表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

紘譚  彩火北行

作者: 相會一

紘譚  彩火北行之壱「少女」



 樹海へと伸びる街道を少女はまっすぐに前を見ながら進んでいた。

 都から千里あまり、北山道の終わりも近く、みちのくと呼ばれるこの道を歩くものの姿は少女のみであった。

「おい」

 立ちふさがるように現れたのは汗とほこりにまみれた男だった。雑兵崩れか山賊そう言ったところだろう。

「逃げようとするなよ」

 少女の背後からも逃がさないようにと男が二人現れる。

 男たちはにやついていた。少女の衣服は夕日を思わせる色の小袖に、薄絹の飾りのついた笠。銭のあるなしに関わらず貴族の装束だ。それが一人であり、男たちのような生業をするものにとっては良い獲物だった。

 少女は男を見た。

 男は薄絹からすけてみえる顔に小さく歓声を上げた。

 髪こそ赤毛で首筋程までしかないが、微かに赤みのさした白い肌や、造作の細かな顔はこの樹海の辺りでは見ることのない雅やかさがあった。

「ねえさんどこにいくんだい?」

「それを知るためにも聞きたいことがある」

 外見に比べて少し低い声が漏れた。

「人にものを聞くにして頭が高くねえか?」

 少女は無言だった。

「出すもの出せば教えてやるぜ」

 少女は黙って懐から取り出した銀銭を男に向かい放った。男は銀銭を拾い上げると本物か試すように噛んだ。

「かあ、本物の銀じゃねえか」 

「女が通らなかったか。名は蒼施。年の頃は十六、七。女しては背が高く、男の身形かもしれない」

 銀銭が本物とわかりにやつく男は言った。

「これっぽっちじゃ駄目だな」

「何枚欲しい」

 そう言っている間に少女の後ろに男の一人が回りこんでいる。

 少女の背後から男が襲い掛かろうと手を伸ばすが手を抱えて飛びずさった。

「こいつなんか仕込んでやがる」

 男の伸ばした手は焼けた鉄でも触ったように火傷を負っていた。

「この辺りで悪い連中がいると宿のものが言っていたが、お前たちの事か?」

 男たちの中で悪意が牙を向いた。

「ちょっと相手して貰って生かしてやろうと思ったが仲間をやられたとあっちゃひけねえな」

 少女に向かい男たちが殴り掛かる。突っ込んできた男の足を引っ掛け倒すと少女は小さく呟いた。

「あほう」

 男の腹に少女の拳が入り意識を奪っている。男達の目には見えない少女の素早い動きだった。

「その銭で商売でも始める事だ」

 少女ははき捨てるように言った。

「待ちやがれ」

 男の一人が立ち上がり刀を抜いている。

「死にやがれ」

「あほうをつくす気か」

 少女の身体からゆらゆらと陽炎が見える。陽炎は少女の突き出した掌に集まる。

