お見舞いフェスティボー②
〈ナル〉
「はぁ」
ため息なのか、あるいは息が切れているだけなのかはわからないが、小さなそれは俺の口から漏れた。
スマホの画面を見ると時刻は17時半。どうやら俺は吉岡の家に30分ほどお邪魔していたらしい。冬の訪れを感じさせる今の季節では、この時間になるともうすっかり外は暗く肌寒い。
しかし俺の身体は火照りを帯びている。なぜかーー。
俺は吉岡から逃げるように、吉岡の家から飛び出した。うしろを振り返ることができなくて、走った。がむしゃらに走った。
俺はずっと吉岡の家に入ってから空回りしていた。悟られないように、努めてハイテンションを装った。
藤巻のスキャンダル調査の報告について、俺は多くの時間を取れなかった。いや、取りたくなかったんだ。
そう、俺には心当たりがあるから。
漫研の部長に「藤巻タマキは男が好き」という噂を教えられたとき、俺はそれをすぐに否定することができなかった。「きみがBL好きだから、そういう発想になるだけだろ!」と唾を飛ばすことはできなかった。
そう、そのとき俺には心当たりがあったから。
不自然なまでにいつも吉岡の恋路を邪魔する点や、それでいてその女の子たちと関係を持たない点、そして今回の噂、これらのことを踏まえると、ある一つの疑念が頭に浮かんだ。
確証なんてない。だけど藤巻が好きなのは「あいつ」なんじゃないかって思ってしまった。そう思えるだけのファクターが十分にあった。
だから俺はそれを悟られまいとして、必要以上にテンションを高くして吉岡をショウコちゃんを、そして自分をも誤魔化した。
だから俺はそれを悟られまいとして、藤巻のスキャンダル調査については話を手短に済ませてさっさと逃げるように帰ってしまった。
俺は自分の頭にあるこの疑念を持て余している。だれにも話すことができない。とりわけ吉岡には話せるわけもない。
「わりい、吉岡」
そこに吉岡はいないのに、俺は吉岡に謝った。ずるい謝り方だ。
走るのをやめた俺は、寒空の下をとぼとぼと歩いていた。
すると前方から「やあ、奇遇だね」とこちらに向かってくる人物がいた。
「なんだ、おまえも吉岡の見舞いか?」
〈ヨシオ〉
「吉岡くんって妹さんがいるんだね。羨ましいなあ」
行儀良く座布団の上にちょこんと座った藤巻はそう言って微笑んだ。
今日はよく妹のショウコを羨ましがられる日だなあーーなんて呑気に考えてる場合か、俺。
なんだこの状況は。
場所は前回と変わらず俺の家、俺の部屋。
しかし登場人物が異なる。もちろん変わらず俺はいるのだが、対面に座っているのは成瀬ではない。なんとあの憎きイケメン。藤巻タマキである。
そんな見舞いにきてくれるほど俺こいつと仲良かったっけ?とか浮かぶ疑問はいくらでもあるが、今はそんなことはどうでもいい。捨ておけそんな疑問は。
今はそう、もっと重要なことがある。
ついさっき、成瀬が残した言葉。
「藤巻のやつ、男が好きらしいぞ」
これが頭にこびりついて取れない。成瀬はこれについてなんの説明もせずに帰ってしまった。
俺の思考が追いつかない中、時間だけは無残にも過ぎていき、そしてなんの因果か藤巻タマキご本人登場。
そして俺は考えるのをやめた。
俺は、例の宇宙に漂う岩の塊よろしく膝を抱えて座った。
すると藤巻が「やっぱりまだ具合が悪いのかい?横になっていなよ」と声をかけてきた。
「いや、心配には及ばんよ。体調はすっかり平気でな、急に藤巻が来たもんだから驚いてさ」と俺は取り繕った。
「急に来てしまったからね、ごめんよ」と藤巻が頭を下げた。
「いやいや、来てくれたのは嬉しいよ。けどちょうどさっきまで成瀬も来ててさ、そこで藤巻の話題が上がってたから、噂をすればなんとやらって」と俺は反射的に答えた。別に藤巻が見舞いに来てくれることを嬉しいとは思っていないが、ついそう答えてしまった。
すると藤巻は少し複雑そうな顔をして、「成瀬くんと、僕の話題……?」と怪訝そうに訊ねてきた。
あ、やべ。
さすがに本人に直接男好きかを確認するほど、俺は肝が座っていない。ひじょうに気になるところではあるが、ぐっと押し殺して俺は嘘をついた。
