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昨日の僕が、明日の君を殺す。

作者: 閑野 舞

処女作です。暖かい目で読んで頂ければ幸いです。




────雪が周りの音を吸い込んで、儚く地面へと落ちた。

いっそ恐ろしいほどに静かな気配が、俺達を支配していた。


「ねえ、」


俺の三歩先を歩く彼女が、緩慢な動きで振り返った。彼女の栗色の髪が柔らかく揺れて、思わず目が奪われる。


「もうすぐ、冬が終わるよ」


彼女はゆるりと目を細めて、ふにゃりと頬を上げた。俺はそれに表情だけの相槌を打って、彼女に一歩近づいた。



彼女の丸くて大きな瞳に浮かぶ涙。

今にも零れ落ちそうなそれを必死に堪えるその姿に、俺はどんな言葉を投げかけたんだっけ。










『昨日の僕が、明日の君を殺す。』











俺の幼馴染である森本春華は、口数が少なくて消極的ではあるものの、笑顔がよく似合う人だった。花が綻ぶような笑顔は、クラスの男子に密かに人気があったらしい。

幼馴染といっても、たまたま学区が同じで進学先の高校も同じという偶然が重なっただけのものだった。だからそこまで親密なわけでもない。幼稚園の頃からの呼び名はそのままだから、高校生同士では珍しくお互い下の名前で呼んではいるけど。


「ねえ、冬馬」

「なあに」


午前の授業が終わって昼休み。

暖房で温い教室で、俺の前の席、栗色で毛先がふわふわとしているミディアムボブがくるりと振り返った。

長い睫毛で縁取られた丸い瞳子がこちらを見つめて、瞳の上の眉毛が申し訳なさそうに下がっている。


「数学の答え見せて?」

「言うと思った」

「ふへへ」


数学が苦手、春華は中学の頃からずっとそう言っている。宿題は自分なりに全てちゃんとやってくるくせに、答えが合っていたことはほとんど無いらしい。高校では答えが違っていると成績に響くので、こうして提出前に俺のを見て答え合わせをしている。

懸命に自分のプリントと俺のプリントを照らし合わせている春華。ただその表情が一問おきに曇っていく様子を見る限り、今回もあまり正解はしてないようだ。


「何問合ってた?」

「せめて何問間違ってた? って訊き方をしてほしい……」

「じゃあ何問間違ってた?」

「えっとねぇ……」

「やっぱ数えなきゃいけないんじゃん」


だから何問合ってたかを訊いたのに。

もう一度「何問合ってた?」と尋ねれば、春華は首を右に傾けた後に「れーてん、ご」と幼稚園生のように舌っ足らずな声を零した。


「何で一問に満たないの」

「ここ、途中式までは合ってるんだよね」

「答えが違ってたら立派に不正解だよ、甘えんな」

「手厳しいね……」


「じゃあ代わりに英語見して。俺次当たるんだよ」

「冬真が合ってたら先生が怪しんじゃうよ」

「そっくりそのままお前に返したい」


そう言うと、春華はふわりと目尻を下げて笑った。互いに憎まれ口を叩くこともあるけど、適度に言いたいことが言える距離感。俺はそれが結構心地良かった。


「そうだ、今日一緒に帰る人いる?」


俺の要求を完全にスルーして話題を変えてきた春華。彼女はセーターの袖を伸ばして、寒そうに手を擦り合わせていた。

俺はそんな春華にひとつ瞬きを返して、自分の机に置いてある二つのプリントに視線を移した。春華の整った字と、俺の少し歪んだ字。


ちらりと視線を上げれば、こちらを見つめる春華と目が合った。そういえば、春華が何かを俺に尋ねてきてた気がする。


「いや、まあ、いないけど」

「……じゃあ、」

「でも一緒には帰んないよ、別に家が近いわけでもないし」

「ぇえ……」

「俺たちが付き合ってるとか、そういう噂があるの春華も知ってるでしょ。紛らわしいことなんかしない方が良い」


プリントに書いてある春華の間違っている方程式を見ながら、俺は早口でそう言った。何となく春華の顔を見るのは気まずくて。もしかしたら、心の何処かで春華に申し訳ない気持ちがあるのかもしれない。あったところでどうしようもないけど。


「そっかぁ、数学見せて貰ったお礼に肉まん奢ろうと思ったんだけどなあ。今の時期の肉まんは美味しいよ?」


「分かってるよ、でもわざわざお礼されるほどのことじゃない」


一蹴してしまった、なんて心の中でふと思った。さすがに強く言い過ぎたかと思って春華を見遣れば、不服そうに頬を膨らませていた。悲しんではいない様子で少しホッとする。

いや、なんで俺が春華の言動ひとつを気にしなきゃならないんだ。


「……じゃあ、明日休みだし、一緒になんか食べに行く? 」

「っ!! 行く行く!」


ぱぁっ、と音がしそうなくらいに春華の表情が華やいだ。忙しそうにころころと表情が変わる人だ。口数は多くないくせに、感情はすぐ顔に出る。

というより、口数が少なくて消極的というのは、客観的に見た春華だ。俺から見た春華は、言いたいことは必要以上に抑揚をつけて話すし、思っていることは表情で大体分かる。

今の春華の顔は、目尻や頬をふにゃりと緩ませていた。明日何処に行こうかを悩んでいる、そんな顔。


「どこに行こうかなぁ、明日は特に寒いらしいから、お鍋とかいいよねぇ」

「何処でもいいけど、安いとこにしてね。月末で金欠だから二人分払えるか分かんない」

「えっ、奢ってくれるつもりだったの……自分の分は自分で払うよ、デートじゃないんだから」

「……まあ、そうだね」


デートじゃない、その言葉がやけに心臓に刺さって、俺は何となく持っていたシャーペンを回した。


「じゃあ、明日の12時に駅前のとこに集合しよ、それまでに安くて美味しいところ考えとく!」

「いいよ、わかった」


これがデートだとしたらまるで春華が彼氏みたいなリードっぷりだ。まあいいか。デートじゃないし。


「……ふへ、」

「どうしたの、変な笑い方して」

「なんか楽しみになっちゃって」

「……ふーん」


目元を綻ばせて、口元にゆったりと弧を描いて。昔から変わらないその笑顔は、きっと大人になっても変わらないんだろうなぁ、なんてぼんやり思った。

大人になった頃に、俺が春華の目の前に居るのかは分からないけど、


「じゃあ明日だよ、明日の12時」

「分かった分かった、明日の12時ね」


ふふ、と鈴が転がるような声を零して、春華は笑った。

俺は何故か一瞬だけ心臓が疼いて、すぐに手元のプリントに視線を戻した。

春華が「れーてん、ご」と言っていたところの問題を見てみると、確かに最後の答え以外は合っていた。最後の最後で計算ミスをしていた。まあ不正解であるのに変わりはないけど。


ふと視線を上げると、俺を見つめる春華と目が合った。春華はひとつ瞬きをして、目を細めてふわりと笑った。

今日の春華は、表情筋がゆるい、らしい。




───────────

───────

──





「…………、」


スマホのアラーム音が強引に意識を浮上させた。俺は即座にスマホに手を伸ばして、停止のボタンへと指を滑らせた。スヌーズなんて真っ平御免だ。寒くて布団から出たくないし。


けれど、一度浮上してしまった意識がまた沈むことは残念ながら無かったようで。浮上した意識と対照的に重苦しい身体を持ち上げて、ベッドから降りてひんやりとした床に足を着けた。


「さむ……」


今日は何か予定あったっけ。あぁそうだ、春華と出かけるんだった。

ぺたぺたと裸足でフローリングの廊下を手を擦り合わせながら歩いて、洗面所へと向かう。冷たい水で顔を洗えば、いやでも目が覚めた。寝癖を直して服を着替えて、適当に朝ご飯を食べて。歯磨きをして準備をして、親に出かけることを伝えて家を出た。男の準備なんて単純であっという間だ。でも女子にはそこから化粧をしたり服の組み合わせを考えたり髪を整えたりしなくちゃならないらしい。



11時45分。駅前に到着した。

春華はまだ来ていないらしく、同じく待ち合わせをしている見知らぬ人ばかりだった。コートを着てマフラーをしてきたけど、あまりに寒くて思わず白い息を吐く。

春華はどんな格好をして、どんな髪型で来るんだろう。前に春華と春華の友達が会話してるのをたまたま聞こえてきたけど、春華は化粧が薄い方らしい。その友達が「でも春華は元が良いからあんまメイクする必要ないね」とも言っていた。幼稚園からずっと見続けてきた顔だから、良いのか良くないのか分からない。まあ、悪くはない、と思う、けど。



