悪役令嬢は脱走し、脱臭する(百年の恋も冷めました)
豪華な扉が開き、一瞬意識が遠のく。
「お嬢様、こちらが第三王子殿下の応接室にございます」
困惑したように告げる王宮王子付きの侍女の声。
その声に慌てて意識を引き戻すと、やはり鼻を強い悪臭が蹂躙した。目は涙目になりかけ、頭痛までする。
今までは全く気になっていなかったが、よく考えればこの廊下もなんだかスカトール臭(要するにう◯こ臭)がする。侍女の足元、薄汚れたヒール靴が発生源だろうか。
そして気付くと私は顔を歪めかけていた。けれど私は公爵令嬢。耐えねばお父様に迷惑が……ダメ、無理。くちゃい。
思わず涙目になった。
そして目の前には、いつの間にか更なる悪臭発生源。驚き口を半開きにしたままの悪しゅ……美少年。前世の押しの幼少期であり、今世の私が淡く恋していた相手。けど、感動する余裕が私にはなかった。
相手に失礼と思いながらも咄嗟に距離を取った。そうしないと気絶しそうだったからである。この世のものだと到底信じられないほどの悪臭を目の前に、そうするしかなかった。
倒れたらきっと、廊下の悪臭要因に倒れることになる。そんなことは御免である。
「第三王子殿下、こうして再びお会いできること大変光栄にございます。私にこのような機会を設けて頂き感謝の極みにございます。殿下におかれましては日々大変多忙と伺っておりますゆえ本日このような挨拶のみとなりますが、以後お見知り頂ければ幸いです。それでは御前、失礼いたします」
鼻奥の痛みを我慢しながらの挨拶とコーテシイ。
こんな時にもお手本通り貴族の礼をできるのは、散々我儘令嬢呼ばわりされてきた『私』の努力の結晶。悪臭にはもったいないでしょうね。だからさらっと御前を去る旨を入れてみた。
そして、相手があっけにとられているうちに私は逃げた。三十六計逃げるに如かず。
正直廊下も臭いが、あの密封空間は異常だった。息をしないようにしても漂ってくる臭さには耐えられなかった。不敬でも、私まだ6歳だからきっと許されるわよね?
不思議そうな表情の侍女(臭)の視線を無視し、私はお父様達の元へと歩みを進めた。嗚呼やっと息がまともにできる。
尚、この時残された美少年は停止状態から復活した後フッと笑った。
「……面白い」
なんのことはない。
それまで媚の押し売りをしてきた貴族令嬢達の中、珍しく自分に媚を売りつけない令嬢がいたこと。それが珍しかっただけである。おまけに涙目で、とても美しかった。
それにあの芳しい花の香り。もう少し近くで感じたかった。また会いたいな。
そうだ父上にお願いしよう。婚約者として彼女をと。
こうして知らず知らずのうちに、王子の関心を引いてしまったのであった。
そんな事を知らない私は必死に歩いた。貴族ルールで廊下は原則走ってはいけないのである。
それにしてもあの部屋。何故あんな臭かったのだろう。まるで腐った牛乳を夏の剣道部の防具へ漬けてからカメムシ潰したような臭がした。
ええ、そうです……吸い込んだ瞬間死ぬかと思った。
でもそれで『前世』の記憶を思い出してしまったのだから、よかったといえるのかしら。
私ってTL系ライトノベル『百年の恋は芳しく』の悪役令嬢だったのね。そしてあの王子はヒーロー役。ああそう、だから初対面で殺しにかかったの、芳しい香り(臭)でもって。
納得しかないわね。(※勘違いです)
そういえば名乗っていなかった。
はじめまして、私の今世の名前は『ルルーティア・ベルン・グレンデル・フォン・イスカリオテ』です。この国の筆頭公爵家令嬢であり、最後に死んでしまう悪役令嬢ですのよねぇ。
実体は日本で生活していた『古市紅』という30代のOLです。それも、死ぬ直前は幸せ絶頂の結婚生活中だった。死因は夫不在の間にキチガイ女に刺されたこと。
ああ、何故こんな事に……夫はきっと、怒っているわね。後追いしている可能性が高くて、申し訳ない。
溜め息を1つ吐くと、記憶が戻って来る前の自分の行動をひとつひとつ思い出して更に深い溜め息を吐いた。
ええ、確かにこの世界では典型的な我侭令嬢にもなりますわね。ただし、『現代日本』の生活レベルを基本としていなければ。
中世欧州レベルの生活に元日本人の清潔好きが耐えられるはずもなかったのね……やっぱり転生しても本質は変わらないものですわね。内心ため息をつく。
それでも、もう少しなんとかならなかったのかしら、と。
今すぐ鼻をつまみたいのをぐっと堪えて、私は父親の待つ客室へと向かった。
侍女に連れられてお父様の王宮内執務室へ入ると……刺激臭が襲って来た。これはもはや悪臭とも呼べない。痛みそのもの。そう、もうどうしようもなく痛い。
空気に触れるだけでなんというか、目鼻に加えて頭痛でグワングワンするといえばよろしいのか。頭が痛い、臭い、死ぬ……臭殺される。
空気中に高濃度の香水でもぶちまけたのかしら。それくらい、ひどいですわね。
到頭刺激臭に涙が耐えられず、こぼれ出てくる。嗚呼止まらない。
ところで疑問に思ったのですが……まさか自宅もこんな有様なのでしょうか。私の安泰の場所って一体。
「おお、どうした?! 私の可愛いティアよ……」
駆け寄って来る父上。悪夢の瞬間。
悪臭ガガガ……まるでワンコのウ○コに腐肉から出た謎の液体と賞味期限切れの牛乳を混ぜたみたいな臭ですわね。それが急接近し、私をあっという間に抱きついたのです。
くちぁい(号泣)
突き飛ばすのと引き攣りそうになる顔を何とかしようとする以前に私は一瞬意識を飛ばしてしまった。仕方がないでしょうね。
何がひどいって。前世の父親の放置された靴下(=臭いものNo.1)よりひどい悪臭なのです。そりゃ感覚の敏感な5歳児では耐えられまい。
それらを全て我慢し、何とか声を絞り出した私は正直頑張った。
「お父様、私、気分がうぅ、優れませんの……帰宅、時間を少し、早めては、駄目?」
色々な意味で涙目になりながらお父様に訴えかけると、今まで話していた部下(臭)と思しき男性達へ挨拶を告げました。そして、私の希望した通り、さっさと帰る事となりました。
そして、お父様は最上位の敬礼を初老の男性へ。よく見れば、知った顔ですわ……って国王陛下(臭)!?