「あー、えっと、いや俺らも藤巻みたいなイケメンだったらなあ、って僻んで盛り上がってたんだよ」自分で言ってて悲しくなる。
すると藤巻は「そんなことないよ」と照れくさそうに顔を赤く染めて、謙遜してみせた。
くそ、なんて嫌味のなさだ。性格もイケメンなのかよ非の打ちどころがねえ。
そして藤巻は「それに吉岡くんはそんなこと気にしなくても女の子にモテモテじゃないか」と続けた。
……前言撤回だ。やはりこのイケメン、腹の中が真っ黒と見た。いつもいつも俺の邪魔をしておいて、どの面下げて言ってやがるんだこいつは。しかもめっちゃ爽やかに言いやがって。
ーーなんてことは思ったものの、不思議と怒りの感情は湧いてこなかった。むしろどう返事したものかと悩んでいたくらいで、俺は必死に脳内の言葉の引き出しを開けていた。
結果的にボキャ貧の俺は「い、いやあ」と藤巻に苦笑してみせることしかできなかった。
そのとき意図せず俺は、今まで見たことのないような藤巻の顔を見てしまった。
いつも爽やかな笑顔を浮かべている藤巻が、なぜかそのときとても寂しそうな顔をしていた。今にも泣き出しそうなほど、両の目尻は力なく垂れて、唇をぎゅっと結んで俯いている。
それは時間にしてほんの一瞬。見間違いかと思うほどの刹那ではあったが、俺は見た。
俺は何か、見てはいけないものを見たような気がして、すぐに目を逸らした。
きらいな相手の、弱い部分なんて見るだけ損だ。少し、同情する気持ちが芽生えてしまうからーー。
視線を戻すと、いつもの藤巻に戻っていた。
「ご、ごめん少しぼーっとしてたよ」と藤巻はバツが悪そうに言った。
「あ、ああ」と俺も歯切れの悪い返事をした。
そして部屋には気まずい空気が流れた。
互いに、否が応でも肌で感じられる気まずさ。あまり二人きりで話したことがなかったため会話が続かない。しびれを切らしたように藤巻は立ち上がった。
「じゃ、じゃあ、吉岡くんの元気な姿も一目見られたことだし、僕帰るね」
「ああ」
もうこのまま、藤巻を見送ってしまおう。
そして小さくなる藤巻の背中を見つめながら、俺は思った。
そもそも俺は藤巻のことがきらいだ。イケメンだし、性格良いし、モテるし、いつも俺の邪魔してくるし、今日も頼んだわけでもないのに勝手に来るし。俺はこいつのそういうところがきらいなんだ。
ーーだけど、
「あー……藤巻」
俺は気づけば口を開いていた。
「その、なんだ。もう夜は寒いから、俺みたいに風邪ひくんじゃねーぞ」
ーーだから見たくなかったんだ。こいつのあんな寂しそうな顔。別に事情とか知らねえけど、せっかく見舞いに来てくれたのにあんな顔された挙句、こんな雰囲気で帰しちまったら、なんか俺が悪いみたいじゃん。それじゃあ後味が悪いだろ。
そう、だから俺は柄にもないことを言ってしまった。
すると藤巻は、しばらくきょとんとしたように固まっていたが、少しすると「うん、ありがとう!」と綺麗に並んだ白い歯を見せた。
藤巻の表情には、さっきまでの翳りはなくなった。いつものような、いやいつも以上にキラキラした笑顔だ。少なくとも俺には、そう見えた。
「じゃ」「じゃあな」と互いに短い挨拶を交わして、藤巻は帰った。そしてまた俺の部屋は俺だけの空間になった。
やれやれとベッドに腰を下ろしたとき、ふと疑問に思ったことがあった。
「そういえば藤巻は、なんで俺が風邪で休んだこと知ってたんだ?」
まあ、おおかたシノブか成瀬にでも知らされたのだろう。きっとそうだ。
そのときの俺にはもう、俺が休んだことを藤巻が知っていた理由や、藤巻の男好き問題について考える余裕はなかった。病み上がりに、立て続けに人と話した上に、藤巻に至っては会話が続かないというアクシデントまで発生したものだから、心労がえぐい。
俺はそのままベッドに仰向けになって一息ついたのも束の間、
「おにいーー」
またもや部屋の外から俺を呼ぶ妹の声。
「またまたお見舞いに来てくれた人がいるよー。今度は綺麗な女の人。東雲シノブさんだって」
今日は俺ん家で祭でもやってんのか?