12時。春華はまだ来ていない。

遅刻か? まだ遅刻と言うには厳しすぎるか。にしても寒い。

女子は準備することが多いらしいから、少しは猶予してやろう。春華が俺のためにそうやって準備をしているのかと考えると、何故か口角が上がりそうになる。急にひとりで口角が上がったら完全に変な人になるので抑えた。どうせ春華が来たら嫌でも口角は上がるのだから。



12時15分。これは遅刻だ。

さすがにこれは遅刻と言っても良いだろう。春華が来たら昼ご飯奢らせてやろうか。さすがに可哀想だからさせないけど。一応二人分のお金は持ってきているし。早くお店に入って温まりたい。



13時。まだ来ない。

おかしいな。春華が一時間も遅れるなんて今まで一度もなかった。それに遅れるにしても必ず連絡してくる。けれど今は連絡すら来ない。逆にこっちから連絡してみよう。



14時。

連絡も返ってこない。何の音沙汰もない。二時間以上待っているからさすがに身体もキンキンに冷えてきた。寒い。

もしかして約束忘れて寝てるのか? いやそんなわけないか。昨日、明日行くお店が決まったと連絡が来ていた。イタリアンで財布に優しいお店だった。鍋じゃないのかよ、とは思った。



15時。来ない。




16時。来ない。





17時。


来ない。

というより、来なかった。到着した頃には真上にあった太陽も、今ではすっかり沈んでしまった。その代わりに、三日月が柔く照らしている。


「さむ……」


朝も同じことを呟いた気がする。

春華に「帰ってるよ」とだけ最後の連絡をして、ひとり帰路に着いた。


すれ違う人は、この寒さを凌ぐためにマフラーに顔をうずめて早足で帰る人ばかり。


月明かりと街灯が、俺の目の前に影を作っていた。


その影は、ひとつだけだった。













飽きるほど見慣れた風景が目に入ってきて、もうすぐ家に着くことを窺わせた。

家に着いたら早くお風呂に入って、いっそ寒さに慣れてしまったこの身体を温めよう。それを済ませたら、春華にスタ爆でもしよう。

それで、明日は俺から誘ってみよう。明日も休みだ。お鍋でも良いし、イタリアンでもいいし、適当なファミレスでもなんでもいい。


ああでも、まずはお腹を満たそう。結局お昼ご飯も食べていないから腹ぺこだ。春華はちゃんと食べれたかな。



家の玄関に着いて、ひんやりと冷たい金属製のドアノブをゆっくり引いた。


「ただいま───」

「っ、!! 冬馬!!」


早く家に入って暖を取ろうとしたら、母親が見たことないくらいに血相を変えて廊下へ飛び出してきた。



母の顔つきを見て、急に喉が締まった。

寒さなのか何なのか、手や唇は震えて、寒いくせに汗が吹き出してくる。



「春華ちゃんが、!!」


脳が警鐘を鳴らして、その先は聞くなと、本能がそう言っているような気がした。


けれど、俺の聴覚は正常だ。


その先の言葉が、容赦なく俺の鼓膜を震わせてしまった。



「春華ちゃんが、事故で──────」











────ああ、酷い耳鳴りだ。











─────────

─────

──





気づいたときには、俺は制服を着ていて、見慣れない場所に居た。周りに居るほとんどの人が泣いていて、それも見知った顔の人達ばかり。


何故みんなそんなに泣くんだろう。よく分からない。

そのまま周りをくるりと一瞥して、正面を向いた。



「ぁ……、」



黒い額縁に囲まれた、春華の笑顔。






覚えてる。その写真。高校の入学式の写真。親同士がどうせなら一緒に撮れって言ってふたりで並んで撮った写真。

いつでも表情筋がゆるくて、すぐ笑う、笑顔が似合う人。



そんな人が、居なくなった。


春華が、居なくなった?



ずっと、笑顔を見てきたのに。たまに憎まれ口叩いては、笑いあって。



もう、話しかけても、喋ってくれない。

肩を叩いても、振り向いてくれない。

何を言おうと、笑ってはくれない。


今までずっと、喋って、動いて、笑って。




生きていたのに。




遺体の損傷が酷くて、棺の蓋も開けられないらしい。

春華の顔が見れない。会えない。




もう、一生、会えない。



「はるか……」





もう、名前を呼ぶことも、出来ない。












─────────



「冬馬」


葬儀式場を出て、廊下の椅子にぼんやり座っていると、誰かが俺を呼ぶ声があった。低い男の声。春華じゃない。



「……」



声の方に視線を向ければ、中学で同級生だったやつがこちらに歩いて来ていた。その青白い顔に刻まれた幾筋もの涙の跡と赤くなった目元が、春華の死をまざまざと突きつけられているような気がして、思わず目を背けた。


そいつは俺の隣のスペースに腰を下ろすと、何を言うでもなく何処かを眺めていた。


「……なに、慰めるつもりならやめろよ」

「……どうだろ、半分合ってるけど半分違う感じ」



その言葉を聞いて、春華の「れーてん、ご」と言っていた光景を思い出した。全てのことが春華に繋がって、春華の顔を思い出す。

もう、そんな声も聞けないのか。どうせなら三角くらい付けてやれば良かった。



「中一のときにさ、地域の不思議なものについて調べる、みたいな授業あったじゃん」


「……覚えてねぇよ、そんなの」


「そぉ? まあそれはどうでもよくてさ、」


そいつはそこまで言うと、少しだけ視線を彷徨わせた。少しだけ目線をそいつの方へ向ければ、組んでいた手をきゅ、と握り直していた。


「……中学からちょっと離れた通学路の途中に小さなお社があったの、覚えてる?」


「お社……?」


記憶を呼び戻せば、確かにあった気がする。お社というより、目に入っていたものは、どこまでも続いているような石の階段だけだった。不思議な感じがしてあまり近寄らなかったから、お社と認識していたことはあまり無いけど、そういえばあれはお社だったのか。


「……覚えてる、けど、それがなんだってんだよ。こんなときに……」

「こんなとき、だからこそ言ってる」


その発言に思わず目を瞬かせた。さっきまでの躊躇いがちだった様子は一変して、力強い目でこちらを見つめている。

こんなときに言うことなんかあるもんか。春華が居なくなったこんなときに。


「……で、そのお社がどうしたって? 死んだ人間でも生き返らせてくれんの?」


俺は嘲笑して、また前を向いた。そんな夢みたいな話が現実に起こるはずがない。

そんな、はず、ない。




「そうだよって言ったら、冬馬は信じる?」


「は……?」




沈黙が落ちて、俺の耳には、少し遠くの方から聞こえてくる泣き声と、耳鳴りだけが残っていた。

やめてくれ。俺に期待を持たせるな。死んだ人間が生き返るなんてそんな非現実的なことあるわけない。死んだ人間はそのままだ。生きている人間の記憶の中でしか生きていることが出来ない。


「信じる信じないはどうでもいい。ただやってみる価値はあると思う」

「……そもそも、お前は何でそんなこと知ってんだよ」


俺がそう言って見遣ると、組んでいた手には更に力が込められていた。力を込めすぎているせいで、所々白くなったり赤くなったりしていた。


「だから言ったろ? 地域の不思議なものについて調べるときに、俺はそのお社を調べることにしたんだよ。それで図書館で文献漁ってたら、一冊だけ、人を生き返らせる力を持っている、っていう記述があった。」


「生き返らせたい人のことを強く思って願いながら鳥居をくぐると、その人に会える。ってね」


「中一の頃に読んだものだから、少し記憶は朧気だけど、その記述は確かにあった」


丁寧に、言い聞かせるように、そいつはそう言った。

人を、生き返らせる……。


信じられないけど、春華の死の方がもっと信じられないし、信じたくない。




俺は座っていた椅子から立ち上がり、そいつに目線を向けた。



「どうしたの冬馬……、まさか今から行くつもり?」

「うん、早い方が良いだろ。分かんないけど」


本当は、春華の居ない世界から早く居なくなりたかっただけ。

春華と同じようにころころと表情を変えるそいつに、口角を上げるだけの笑みを向けた。


「教えてくれてありがとう」

「……出来るだけ、死ぬなよ」


初めて聞くような可笑しな日本語に、俺は春華が居なくなって初めての笑い声を零した。




「じゃーね、ありがとう」

「うん、気をつけて」


それだけの言葉を交わして、俺は式場を出て走り出した。





──────────

────







「っは、は、はぁ……っ」


お社の手前に辿り着いて、俺はようやく止まった。膝に手を着いて、荒い呼吸を整える。真冬だと言うのに、かなり汗だくだ。



「…………、」


呼吸もある程度整って、俺はなんとなく見慣れているそのお社を見上げた。

中学の頃に毎日視界の端に入っていたけど、気にしたことは一度たりともなかった。


意識して見てみれば、それは何だか神妙な雰囲気を纏っていた。現実のものではないように感じて、いっそ不気味にも思えてしまう。奥が見えないほどに暗いその先は、吸い込まれるようで思わず心臓が縮こまるのを感じた。