「焔弾」

 少女の手から飛び出した焔が男の身体を掠る。炎のあたった枯れ木が一瞬で消し炭となる横で男は腰を抜かしていた。立ち上がる事ができず男は少女を見つめる。

「・・・・化け物」

 倒れた男は震える声で言った。

「その化け物がいう。今度同じようなまねをしたら消し炭になることになる」

 男は顔を地面に押し付けるように頷いた。

 少女の目は微かに潤んでいたが、遠くを見る目に迷いは無かった。その先には樹海が少女を待っていた。



 樹木の合間から少女を見つめる二人の男の姿があった。

「あれが南家彩火。『南姫』と綽名する不世出の炎使いだ」

 そう言うのは金糸でも編みこんでいるのか黄金の輝きを放つ高鳥帽子の老人だ。顔の笑みこそ柔和だが、面でもあるかのように生を感じさせない。

「敵か?」

 答えるのは大柄な身体を松葉色の直垂に、侍鳥帽子の若武者であった。

「さあ。それは南姫の選ぶことだ」

 白銀丸は黙って少女、南家彩火の消えていく方向を見つめている。

 そこには妖の棲む樹海が立ち入るものを拒むように姿を見せていた。



紘譚  彩火北行之弐「蒼施」

 南家彩火が皇女蒼施を追い樹海に赴いたのは、彼聖百年の夏の事であった。

 この夏天津島は『守応の大逆』が平定され、落ち着きを取り戻しつつあった。朝廷は、生じた余力をまず反逆者である青鸞王守応の一族郎党を倒すことに向けた。蒼施遮那姉弟を残し、青鸞王守応一派を仕留めるのに成功した。

 帝の意を受け、多くのものがこの姉弟を追い、南家彩火もその意を受ける事となった。

 彩火は外見とは違いただの少女ではない。方術士集団『朱雀』を率いる南家の娘であり、内裏の守りを任される方術士だからだ。

 日が暮れ彩火は樹海近くの古びた小屋に泊まっていた。

 樹海への道すがらはこうした小屋は幾つも存在している。樹海には傷の治療に効果を発揮する神品丹草をはじめ薬草や、火斉珠と言った宝玉の類が産出されるので、危険を承知で入っていくものも少なくない。彩火のいるのもそんな小屋の一つであった。

 彩火は火のついた囲炉裏の側に座り、日記を付けていた。蒼施を追うようになって付けるようになった日記も一冊目は終わりに近づいていた。

「生きていてください」

 彩火は蒼施の顔を思い浮かべた。

 きりっと上がった目や、形のいい眉、整った輪郭や鼻、癖の無いまっすぐに落ちる髪。人形のように秀麗だが、それだけではない凛とした少女の顔。

 術を操る彩火は方術士達の間では姫と敬愛されるものの、常人の中では気味悪がられ内裏の中に親しい友達はいない。しかし蒼施は違った。若い女官たちの輪に入れない彩火を蒼施は陰日向に庇ってくれた。蒼施の言葉に癒され、笑顔に救われたのはいったい何度あったことか。

