ吸い寄せられるように寄っていき、白い肌に取り込まれていく。磁石じみた吸引力が働いているようだ。
「すごい。氷を吸収して体を作ってるんだ! ……ってことは」
こうしてはいられない。
貯氷ケースの氷はすぐに空っぽになってしまう。
身長が伸びていくだけのスペースも無いのだ。
もっと氷が必要だし場所も移さないといけない。
「……そうだ、うってつけのものがあるじゃないか!」
道行の家には、裏玄関を入ったところの廊下に、冷凍庫が一台据えてある。
一人暮らしの台所に置いてあるような小型サイズで。縦約1メートル、横と奥行きが約50センチ。天井が開くものではなく、側面の一枚扉が前方に開くもの。この寸法ならば、中に座りさえすれば、人ひとり、とりわけ細身の女性であるならば余すところなしに収容できる。
「すぐにスペースを確保してくるので、もうすこしここに居てくださいね!」
告げるなり製氷室を閉じて、道行は土足のまま裏口に急行した。