けれど、そんな感想なんてものは頭の隅に追いやり、俺は石段の一段目に右足を置いた。その状態で見上げても、鳥居どころか森林の影で石段のてっぺんすら見えなかった。石段を覆うように鬱蒼と生い茂る木々たちは、昼間の太陽に当たれば綺麗な木漏れ日になるんだろうけど、今はただ不気味に思わせるだけだった。


一段一段、踏みしめて石段を登った。暗闇に取り込まれるような感覚に、思わず手に力が入る。

けれど、振り返ることはしなかった。振り返ってしまったら、もう春華には一生会えない気がした。

本来は、もう会えないはずだけれど。


でも、それでも会いたい。

会えるなら、なんだっていい。


もう一度、春華の笑顔が見たいだけ。










「…………っ、」


ようやく石段を登りきって、少し乱れた息を整えようと思った束の間。俺は、視界に映った鳥居とその先の境内に、呼吸をも止められた。

神妙な雰囲気、なんて生易しいものじゃない。これはこの世のものではないと、確信させられた。参道の先に在る朽ちた御社殿は、一度でも入れば一生出られないとでも言うような空気を纏っていた。

脳内が激しく警鐘を鳴らして、入るな、入るなと喚いている。



「…………、」


でも、そんなことに怖いなんて言ってられる暇はない。

一刻も早く、春華に会いたい。

それが叶うなら、俺がどうなろうと、構わない。




一歩、一歩。鳥居に近づいた。頭の中では、さっきの言葉が何度も反芻されていた。

生き返らせたい人のことを強く思って願いながら鳥居をくぐると、その人に会える。


生き返らせたい人、春華。

鈴を転がしたような声で笑って、ころころと表情を変える。本当の性格は大人しくて消極的で口数も少ない。でも気心知れた俺の前では饒舌で、たまに悪戯っ子みたいな顔をする。


そんな春華に会いたい。

会いたい。

もう一度、会いたい。










気づけば、鳥居の中に足を踏み入れていた。














────






「……、っ!!」


五感を全て奪われていたような感覚から抜け出して、俺は久しぶりに働いた視覚で目の前の光景を瞳子に収めた。



辺りをきょろきょろと見回せば、机と椅子、クラスメイト、黒板。とっくに見慣れた教室だった。


急に視覚から情報が大量になだれ込んできて、少しだけ頭痛に襲われた。鳥居をくぐってるときの感覚より何倍も楽だけど。


俺は眉間を押さえながら、正面を向いた。



「…………ぁ、」



目の前の、ふわふわな栗色。



「っ!!」


「痛った!!」


俺は思わず目の前の栗色の肩を、手加減せずに思い切り掴んだ。

ちゃんと、触れる、生きてる。声も聞こえる。



本当に、生き返ったんだ。



「もぉ〜……なに冬馬、英語見してほしいの?」


くるりと目の前の栗色が振り返った。

春華、だ。声も顔も仕草も全てが春華だ。今は肩を思い切り掴まれたことに怒っているのか、俺を見る目が少し訝しげだった。


「いや、そういうんじゃない、けど」

「……なんか冬馬すごい挙動不審……今も肩掴まれたときすごい痛かったもん。肩砕けるかと思ったよ」

「それはごめん」



「いいよ、ゆるす」なんて頬を緩ませて笑う春華。

ああ、その笑顔。泣きたくなるくらいに懐かしい。



「あ、そうだ。今日一緒に帰る人いる?」


その瞬間、俺の心臓が痛いほどに大きく跳ね上がった。自分の位置を主張するようにドクドクと激しく脈打っている。


「冬馬?」

「……っいや、いない、けど」

「じゃあ一緒に帰らない?」

「……いや、ごめん、今日、予定ある、から」

「そっかあ……それより、顔色悪くない? 体調悪い?」


前と同じ春華の言葉に、動揺しないわけなかった。

これは、生き返ったというよりも、時が巻き戻ったに近い。本当に生き返ったと形容するなら、棺から出てくるようなものだ。



落ち着け。春華が生き返ったことに変わりはない。その事実に、時が巻き戻ったかどうかなんてどうだっていいことだ。


春華は今生きてる。それだけでいい。


「ごめん、なんでもない」

「そお?」



それだけで、十分だ。




「……っそれより、春華、明日絶対家から出るなよ」

「えっ、なんで急に」


理由なんか言えるもんか。明日の12時にお前が死ぬなんて言えるはずもない。


「とにかく、頼む、」

「えぇ〜……私明日は出かける予定あったのに〜……」


その言葉に俺はひとつ瞬きをした。俺との約束が消えて尚、明日の春華には予定がある? つまり前回は俺との約束を優先したってことか? それなら春華の言う出かける予定は春華ひとりで行くものだ。春華は約束した人によってどちらの約束を優先するとかを決める人じゃない。


「じゃあ、気をつけてよ、絶対」

「おっ、行っていいの?」

「いいけど、絶対に気をつけて。危ないところ通んないで」

「なになに怖いんだけど……」


鬼気迫る表情で言い続ける俺に、腕を胸の前で合わせて俺から距離を取る春華。何も知らなければ、その反応は普通だよな。


「いいから、約束して」


ひとつ瞬きをした後に、言い聞かせるように、丁寧に言葉を紡いだ。なかなか見ない俺の真剣な表情に、春華も何かを思ったのか、俺から距離を取っていた姿勢を戻した。


「……いいよ、約束する」


そう言って、春華はゆるりと目尻を下げて、ふにゃりと笑った。




その顔に、涙が出そうになったのは、仕方のないことだと思いたい。









──────






「…………、」


スマホのアラーム音が強引に意識を浮上させた。俺は即座にスマホに手を伸ばして、停止のボタンへと指を滑らせた。スヌーズなんて真っ平御免だ。寒くて布団から出たくないし。


けれど、一度浮上してしまった意識がまた沈むことは残念ながら無かったようで。浮上した意識と対照的に重苦しい身体を持ち上げて、ベッドから降りてひんやりとした床に足を着けた。


「……っ、!!」


俺は一気に頭が冴えて、近くにあったスマホで時刻を確認した。示していた時間は10時45分。大丈夫だ。12時まで一時間以上ある。

俺は一息ついて、身支度を始めた。12時が近くなったら、春華に電話をしよう。どこか安全なところに座ってもらいながら。それで12時を過ぎてくれれば、もう完全に春華は助かった。というか、安心しきってこんな時間に起きてしまった。前回は9時には起きていたのに。


11時。身支度が終わって、ぼーっとしてしまう時間。いつでも外に出られる程度の身なりにはしたけれど、特に出かける予定もないし。

映画でも見ようかな。でも映画だと見ているうちに12時を過ぎてしまうな。一時間の暇って微妙に過ごし方が難しい。勉強はしたくないし。英語をやるなんて真っ平御免だ。明日春華に教わろう。



11時20分。結局スマホを見てダラダラと過ごしていた。友達と遊びに行ったときの写真や、そのときに撮った風景やご飯の写真。あとは、春華との写真。幼稚園の卒園式からずっと入学式と卒業式は一緒に写真を撮ってる。お互い得意科目は全然違うし、さすがに大学まで一緒になることはないだろうけど、高校の卒業式もこうやって撮れたらいいな。