まずい、不敬罪……倒れかけ、お父様(臭)に支えられ、また気絶しかける私。
まずい、まずい、まずい……でもごめんなさい、もう無理。
見かねた国王陛下は王族へ不敬だとかそんな事一言も言わず、どころか私を労う言葉を賜ることになった。ゆっくり休めと。
……息子さんは大衆の面前で婚約破棄する(予定の)クズなのに、なんて立派な人徳者。臭いけど。
国王陛下には悪いですが、あんな臭い場所もう金輪際近づきたくない。そう決めたので、帰宅途中父に婚約解消の件を上手く御願いした。馬車も臭いのを我慢して。
王宮もそうですが、そもそもあんな臭い人は却下。それに、前世の夫以外に私の旦那になる人はありえませんわ。きっと今世でもあの人はひょっこり現れることでしょう。
むしろ、再会した時清い身で居なければ血の雨が降りますわよね。
お父様は機嫌よく、いい具合に断りを入れてくれると約束してくれた。それに少しほっとして、窓の外を見た。
そこには前世と同じ、森の緑色と空の青。常識的な色でよかったです。臭いけど。
そして、のんきな私はこの時本当の絶望を知りえなかったのであった。言い訳として、記憶戻ったばかりだったし少し冷静さを失っていた事は否めないが、それにしても油断していた。
せめて心の準備くらいしておけば良かったのでしょうか。
そう、馬車とか王宮が臭いとか思っている時点でまだまだ甘かった。それより世の中にはもっと臭いものがあると知らなかった。
さて皆様、欧州における中世とはどんな時代だったか。
トイレや衛生観念はどうなっていたのか。
そう、江戸が例外であって、どこも大体ゴミ糞便が街中へ普通に放置されていたのでした。
ちゃんと厠とか作っていたのは日本人くらいで、大きな市街地とかになってくると疫病とか割と良く流行っていたんですよね、中世って。特にフランスとイギリスは酷かったって……
「ティア、家に着いたよ? ささ、降りて来なさい」
ドサッ……
「!? ティア?!! ティア!!! 誰か、誰か医者を呼べ! 今直ぐだ!!」
くさ、ただひたすらにくさ。
自宅がこんなくさいとか……スカトール臭・アンモニア臭や王子・国王陛下、王宮の臭さなんて、まだ可愛いものだったのですね。そういえばあれでも使用人が一番多く、整備されているはずだったし。
でもこのくささはありえない、ありえないのです!
これはもう悪役令嬢とか色恋沙汰とか言っていられません。
いいです。
この私が領内とか色々含めて私の居る環境は少なくとも奇麗に清潔に清浄にして差し上げますわ!
ええ、こんな悪辣環境私が耐えられるはず有りませんからね。
許せない……許せないこの不衛生なゴミ屋敷(臭)が自宅とかあり得ないのですよ。中世といえ、こんな場所人間の住む場所ではないですわよ!
そんな決意を胸に、私は倒れ伏したのだった。
短編版おまけ:王子が異常に臭かった理由
年齢相応に体動かすのが好きな元気っ子な王子様。再三婚約者(候補)が来ると言われていたのに、その日忘れていた。
そして、いつも授業をサボる時に使う秘密の道を歩いていた。
「ん?? あれ?」
通路の真ん中に『改修工事』という看板がかけられており、回り道の地図があった。その事へ一瞬違和感を覚えたが、無視して進んだ王子。既に、意識は城下町の屋台へと向かっていた。
それを見込んでこっそり街への道を一時的に塞いだ父王。代わりに別の道を設置し、お灸を据えるつもりでちょっとした(?)仕掛けをしていた。
そうと知らない王子は見事、罠にかかり……
「!?」
全身濡れ鼠になった王子へ爺は失神し、能面侍女は淡々と洗い流した。
ここで余談だが、堀の底部には特殊な薬草が生息している。希少な水性植物で、過去王都で流行した疫病の特効薬の原料であった。
問題はその特徴。
独特な臭いがあり、生息地がとてつもなく臭くなるため、嗅覚の鋭い魔物は自ら近寄らないのであった。また、薬草自体も臭いが、薬草の浸かった水が人間の皮膚(要する脂質・タンパク質)に付着すると1ヶ月は迷惑な体臭となる。しかも、本人のみ体臭は感じられない仕様となっていた。
過去はよく、これを利用して王城への不法侵入者した敵国の間者を捕縛していたという。
父王が道へ仕掛けたのは侵入者の頭上へ水を輸送するギミック。ただし、掘の下の方から汲み取った、と小さく注釈の付く水だったが。
結果、あまりの臭さに爺は失神、侍女はますます忠誠心を下げ、そして婚約者(候補)には臭い奴だと嫌われる事となった。
(※王子が汚水を被った直後接した人たちは、その後1週間軒並み臭くなりました。)