「それなのに私は・・」

 囲炉裏の薪が消えかかる音に気付いた彩火は外に出た。

 湿った夜風が顔に心地よい。彩火は風を感じながら小屋の脇に積んである薪を適当に選びはじめた。

 彩火の耳が小さく枝の折れる音を捕らえた。彩火は身構えながら音の方を見た。

「誰?」

 暗がりの中の音の主は紺の袴に、玉を思わせる模様を意匠した羽織を着ている。その顔は、髪こそ結い上げているもののその顔は先程思い浮かべた蒼施のものに他ならなかった。

「蒼施様」

 蒼施は彩火の問いを答えることもなくその場に倒れた。

 彩火は蒼施の額に水で濡らした手ぬぐいを置いた。 

 蒼施は怪我こそしてはいないようだが、微かに熱が高く、風邪の引き始めのようだった。

 逃げる中、命を狙われたのは一度や二度ではないはずだ。それでも無事に目の前にいる蒼施を見て彩火は嬉しかった。

 目を覚めたら何を話すか彩火が考えていると蒼施は目を開けた。

 彩火は先ほどまで考えていた言葉は消え、ただ蒼施を見つめた。

「良かった」

 どこかのんびりとした声で蒼施は言った。

「他のものなら勤めを果たしていたことでしょう」

 蒼施は身体を起こした。

「彩火には迷惑をかけます」

「ご無事で良かった」

「追っ手にあなたがいるのを聞いた時は良かったと思いました」

 彩火の目に恐れるような暗い輝きが点った。

「どうしてですか?」

「伝える言葉があります」

 蒼施は彩火に手で止められ言葉を止めた。

 彩火は外に来た無数の足音に気付いた。

「追っ手のようです」

 自分も追っ手であることを忘れたように彩火は言った。

 蒼施は立ち上がると戸に手をかけた。止めようと立ち上がった彩火に蒼施は振り返らずに言った。

「彩火まで咎人になる必要はありません」

 彩火は止めることができず蒼施は外に出て行った。

 蒼施の出て行った戸を彩火は見た。見ていたのは一瞬。彩火は外に飛び出していった。



紘譚  彩火北行之参「追手」

 開いた戸の音に驚いた鳥が飛び上がった。

 南家彩火の前に立つ蒼施の後姿。肩越しに茶の直垂姿の男が一人見えた。

 男は中肉中背で、猿を思わせる愛嬌のある顔だが、目には暖かさは無く冷酷そうにこちらを伺っている光があるばかりだ。

彩火は男に近づいた。暗いのではっきりと分からないが男の後ろの茂みに何人かの侍人らしい輪郭を見る事ができる。

「どこのものかは知らぬが青鸞王息女の身柄は術匠『朱雀』の南家彩火が押さえた。余計な手出しはしないで貰おう」

「どこの娘か知らんが、この女は鉄丸様の獲物。おぬしには渡せんな」

 彩火は後ろの侍人との間を見た。たとえどんな武士でも一息に来る事はできない距離が開いている。

 倒せる。鉄丸との間をそう判断して彩火は手に力を込めた。彩火の意思に従って掌の中で炎が騒ぐ。

「三日ほど時間をいただくわけにはいきませんか」

 蒼施の不意の言葉に鉄丸は冗談でも聞いたように大声で笑った。

「青鸞王に関したものはみんな殺されるんだ。分かってんのか?」

「わたくしが尋ねているのは三日ほど自由にさせていただけないかなと言う事です」

 蒼施の言葉は彩火が歯がゆく思えるくらい優しい。

「そういうわけにはいかん」

 鉄丸は腰の太刀を抜くとそのまま蒼施に向かい切りつけた。

「蒼施様」

 彩火の叫びに驚きでもしたのか鉄丸の太刀は空を切っている。その鉄丸の目があやかしでも見るように驚きに見開かれた。

 彩火の突き出した掌に炎が渦を巻いた。

「焔弾」

 衝撃を帯びた炎が鉄丸の腹を貫く。鉄丸は倒れた。ぼんやりと立つ蒼施の手を掴むと彩火は森の中に飛び込んでいった。

 樹海の闇は深い。

 走っていると鉄丸の姿も待人の姿も見えなくなった。

 それでも南家彩火は蒼施の手を握って駆け続けた。

「止まってくれませんか」

 蒼施に言われ彩火は歩みを止めた。蒼施は息こそ切れてはいなかったが顔は上気している。町育ちの蒼施にとり山道を走らせるのは酷かも知れなかった。

「すいません蒼施様」

 蒼施は首を横に振った。

「彩火、あなたにも御願いしようと思ったのですが、三日ほど時間をいただけませんか」

「はい」

 頷いた彩火の表情が強張る。森の中から蒼施の背後に現れた一人の男にだ。

 短くそろえた髪を分け目なく後ろに流し、松葉を思わせる濃い緑色の直垂を身に付けている。腰には白銀と黒で飾られた太刀が見える。

 顎の線の発達したしっかり凹凸のある顔は、都で育った彩火には見慣れない益荒男の顔だ。

 武士は彩火には目もくれず蒼施に切りかかった。蒼施は交わしたように見えたが服の袖を切り裂かれている。

 彩火は息を呑んだ。武士の動きには迷いがない。人を切ることに慣れた人間の戦い方だ。

「逃げてください。この男は強いです」

 彩火は蒼施と男の間に飛び込んだ。

 武士は自分の身体を守らない彩火の動きに攻めるのを一瞬躊躇った。そこに彩火の攻める隙があった。

 男に向き合った彩火の掌が陽炎を発する。

「焔弾」

 彩火の声と共に炎が塊と化し武士の身体に走る。男は炎を交わした。しかし彩火の攻めは終わらなかった。連続して彩火の手から炎が放たれる。男は素晴らしい速さで攻めを交わし彩火に詰め寄る。