そう、思ったときだった。





「冬馬!!」



また、血相を変えて俺の名を呼ぶ母親。右手に握られた受話器。もしかして、いや、また、ちがう、頭の中を色んな言葉がぐるぐるして止まらない。


薄ぼんやりとしていく視界の中で目に入ったのは、スマホ液晶画面に映る時刻。










まだ、12時になってないじゃないか。











視界に入れるのは二度目のその鳥居。未だこの世のものと思えない禍々しい雰囲気を纏っていて、思わず後退りをしたくなる。


二度目の春華の葬儀も、春華の顔は見れなかった。一度目も二度目も、トラックとの衝突事故だったらしい。



もう一度。

春華に会えるなら、春華の笑顔が見れるなら、この鳥居なんか何度だって通れる。






俺は、鳥居の中に一歩足を踏み入れた。





_______



「…………、」


二度目のあの感覚から抜け出して、視界に入るのはいつもの風景。そして目の前の栗色。

大丈夫、春華は生き返ってる。その事実があれば後はなんだっていい。


「ねえ、冬馬」


目の前の栗色がくるっと振り返った。ひどく久しぶりなその仕草。前回は俺が先に肩を掴んだからその仕草は見れなかったな。


「冬馬?」

「あ、ごめん。なに?」

「数学の答え見せて?」


久しぶりな、その言葉。


「うん、いいよ」

「えっ、なに冬馬が優しい……」

「なんでだよ、俺いつも優しいでしょ」

「まあ、優しくないわけでは、ない……」


怪訝な顔で俺を見る春華だけど、俺にとってはなんだってよかった。きっと春華はこれからも暫くは俺の近くに居るだろうから、その間にでも様子の違う俺を払拭すればいいだけの話だ。


数学の答えを見せて、段々曇っていく春華を笑って。そのやり取りが、ひどく懐かしいような気がした。


「ね、春華」

「なあに?」

「明日どっか出かけようよ。鍋とか」

「明日? ……ごめん、ちょっと用事あって」


春華のその発言に、急に喉が締められたような気がした。


前と、違う。


最初のときは俺が誘えば春華はその誘いに乗っていた。俺が誘わなければ別の用事があるらしいけれど。


でも、今は、その用事を優先している。


「冬馬?」


春華が、心配そうな眼で顔を覗き込んできた。


「……んーん、なんでもない」


深く考える必要はない。

きっと、春華の気まぐれだ。














そう、思っていた。


目の前にある鳥居。これで3回目だろうか。段々見慣れてきたそれは、いつでも不気味な雰囲気を纏っていた。


結局、春華は死んでしまった。また、事故だった。

その事故の瞬間の時間は10時。最初の12時から2時間早い。そして今までにやり直した数は2回。


もう一度やり直せば、仮説が確かなものになる。




俺はまた鳥居に足を踏み入れた。



_______


3回目。


「ねえ、冬馬」


その言葉を聞くのは4回目。やり直しを始める前を含めて。


「なあに」


俺はその言葉に4回目の返事をして。


4回繰り返したやり取りをもう一度行った。春華の笑顔も見慣れてきた。


「春華、明日家から出ないでね」

「えっ、なに急に」


もう3回目ともなれば春華を止める言葉も雑になってきた。けれど春華は初めてのような反応をして。まあ、確かに初めてなんだけど。


「いいからさ、約束してほしい」

「ん〜……わ、かった。約束する……予定あったんだけどな〜……」

「また今度にすればいいじゃん」

「今度じゃ間に合わないもん〜」


不服そうに頬を膨らませる春華の顔に、思わず吹き出す。この時間が、永遠に続いてくれればいいのにな。











4回目。


「ねえ、冬馬」


春華が死んだ時刻は9時。急に春華の家の窓ガラスが割れて、偶然窓の近くにいた春華にそのガラスの破片が身体中に降り注いだらしい。


「なあに」


これで確信に変わった。

見えない何かが動いてる。春華の身に。そうでなかったら、そんな偶然に偶然が重なったような事故なんて起こりやしない。

やり直しの回数と春華が死ぬ時刻が重なるのも、偶然じゃない。見えない何かによるものだ。


「……、冬馬?」


さて、次はどうしようか。このままなら次に春華が死ぬ時刻は8時。休日なら春華が起きたくらいの時間だろう。



「……とーま!!」


「っ、ごめん、きいてなかった」


と言っても、何の話かなんてとっくに分かっているけれど。


「……、あんま、無理しないでね」


春華はそう言うと、眉を下げて口角を少し上げた。


そんなふうに、笑う人だっけ。

まあ、いいや。


「春華」

「なあに?」

「明日さ、一緒に走んない? 7時くらいから」

「お、いいねえ、最近走ってないなあって思ってたんだよね。でもちょっと早くない? めちゃめちゃ寒いよ?」

「いーじゃん、走ってれば温かくなるでしょ」


「ふふ、そーだね」


そう言うと、春華は目尻と口角を緩ませて、笑った。

そうだ、春華の笑顔はそれだ。



「じゃあ、明日の7時」

「はーい、明日の7時ね」


春華はそう言うと、頬を緩ませて笑った。



___



翌日の7時。日の出直後でまだ少し薄暗いし、とても寒い。春華はちゃんと防寒してきてるかな。


「冬馬おはよぉ、寒いねえ」


そう思っていると、しっかり着込んでぬくぬくとしている春華がやってきた。むしろ俺の方が薄着だ。


「そんな着込んで……走ったら暑くなるでしょ」

「でも今は寒いもん〜」


そう言って頬を緩めて、鼻の頭を赤くしてそう答える春華。


「たしかにね」


俺はそんな春華を見ていると、何だか口角が上がっていた。




走り出して数分後。喋れる程度のペースで、色んな話をしながら春華と走っていた。中学の頃の学級委員同士が最近やっと付き合ったらしいだとか、でも今は喧嘩中だとか。主にそのふたりのことだった。春華がその学級委員と仲が良かったからだろう。俺もその学級委員と面識はあったけど。まあ仲は悪くなかったと思う。みんなの前ではしっかりしてるやつなのに、変にだる絡みしてくるやつだった。


「でね、その子がね、」

「うん」


春華の話を聞く傍ら、俺は腕時計を確認していた。7時45分。春華が死ぬ時間は8時。あと15分。


「春華、」

「なあに?」

「ちょっと休憩しよ、疲れた」

「もう? 早いね、元陸上部なのに」

「引退してからかなり経ってるよ」


もちろん本当ならまだまだ走れるけど、走ってる間に8時を迎えるのは避けたい。何があるか分からない。


「さっき通ったところに自販機とベンチあったじゃん。あそこで休憩しようよ」

「いーよ」


来た道を戻って、目的地まで歩いていく。辿り着いて、7時51分。あと9分。

きょろきょろと辺りを見回しても今のところ危険なものは何も無い。車が通れる道ではないし、自転車も通る気配は無い。


「どうしたの冬馬、きょろきょろして」

「いや、なんでもない」

「なんでもなくないじゃん……」


ココアを両手に持って暖を取りながら、訝しげに俺を見てくる春華。誰のためにこんな挙動不審になってると思ってるんだ。自分で勝手にやってることだけど。


「ね、冬馬も座ろうよ」

「っあ、うん」


俺は温かいお茶を買って、春華の隣に腰を下ろした。座ったベンチもひんやりとしていて、本当に真冬を感じさせられる。


「……っさむ、」

「だから言ったじゃん、早くない? って」

「この時期はいつだって寒いでしょ」

「ま〜〜……そっか」


そんな会話をして数分。時計を確認した。7時59分。あと1分。

もうそんなに経っていた、驚いてきょろきょろと辺りを見回す。先程の風景と大差ない。このままならきっと平気。


「冬馬?」

「っ!!」

「痛った!!!」


8時。思わず春華の手首を鷲掴みにした。何度か前と同じくらいかそれ以上の声量で痛みを訴える春華に、俺は安心しながら手首を掴んでいた右手の力を緩めた。


8時1分。生きてる。春華は生きてる。

助かった。春華は助かった。救えた。


救えたんだ。


「……冬馬、どうしたの?」

「っえ、?」

「なんか、泣きそうだから」


そう言って、俺の頭を撫でる春華。もう、これからはずっと春華が近くに居る。こうやって話せる。触れ合える。


「大丈夫、欠伸しただけ。朝早かったから」

「そお? 朝早くしたの冬馬だけどね」

「たしかに」


そう言って、笑いあった。




その後、また走り出した。今度は少しペースを上げて、ちゃんとジョギングの目的を果たすために走っていた。今までは春華に危険が及ばないようにしていたけど、もう大丈夫。普通に過ごしていて平気だ。


