剥がれる孤城
サイコホラー要素はほんの少し匂わせる程度です。
噎せ返るような人工香料の臭いがする。初夏の白い夕日が、廊下に差し込む。廊下は少し埃や髪の毛が落ちていて、生活感がある。昼夜逆転生活を送る隣家の窓に明かりは点いていない。
私は料理をしていた。好物のハンバーグだ。粗みじんの玉葱と、多目のナツメグが入っている。肉を焼いているので、キッチンはやや蒸し暑い。壁に掛かった温度計は二十八度を示している。強火で片面を焼いたハンバーグをひっくり返し、私は汗を拭った。
私は夕食を摂っていた。今日も一人きりの晩餐だ。先程のハンバーグが載った皿と、炊いた白米の入った茶碗が目の前に置いてある。品数こそ少ないが、中々に豪勢な食卓だ。
ああ、美味しい。食事は生きとし生けるもの全てに認められた権利だ。
私は勉強をしていた。主に定期テストで提出する課題をこなす。まだテストは先だが、こういったものは早く終わらせるに越した事はない。タブレットで適当な音楽を流しつつ、シャープペンシルを走らせていく。
何時も思うが、家庭学習は夜長の虫の羽音に似ている。鬱陶しいが、なければないで物足りないのだ。
私はシャワーを浴びていた。課題は予め決めておいたページで切り上げた。一日の疲労を洗い流すかのように、頭からぬるま湯を浴びせかける。そうは言っても、立ったままシャワーを浴び続けるのも嫌なほど疲れていたため、私はさっさと浴室から出た。不潔でいる事が嫌なので(誰だってそうだろうとは思うが)毎日風呂には入るが、それにしたって面倒臭い。
ただ、汗と垢に塗れて必死で生きるのも人間の宿命なので、受け入れざるを得ないのだ。毎日、毎日…。
私はベッドに寝転んでいた。全身が怠かったが、不幸にも眠気が来ない。勉強中に紅茶を飲んでいた所為だろうか。仕方ないので、特に当てもなくネットサーフィンを続けた。やっと眠りに落ちたのは、午前二時半を回った頃だったろう。
私は学校にいた。変わった事はない。ただ授業を受け(睡眠時間の割に、案外眠くはなかった)、飽きたらこっそりと他の教科の課題や、読書をした。運良く、気付かれはしなかった。クラスメイトとはそこそこ上手くやっている。親しく付き合う友人はいないが、険悪な仲の人間もいない。私はこの距離感にとても満足している。
私は文具店にいた。昨日課題を解いている最中、ノートが切れたのだ。五冊で組になっているノートを手に取り、レジへと向かう。人の良さそうな眼鏡の男性が、ポイントカードはお持ちですか、と尋ねてくる。私が持っていないです、と答えると、『次回ポイント二倍!』と書かれたレシートを渡された。嬉しい事は嬉しいのだが、何時もポイントカードを忘れてしまうので、恐らく余り意味はない。
私は掃除していた。勉強でもしようかと思っていたが、何と無くやる気が出なかった。ウェットタイプの掃除用シートで床を磨くと、予想した以上に汚れが落ちた。爽快だ。掃除は、気を紛らすのに良いかも知れない。それまで、私にとって掃除とは何かしらの必要に迫られてする事だったので、何だか新鮮だった。
私は床に寝転んでいた。自室は余りに暑かったので、涼しい部屋で寝る事にしたのだ。座布団三枚を並べて敷布団の代わりにし、ばたりと倒れ込んだ。掛け布団はない。鼻筋や、首や、太腿の裏がじっとりと汗でべたつく。部屋の隅に置かれた扇風機の羽音を子守唄に、私は眠りへと落ちていった。
私は身支度をしていた。今日も学校だ。慌ただしく制服に着替え、辛うじてトーストとインスタントのコーンスープを流し込む。口内に歯ブラシを突っ込んだままゴミを出し、それが終わると、さっさとうがいをして家から飛び出した。恐らく、電車には間に合うだろう。電車と言えば、私は満員電車が結構好きだ。空気は多少殺伐としているかも知れないが、それを差し引いてつぶさに観察してみると、実に多様な人間が居るものだ。茶髪の、「チャラついた」と形容されるような青年が専門書を読んでいたり、いかにも何かの役職に就いていそうな、堅い印象の中年男性がスマホのゲームアプリに熱中していたり、まあこれが面白い。勿論、見た目の印象そのままな作業をしている人も居る。しかし、関わるのは別として、見るだけならどんな人間だって面白いものだ。これは私の密かな楽しみである。余り大っぴらに出来る趣味ではないから。
私は本を読んでいた。私にしては珍しく、小説だ。学校の図書室で偶然見つけた、ナボコフの『ロリータ』だった。有名な作品だし、と手に取り、60ページ辺りまで一気に読んだが、どうにも「クレムリンやグレムリン」などの言葉遊びが好きではなかったため、読むのを止めた。私は小説を読むのには向いていないのかも知れない。余り言葉を弄するのは好まない。ただ、事実が事実としてそこに在るのが好きなのだ。文字という形で、或いは他の何かーー写真などといった姿で、淡々と、静かに、何の作為もなく存在しているのが。私はぱったりと仰向けに倒れ込むと、障子から薄く差し込む日光をぼんやり眺めた。外から、近所の子供の遊ぶ声が聞こえてくる。ああそうだ、こんな風に。
そうして寝転んでいると、チャイムの音がした。
私はインターホンを確認した。
警察だった。
私は、これまでの人生の中で最も穏やかに微笑んだ。随分持ったな。
ドアを開ける。
こうして私は逮捕された。
会社が、二人の無断欠勤を訝しんだらしい。
思えば、何回か家に電話が来ていた。私はその度に適当な返答をし、会社はとうとう警察に通報した。
それで彼らは私を疑い、様々な証拠もあって、家を訪ねて来た訳だ。
まあ、元々逃げ果せるなどとは微塵も思っていなかった。いつかは終わりが来るという事を知っていた。
ただ私は、人生最良の日々を過ごしてみたかったのだ。それが叶った今、後悔する事は何もない。
私は確かに自由だった。自由だったのだ。
動機は過干渉と虐待。
それは兎も角、此処まで読んで頂き、有難う御座いました。