「っとーま、まって、私疲れた……っ」


気づいて振り返れば、俺の三歩後ろに居た春華が膝に手を付いて肩で息をしていた。


「早くない?」

「男と女の体力差を考えてよぉ……」


確かに。春華を助けることに夢中で失念していた。その後は安心感で自分のペースで走ってしまっていた気がする。


時刻を確認すれば、8時37分。ようやく陽射しによってほんの少し暖まってきた頃。


「じゃあ終わりにする? 春華の家そろそろ朝ご飯じゃない?」

「終わりにする……多分朝ご飯ももうすぐ……」


未だ息が整っていないままそう答える春華が何だか面白くて、俺は8時を過ぎて初めて笑った。



今度は走るのではなく歩いて、お互いの自宅へと向かった。家が近いわけでもないとはいえ、同じ学区内。かなり直前まで帰り道は同じだった。


「冬馬ほんと走るの速いよねえ、現役から変わってないんじゃない?」

「さすがに落ちたよ、それより春華の方が変わんないでしょ、未だにちょくちょくバドミントンやってんじゃん」

「もう趣味程度だけどね〜」


そんな話をしながら待つ信号。その信号はなかなか色を変えてくれない。そういえばこの信号は長いんだった。


「……長いね」

「春華、歩道橋にしない?」

「いいよ〜」


俺を先頭に階段を上がっていった。歩道橋特有のなんとも言えない段の高さと階段の多さは、絶妙に走った後の体力を消費させてくる。


「ね、春華」

「なあに?」

「明日さ、」

「え?」

「あした、」

「ごめん、なあに?」


聞こえてないようで、「だから、」と言いながら振り返った。





振り返った、瞬間。



宙へと浮かんでいる、否、落ちていく、春華の身体。



「春華っ!!」


掴もうと伸ばした手が、宙を掻いて。


人の身体と服が、石段とぶつかり合う音。

通りすがりの女の人の悲鳴。男の人の焦ったような声。




なにか、かたいものが、割れる音。



「はるか!! はるかぁ、!!」


春華の名前を呼びながら階段を駆け下りた。


春華の周りをどんどん塗れていく鮮血。

増えていく野次馬と、携帯を片手に通話する人。

偶然目に入った時計が指す時刻は9時。

そんなもん気にしてる余裕は無かった。


既にぐったりとしている春華の身体を抱えて、骨などほぼ全て砕けてしまったことを思い知らされた。



「っ、」



ぐちゃぐちゃな頭の中で、唐突に、思った。


俺が、歩道橋を渡ろうなんて言わなければ?

春華が、落ちることは、死ぬことは、なかった?


そう思った瞬間、背筋が粟立った。


今回だけじゃない。

前回も、俺がこうやって春華を誘っていて、歩道橋を渡らなければ春華は助かったかもしれない。


俺の、せいで。

俺の判断で、春華が、死ぬか生きるかが決まる、?


春華を助けるのは、俺。

春華を殺すのも、俺。




「……そんなの、つらい……っ……、」



春華の亡骸を抱きながら、俺はそう言わざるを得なかった。






__________

_______

_




5回目。


「ねえ、冬馬」


くるっと振り返った、目の前の栗色。

長い睫毛に縁取られた瞳子。艶のある髪。口角が緩んだ口元。


その全てが、赤黒く染まった光景を、俺は覚えてる。


抱き抱えたときの感触、骨が粉々になっている人はあんなふうなのかと、冷静に思った。


「冬馬?」


初めて、見てしまった。

春華が、死ぬ直前。死ぬ瞬間。死んだ直後。


今元気にこちらを向く春華は、翌日、あんなふうになる。


あんなふうに、血だらけで、ぐったりとして、息をしないで。


「冬馬、?」


「っ、!」


眼と、眼が、かっちり合う。春華の瞳子に映る俺の顔はひどく青白く歪んでいた。


まだ、綺麗に整っている春華の顔。それが。

その顔が。


あんなふうに。



「っ、ごめ、」

「冬馬、?!」


急に何かがせり上がってくる気持ち悪い感覚に襲われて、俺は急いでトイレへと駆け込んだ。


「っ、ぅえ、っげほ、」


胃から込み上げるものを全部吐き出して、迫り来る吐き気で何度も嘔吐く。

気持ち悪い、辛い。


けど春華は、もっと辛い。ごめん、ごめんね春華。一刻も早く助けたいのに。助けられない。本当にごめん。



胃液しか出てこなくなってトイレから出て少し歩き出した。

ふらつく足と、あの光景がフラッシュバックして、今自分はどう歩いてるのかさえ分からなくなってきた。



「っ、っひゅ、は、」


段々正常な呼吸が出来なくなって、蹲った。吸うことも吐くことも分からなくなってきた。今自分は何してる? どんな呼吸をしてる?

分からない、辛いよ。辛い。

でも春華は、春華は。



もっと辛いのに。



「とうま」


すごく、あったかい声。

はるか。


「どうしたの、過呼吸になってる。ほら息吐いて?」


そう言いながら、俺の背中を優しく叩く春華。そうか、俺、過呼吸だったんだ。過呼吸なら現役の頃に何度かなってる。治し方なら知ってる。大丈夫。


「そう、息吐けるの上手になってきたね。大丈夫だよ」


大丈夫。大丈夫だよ春華。俺は大丈夫。こんな俺に構わなくたっていいんだよ。それより春華にはもっと楽しく生きてて欲しいんだ。

だから、一刻も早く救いたいのに。







法則を、考えていた。

本当に不定期なのか。でも今までの仮説の方が量が多い。ただの例外と考えた方がいいのか。なんにしても、あまりにも情報が少ない。もっと情報が必要だ。



「…………、」



……もっと、情報が必要?

……それだけ、春華が死ぬということ?









「落ち着いた?」

「うん、ごめん……」

「全然。それよりなんで過呼吸に? 激しい運動したわけじゃないでしょ?」

「そりゃ、まあ……」


言える、もんか。何度も春華が死んでいるなんて。

春華の死に、慣れ始めてるなんて。


いや、でも。

当人の協力を得られれば、春華を助けられる可能性はぐっと高まる。


「あの、ね」

「うん」


そう言って、俺を見る春華の笑顔。

目尻と口角を緩ませて、柔らかく笑うその顔。


「……なんでもない」




その顔を、歪ませたくはなかった。















6回目。


「ねえ、冬馬」


前回は結局次の日の6時に春華は死んでしまった。寝てる間に突然死した。こんな手口を使ってくるとなると、こっちも今のところ手の打ちようがない。突然死なんて使われたら、どう対抗したらいいか分からない。


「なあに」


何度も繰り返したやり取りをしながら頭の中はぐるぐると巡っていた。

そもそもなんで6時なんだ? 本来なら7時だ。1時間早い。


「……、」


もしかして、前々回が1時間遅かったから?

見えない何かが、辻褄を合わせようとしてる?


だとしたら、次は明日の6時だ。辻褄合わせは終わってる。本来の時間通りに戻っていいはずだ。


明日の6時……。どうやって春華を助けたらいいだろう。

そもそもまたズレる可能性だってある。本当に6時とは限らない。

こうなると、もう……。


「春華」

「なあに?」


「変な提案、なんだけどさ、」

「うん」


「今日、俺の家泊まらない?」

「っへ、?」


案の定間抜けな声を出して、目を瞬かせる春華。そりゃそうだ。幼稚園の頃はたまに泊まることはしていたけど、それ以降お互いの家で泊まるなんてしたことない。


「なに、なんで、とーま、理由がほしいよ」

「……英語、やばい、から」

「そんな理由で?!」


急に変な誘いをしたからか、いつもより少し声量が大きくなって若干耳が赤い春華。耳赤くする必要はないと思うけど。


「お願い、」

「……い、いよ、分かった」


若干訝しげな目で俺を見てくる春華。けれど俺はとりあえずの計画が成功して内心安堵していた。


「じゃあ、私どうしたらいい? 帰って準備したら冬馬の家向かえばいい?」

「うん、早めに来て」

「そんなに英語分かんないの……?」





___________

_______



「お邪魔、しまーす、」


そんな声と共に、大きめのバッグと通学リュックを背負って玄関口に立つ春華。

その声は若干躊躇いがちで、まあそりゃそうだよなと心の中で思った。


「どーぞ、急にごめんね」

「大丈夫だけど、急なのは本当にそうだよね」


靴を脱ぎながらそう答える春華に、少しだけ募る罪悪感。でも家の中なら危険性も低い。春華が来る前に徹底的に危険そうなものは排除しておいた。母親に怪訝そうな顔で見られるくらい。


「そだ、教えるのはいいけど数学も教えてね」

「あぁ、うん、いいよ」











そのまま英語を教わって数学を教えて数時間。本当にテスト前みたいにみっちり勉強した。おかげで英語の偏差値が上がった気がする。これが次のテストに繋がればいいけど。お互い。次のテスト、受けられればいいけど。


母親からの夕食も食べ終わって、次はお風呂。ちなみに夕飯はカレーだった。


春華がお風呂に入ってる間にリビングのテレビを見ながらぽけっとしていたら、母親に座っていたソファの後ろから声をかけられた。


「ねえ、冬馬」

「なーに?」

「あんた、なんで春華ちゃん、家に呼んだの……?」


確かに。適当な理由を取り繕うの忘れてた。


「あー……勉強、教えて欲しくて?」

「それなら別に泊まってもらわなくてもいいじゃない……春華ちゃんを泊めるのは全然構わないけれど……」


未だ訝しげな眼で俺を見つめる母。上手い言い訳が思いつかない。


どうしようかと内心で唸っていると、リビングのドアが開かれてお風呂上がりのほてった春華が入ってきた。


「おばさん、お風呂ありがとうございました」

「あ、はーい」


「俺次入ってくるね」

「うん」

「あ、ちょっと冬馬!」


俺は逃げるように着替えを持ってお風呂場へと向かった。



_____



「なんか、久しぶりだね。こういうの」


「え?」


お互いお風呂も済んでほかほかの状態で、アイス片手にソファに並んでいた。たまたま冷凍庫に残っていたアイスはお風呂上がりの火照った身体を冷ましていく。外は冬だからあんまり冷ましすぎるのも良くないけれど。


「お泊まりなんて、幼稚園生以来な気がする」


「まあ、確かにね」



「ねえ、冬馬」


「ん?」


「……あんまり、無理しないでね」



その言葉、数回前に聞いた気がする。そのときは聞き流してしまった、ような。


けれど、わかる。

そのときと、同じ顔をしている。


「ねえ、もうやめよ?」

「え?」


脈絡のない春華の発言に思わず眼を瞬かせた。

そんな春華は眉尻を下げて、困ったように笑っている。


「なにを?」

「勉強、やりすぎだと思うんですよ。数学飽きたよ私」

「あぁ、うん。さすがにこれ以上は俺もやりたくないよ」

「やったあ」


春華はそう言って笑ってアイスを口に含んだ。

視界の端に映る時計が指す時刻は9時56分。とりあえず今日中というのはなさそうだ。やり直した日に春華が死ぬということはないのか? いやでも1時間ずつ早まるという仮説通りなら回数を重ねれば今日中に春華が死ぬことだってある。まだそのときではないけど……。


「とーま、そろそろ寝ない? 眠くなってきた……」

「早いね、春華いつもこんな早寝なんだ」

「いやいつもはもうちょっと遅いんだけど、数学やりすぎて疲れちゃったから……」

「なにそれ」


そんな話をしていると「春華ちゃん、寝るところ客間でいい?」と声をかけてきた母親。


「あ、はい! ありがとうございます」

「いーえ、ごめんね、急に呼んじゃって。冬馬が」


そう言いながら俺に痛いくらいの視線を送る母。俺はその視線を華麗に躱して、アイスのゴミをゴミ箱に放った。


客間か……あそこに何か危険なものは多分無かった。あの部屋なら多分大丈夫だ。突然死とかでもない限り。



「じゃあ冬馬、おやすみ」

「うん、おやすみ」


その言葉を交わして、春華は客間へと向かった。俺も母親の視線が痛いから早く自分の部屋に行こう。





















「────冬馬、冬馬、!!」




誰かに、呼ばれてる気がした。



春華?


ここはどこだろう。



海の中。深い、深い、海の中。




誰か、こちらに手を伸ばしてきている。

掴みたい。

けれど、掴めない。



「とうま!!」



なんでそんなに俺を呼ぶの。

俺を、なんで、なんで。











「──ま、とうま、!!!」


「っ、!!」


痛いくらいに目を見開いて、真冬なのにやけに汗ばんだ首筋に手を当てた。


見慣れた自分の部屋と、3回目ともなれば慣れてしまった母親のひどく焦った顔。


ああ、やっぱりだめだったか。




じゃあ、次だ。






……次?


「次ってなんだよ……くそっ……」







──────────────


7回目。


「ねえ、冬馬」


前回の春華も結局突然死だった。救急車を呼ぶ母親の目を盗んでお社に向かった。だから春華の顔は少ししか見てないけど、突然死だとそんなに綺麗な顔なのかと少し驚いた。


「なあに」


突然死が続いてる。見えない何かもまるで飽きてきたみたいだ。人の命を弄んで、何が楽しいっていうんだ。


前回の春華が死んだのは6時。一旦は仮説通りだ。そうすると今回は明日の5時。


「とうま」


今までのやり取りとは違う声が、俺を呼んだ。俺は目を瞬かせて、春華の顔を見た。



あれ、春華の表情、こんな感じだったっけ。


前はもっと、ゆるゆるした感じで……。



「冬馬?」


「あ、ごめん、なに?」


「明日さ、一緒に出かけない?」



心臓が、握り潰されたような感覚に陥った。背筋が粟立って、首筋に嫌な汗が伝う。脳内が警鐘を鳴らす準備をしていた。


「なんで、どこに」

「特に理由はないけど、なんとなく。お鍋食べたいから」



『明日は特に寒いらしいから、お鍋とかいいよねえ』



ずっと、ずっと、昔に、春華が言った言葉がフラッシュバックする。

目の前に居るのも、春華。

あのときその言葉を言ったのも、春華。

本当に?

本当に、今目の前に居るのは、春華?


「とーま?」


その、舌っ足らずな呼び方で俺を呼ぶ。

それは、春華だけの呼び方。


大丈夫、今目の前に居るのも春華だ。


「何処でもいいけど、安いとこにしてね。月末だから二人分払えるか分かんないし」

「……ふふ、奢ってくれるつもりだったんだ? いいよ、自分の分は自分で払えるよ」

「いーよ、払わせて。たまにはさ、かっこつけさせて」


俺がそういうと、目を瞬かせて寒さで擦り合わせていた手をピタッと止める春華。

俺が不思議に思って見ていると、春華の顔はゆったりと破顔してゆるっと口角を上げた。


「……ふへ、なんかかっこいいね、とーま」


そう言われて、何だか首筋が熱くなって、俺は思わず目を逸らして春華のプリントに目を遣った。


春華が「れーてん、ご」と言っていた箇所。そこに小さく三角を書いた。


「明日の何時? 4時?」

「はっや……どこ行くつもりなのそれ……10時くらいにしようよ。美味しいお鍋屋さん探しとくから」

「わかった」


「ふふ、楽しみだね」

「……そーだね」


そう言うと、春華はまた目を瞬かせた後、ふにゃりと笑った。



















翌日の午前8時。

寝覚めのいい朝だった。前回見た海の中に居るような夢はあれ以来見ていない。あれ以来といっても、あれから眠ったのはこの一回だけなんだけど。


「冬馬おはよう、今日春華ちゃんと出かけてくるんでしょ?」

「うん」


準備している傍ら、そう声をかけてくる母。母からは特に何も言われない。つまりまだ春華は無事だ。見えない何かがまた遊び始めたらしい。


「気をつけて行ってきてね」


前回の切羽詰まった顔とは真逆のような、穏やかな表情。


「…………」


前回って、なんだ。

前回だろうとなんだろうと、春華は死んでいるし周りの人はひどく悲しんでいる。


はやく、はやく救わないと。





──────



「冬馬、お待たせ」


聴覚の端がその声を拾った。

声に釣られてそちらを見遣れば、チェック柄のワンピースの裾をふわりと揺らして、前髪を三つ編みにアレンジした春華が立っていた。


「……お待たせ、ってほど待ってないよ。まだ50分だし」

「そっか。ねえねえ、どーですかこの格好」


そういいながら、ワンピースの裾をひらひらとさせて柔い笑顔を向ける春華。「夏ちゃんに前髪のアレンジの仕方教えてもらったの〜」と嬉しそうに指先を前髪に向けている。夏ちゃん、は確か春華の中学の友達。


「どう?」


そう言って、目尻を緩ませて、口角をふにゃりと上げて、期待いっぱいの顔でこちらを見る春華。





この光景を、本当はもっと前に見ていた。


ずっと、ずっと前。12時に約束していたあの日。


それが、やっと、やっと。叶った。




「すっごい、かわいい」


また涙が出そうで、言葉に混ぜてそっと隠した。



「……あり、がと。冬馬がそういうの言うの珍しい、から」

「から?」

「や、なんでもない……それより行こ!」


春華はそう言って笑って、俺の手を引いた。




「ねえ、まずはどこに行こっか? お昼にはまだ早いよねえ、あ、ちなみにお昼はお鍋だよ」


一度にたくさん話す春華。そんな春華は珍しくて、少し意外な一面を見た。

やり直しをしていなかったら、もっと早くにこんな春華を見ることが出来ていたんだろうか。


「どこでもいいよ、春華の行きたいとこ」

「ほんと? じゃあ行きたいお店あったの、そこ行こ!」




─────────

─────



「た〜〜〜〜のしかったねえ」


独特な言い方をしながらこちらを振り向く春華。確かに楽しかった。最初は春華が行きたいと言ったお店に行って、雑貨屋さんだったから色んなものを見た。面白いものも結構あって、その度に春華と笑い合った。

その後はお鍋を食べた。案外食べる春華と、割と食が細い俺。食べるときの相性は良かったらしい。



「ねえ、今日は本当にありがとね」


くるっと栗色が振り返って、そう言葉を紡ぐ春華。

目尻を綻ばせて、ゆるりと口角を上げている。いつだって変わらないその笑顔。



「冬馬、そろそろ帰ろっか」

「そー、だね」


そんな会話をしながら歩く通り沿い。もちろん俺が車道側。頭一つ分くらい下にある春華の頭がふわふわと揺れている。



のんびり話していると、春華と別れる交差点に辿り着いた。今度は歩道橋は渡らない。絶対に。


春華は横断歩道を渡って真っ直ぐ。俺は渡らずに左に曲がる。そこで春華とは別れる。


「じゃあ、今日はありがとうね冬馬」

「んーん、こちらこそ誘ってくれてありがとね」


そう言うと、また柔らかく笑む春華。

明日も、その笑顔を見たい。


「じゃーね! ばいばーい!」


青になった信号と、俺の方を向きながら横断歩道を渡る春華。


「ちゃんと前見て!」

「はーい!」


そう大きな声で言えば、負けないくらい大きな声の返事。

大丈夫。明日もまた会える。これから先もずっと。

今度こそ。

きっと。




ざわ、と。

周りの人が騒ぎ出した。何かと皆が見ている方を見遣れば、大きなトラックがふらふらとこちらに来ていた。


さすがに気づいた。これは春華の方に向かっている。


「春華!! こっち来て!!」


騒いでいる人達を押し退けて俺は春華の方へと走り出した。

春華が死ぬ瞬間、俺と一緒に居たら春華はどうなる? 俺共々死ぬのか? その可能性は恐らくない。俺が死んだらやり直しも何もなくなってしまう。



春華の手を掴んで、ぐっと握りしめた。


最初からこうすれば良かったんだ。

最初から、こうしていれば。


こんな簡単なことで良かったんだ。

春華を救う方法は、こんなに簡単なものだった。


それに気づけなかった俺は、なんて馬鹿なんだろう。

ごめんね春華、今救うよ。



「……っ、!!? はるか、?!」


掴んだはずの手は、強引に解かれた。

春華に触れようとすることさえ出来ずに、力いっぱい押し返された。

なんで、なんで春華。なんで俺を押し退けるの。


「春華!!」


叫んでも、届かない。

伸ばした手が、また宙を掻いた。


「……冬馬、ごめんね」


そう、聞こえた気がした。



「ああああああああぁぁ!!!」


春華を轢きずって咽ぶトラック。

目の前に飛ぶ血飛沫。

耳を塞ぎたくなるほど痛々しい急ブレーキの音。

劈くような悲鳴。



もう、いやだ。










その足で、俺は鳥居へと向かった。




──────────

─────


「ねえ、冬馬、……っい、た!」


その声を聞いた瞬間、俺はその手首を掴んだ。


「いたい、痛いよ冬馬、離して」


「……何が痛いだ、こんな程度今までに比べたらなんてことないだろ」


「……冬馬?」


「ねえ、俺はあと何回やり直せば終われるの? 何回春華が死ぬところを見ればいいの? 俺はあと、何回……っ、」


「冬馬」



そんな、優しい声が俺に注がれた。

ハッとして顔を上げれば、慈しむように眉尻を下げた春華が困ったように笑っていた。

また、いつもと違う笑顔。


「ねえ、冬馬。午後の授業は保健室で休んでなよ。それで今日は一緒に帰ろ」


「ね?」と。その笑顔を浮かべながら言う春華。



「……うん」


その言葉に、久しぶりに落ち着いて頷いた。







保健室に行ったときは、養護教諭にひどく驚かれた。「そんな顔色でよく午前の授業出れたね」なんて言われた。午前の授業なんてもう何にも覚えてないけれど。


保健室のベッドに寝転んで、目を閉じた。


眠りにつくのは、ひどく容易かった。




─────────



「───ま、とうま」


優しい声に起こされて、ふわりと意識が浮上した。

ゆっくりと目を開けて数回瞬けば、視界に映るのは保健室の白い天井。


「冬馬、起きた?」


声のする方を見遣れば、コートにマフラーと温かそうな格好をした春華がこちらを見ていた。


「……おはよ」

「おはよ〜、ぐっすりだったみたいだね」


「早速だけど帰れそう?」

「うん」


春華が持ってきてくれた鞄と防寒具を受け取って、春華と一緒に保健室を出た。

寝起きで回らない頭でマフラーを巻いている傍らで春華が「コンビニ寄らない?」と尋ねてきた。断る理由も特にないので頷いた。



昇降口を出て、ふたりで並んで歩き出した。

いつかの日にふたりで帰ると付き合ってると誤解されそうで一緒に帰るのを断った日があったっけ。もうそんな日々も懐かしい。


気づけばコンビニに着いていて、コンビニ内の温かい空気に包まれながら、ふたりであんまんと肉まんを買った。春華があんまんで俺が肉まん。お互い両方食べたいから半分こしようということになった。


コンビニから出て、人の邪魔にならない辺りで封を開けた。封を開けた瞬間ホカホカとした空気が鼻に当たって、身体全体にじわりと熱が通った。


「はい、半分」

「ありがと、半分」

「ありがとー」


肉まんのしょっぱさとあんまんの甘さが両方摂取出来て、すごく贅沢をしている気分になる。

肉まんのタケノコと肉の食感がすごく美味しい。あんまんはこし餡で食べやすい。


「半分ずつ食べれて良かったね」

「ほんとだね〜〜〜美味しい〜〜」


表情筋をゆるゆるにしながら味わってる春華を見ながら、俺も少し口角が上がった。



ふたりとも食べ終えて、また歩き出した。

そういえば、次は何時だったか。前回があまりに狂っていたから計算が頭の中じゃ難しい。


「ねえ、冬馬」


俺の左隣を歩いていた春華が、頭一つ分下から声をかけてきた。


「なあに」


「そこの公園、寄っていかない?」


そこ、そう言って春華が指している公園は、幼稚園生の頃に春華と何度か遊んだ公園だった。当時より少し廃れてしまった遊具たちは、何だか寂しげだった。


「いいよ」


そう、言った瞬間。


「……雪だ」

「わ、ほんとだねえ」


目の前を掠めた白い結晶。手のひらを空に向ければ、降ってきた雪が落ちて溶けていった。


「冬馬、行こ?」


公園の入り口に立っている春華が俺を手招いた。なんだか不思議な雰囲気を纏う春華に、少し心臓の奥が疼いた。



公園の中へと入っていって、周りをぐるりと見渡した。ブランコに鉄棒、どれも小さくてなんだか不思議な感覚になる。


「春華、」


そう声をかけようとした瞬間、思わず息を呑んだ。



雪が周りの音を吸い込んで、儚く地面へと落ちた。


いっそ恐ろしいほどに静かな気配が、俺達を支配していた。


「ねえ、」


俺の三歩先を歩く春華が、緩慢な動きで振り返った。その栗色の髪が柔らかく揺れて、思わず目が奪われる。


「もうすぐ、冬が終わるよ」


春華はゆるりと目を細めて、ふにゃりと頬を上げた。俺はそれに表情だけの相槌を打って、春華に一歩近づいた。


すると春華は、くるりと振り返った。




「ねえ、もうやめようよ」



そう、言葉が紡がれた。


喉が急に締められて、肩が強ばった。

なんのこと? そう訊きたいのに口が渇く。唇が動かない。



俺が声を出せない間に、春華の丸くて大きな瞳に浮かび始めた涙。今すぐ拭ってあげたいのに、身体が言うことを聞いてくれない。



「私ね、全部知ってるの」


「……え、」


ようやく口から出たかと思えば、そんな間抜けな声だった。


「……春華、」


「私が何度も死んでることも、冬馬が何度もやり直してくれてることも、全部」


「なんで、」


「私ね、死んだ後は冬馬がやり直してくれるまで、ずっと深い海の中みたいなところに居るの。一回だけ冬馬も来たことがあるんだよ。覚えてる?」


そう言われて、ハッとした。あの夢の中。あれのことだったのか。


「現実に戻る瞬間も、多分冬馬と同じ。今日の昼休みが始まったとき。そうでしょう?」


頷くしかなかった。どんな言葉をかけたらいいかなんて、分かりやしなかった。



「冬馬も疲れたでしょ? もうやめようよ」

「待っ、てよ春華!! 俺は疲れてなんか、!」


「違うの」


春華の透き通った声が、ひんやりと紡がれた。

雪は知らない間に積もり始めていて、俺たちから温度を奪っていった。


「違うの。私が疲れたんだよ、冬馬」

「……はる、か」


「何度も何度も死んで、痛い思いをして。寝てる間の突然死は楽だったけどね。でもこれ以上は限界なの。もう、やめて」

「はるか、」

「お願いだから!!」


そう叫んで、春華の瞳から溢れた涙。

涙と対照的に、優しくて悲しそうな笑顔。そんな顔、見たことない。



「ねえ、冬馬。人には終わりがあるの。いつか必ず死ぬの。だから人は頑張れるし、必死に生きることが出来るの」


「終わらないものなんて、この世に何一つないの」



ぽろぽろと、溢れ続ける涙を止めることなくそう紡ぎ続ける春華。

どうしたらいいか、分からなかった。

でも、言いたいことだけは、言うべきことだけは、分かっていた。


「春華、」


「冬馬」


「冬馬、次の私は今日の12時に死ぬよ。それが最後。見えない何かがそう言ってる。そして今回の私はもう死んでる。」

「だから今の私はお化けみたいなものなんだよ」


そう言って、鈴を転がしたような声で笑う春華。


「待って、春華!!」

「じゃあね、冬馬」


そう言った瞬間、春華の身体が雪のように透き通り始めた。雪に攫われそうなほどに儚くなってしまった春華を掻き抱こうと手を伸ばしても、透けて掴むことすら出来ない。


「春華!!」


「言ったでしょ、人には終わりがあるって。それが私は今だっただけ」


「今までありがとう、冬馬。だいすきだよ」


春華を掻き抱いた瞬間、その言葉と一緒に消えてしまった。

俺はその場に蹲って、嗚咽することしか出来なかった。


「…………だったら、なんだって言うんだ」


けれど、俺が次にすることは決まっていた。



俺は立ち上がって、荷物も持たずにある場所へ走り出した。




何回と通った鳥居への道。すっかり暗くなった夜道でももう道なんてとっくに覚えていた。

最初はただ歩くだけで疲れていた石段を駆け上がって、お社へと辿り着いた。


春華が言っていた、春華が次に死ぬ時間は12時。昼休みが始まるのは12時。だけどあの日は先生が早くに授業を終わらせてたから戻る時間は11時57分。


「…………」


これが最後と、言っていた。これでまた、失敗したら。春華は、きっと、一生会えない。


無駄なことは考えるな。やるべきことだけ考えろ。



俺はゆっくりと、足を踏み入れた。












────────────










「……、っ!!」


目覚めて視界に入ったのは目の前の栗色。焦ったようにこちらを振り返った。


「なん、で、冬馬、やり直したの、?」


俺はそんな言葉にお構いなく春華の手を掴んで、教室を飛び出した。


「冬馬!!」


春華が俺を止める声が聞こえる。でもそんなのに耳を貸してる余裕はなかった。




ガチャ、と大きな音を立てて、扉を開いた。


その先に広がる光景は、いっそ清々しいほどの快晴。

開けた扉は屋上への扉。俺が考えた校内でいちばん安全な場所はここだった。

屋上にある時計の時刻は11時58分。


「冬馬、なんで屋上になんか、」

「いいか春華。ここで12時を過ぎるまで俺から離れないで」


ぎゅ、と手を繋いだまま、まっすぐに春華の目を見つめた。戸惑ったように目を瞬かせる春華。手の繋がりだってひどく脆く感じる。

それだったら。


「ちょ、冬馬!?」

「12時過ぎるまでこうしてて!!」


今度こそ、今度はちゃんと春華を掻き抱いた。華奢なその身体に、今までどれだけの苦痛が強いられてきたのだろう。どれだけ痛い思いをしてきたんだろう。

ごめん、ごめんね春華。

今度こそ、今度こそ絶対に。絶対に助ける。


そう思った、瞬間。


「っ、!!」

「春華!!」


台風、なんて生易しいもんじゃなかった。この世のものとは思えないような、あの鳥居から来たとしか思えないような突風が俺たちを殴った。


華奢な春華の身体は呆気なく宙を舞って、屋上の塀の外へと投げ出されようとしていた。


「春華!!」

「っ、」


春華が落ちるギリギリで、俺はその手を掴んだ。今度は掴めた。やっと、その手を掴めた。


「なに、してるの冬馬、はやく手離して、!」

「なにしてるはこっちのセリフだ! はやく手すり掴んで!!」


春華の全体重が春華の手に掛かっていた。それを両手で掴むのが必死だった。両手で掴んでいるせいで俺の身体を支えるものは何もない。このままじゃ春華と一緒に落ちてしまう。


「言ったでしょ冬馬! 人には終わりがあるって、」

「そんなの分かってる!!」


びっくりしたように目を瞬かせる春華。

俺はそんな春華に自信満々に言ってやった。


「だったらなんだって言うんだ!! 愛しい人を守りたいと思って、大切な人を救いたいと思って何が悪い!! だいすきな人と一緒に居たいと思うことの、何が悪いってんだ!!」


目を見開いて、瞳の縁に水を滲ませる春華。




次の瞬間、春華の左手は手すりを掴んでいた。


「っ!! 春華頑張れ!!」


必死に身体を持ち上げる春華の右手を全力で引っ張りあげた。上半身が上がったところで、今度は自分の方へと引っ張った。


「うわ、!!」

「わっ、!」


どすん、と音がして、自分の上に春華が覆い被さった。




その瞬間、12時のチャイムが鼓膜を震わせた。



「12時……過ぎてる……」


春華が、そうぽつりと言った。時計の時刻は12時1分。12時を過ぎていた。


「ほんとに……? ほんとに俺、春華のこと救えたの……?」

「……なんで救った本人が疑心暗鬼になってるの?」


「だって、だって…………本当に、春華が、助かった……」

「わ、泣かないでよ冬馬……、」


安心感からか、ぽろぽろと溢れてくる涙。俺に釣られたのか、春華も泣き出していた。


ふたりでわんわん泣いて、気の済むまで泣いた。こんなに泣いたのは久しぶりで、泣き止んだ後は見なくても分かるくらいに目が腫れていた。


「……ふふ、ねえ、冬馬、私のことだいすきなの?」

「……すぐそういうこと訊く……」

「こんなの訊いたの初めてだよ」

「まあ確かに」


「で、どうなの?」

「……だいすきだよ」

「……ふふ、私も」


春華はそう言って、ふわりと目尻を下げて笑った。







───────



「お、桜の蕾」


繋いだ手の先の栗色が、見上げながらぽそっと言った。


「ほんとだ」

「私、冬が終わるよ、なんて言ってたけど、今年の冬は結構長かったよね」


そう言って俺の方を向く春華。

冬、確かに長かった。ずっと寒かった気がする。


「でも今度こそ、冬が終わるよ」

「そうだね」



「次は、春が来るよ」


そう言って、繋いだ手にきゅ、と力を込めた。


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― 新着の感想 ―
[一言] クソ長いコメしてごめんなさい(>人<;)
[一言] なんて言うんでしょう………… ほんとに、ただの気まぐれで見つけさせて貰ったのですが、今、読み終えた感想としては「この作品に出会えて良かった」が適当な気がします。(語彙力ないんです許して) 本…
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