 叫ぶような呼気と共に太刀が振り落とされる。

「彩火」

 蒼施の声に被さるように周りの木々が燃え上がった。鳥が炎に驚き一斉に飛び立った。

 嵐のような鳥の乱舞。

 飛び上がった鳥が消えると武士の前から彩火と蒼施の姿は森の奥へと消えていた。

 走るのを止めてしまった蒼施に南家彩火は走るのを止めた。

「走れませんか?」

 彩火の言葉に蒼施は息を切らして荒い呼吸だけが伝わってくる。何も言えないようだ。

 夜の森の中を走るのは難しい。いたるところに葉に隠れて見えない穴が多い。その中を走るのは大の男でも難しい。幼い頃から術を会得するために心と身体を鍛えてきた彩火と蒼施ではできる無理が違っている。

 彩火は周りを探った。

 かなり遠くにさっき彩火の付けた火の煙が見える。周りに人もいないようだ。そして空気の質が違う。

 樹海に入った事を彩火は感じていた。先程の武士が樹海を知っているのなら

一人で飛び込んでくることはないはずだった。方術の心得が無いものが樹海に入るのは自ら死地に赴く事に他ならない。

「ここに隠れてください」

 彩火は樹の洞の一つに蒼施を押し込んだ。そして袂から赤い砂を取り出すと、樹の周りに撒き、結界を張った。

 蒼施は洞に落ち着いたが息が苦しいのか何も物を言わない。それが彩火には良かった。会うまでは色々と考えた事が嘘のように蒼施に何を話して言いか分からない。

 彩火は幹に寄りかかり空を眺めた。 

 夜空には天の川が大きく空を横切って天山の頂へと消えていく。

「守応様」

 天の川を見ながら思ったものはもうこの世にはいない。それを考えると彩火は苦しくなって考えるのを止めた。

「彩火?」

「はい」

 答える声が驚くくらい森に響き渡った。

「娘がこういう事を話すのは奇異と思うかもしれませんが、聞いてください。不老の身体を持つ皇族に人生は長い。生きることに倦むものも多いのです。父も一年前までそうでした」

 彩火は答えられなかった。はっきり思い出してしまったからだ。

 一年前の事を。天の川の下の出会いを。



紘譚  彩火北行之四「宴夜」

 新月の夜に行われたのは祝いの宴であった。

 帝の信任も厚い久治幹安が洛外に作った園のお披露目であった。その権勢を示すかのように宴には多くの貴賎男女を問わず人々が集まっていた。

 煌煌とした明かりに照らされた庭に設えられた座所では酒が酌み交わされ、池には竜を模した船が浮かび、木陰では恋を語るものも多い。

 南家彩火は設えられた座所の一角に混じってぼんやりと眺めていた。

 自分でも雅やかな催しとは何の縁もないと思う彩火であったが、風流な貴公子や、着飾った娘を見ていると、自分のみすぼらしさを感じないわけではなかった。

 普通のものが社交を学ぶ間に彩火が学んだのは、身体と言霊と意思を効率よく使うための方術だ。それに短く赤茶けたような髪。他の娘たちのぬば玉の黒髪に比べて雅らしさの欠片も無い。

 声もかけられず、歌も贈られず、彩火は宴がたけなわとなった頃も、一人で座り景色を眺めていた。

 いつもと変わらぬ宴の筈だった。 

 そう、いつもと変わらない。

 何かが船に向かい降り立った。船は沈み、池から大きく上がった水しぶきと旋風が庭の明かりを消し去った。

 妖であった。

 星明かりの中、妖は庭に立つと、誰かを探すように頭を動かした。

 巻き起こる喧騒と逃げ惑う人々の中、彩火は一人妖に向き合った。

 彩火の放った焔弾が妖に突き刺さる。妖は彩火に狙いを定め襲い掛かってくる。 

 彩火の手が朱の光を放つ。彩火は空に何かを描くように動かした。闇の中に象徴が浮かび上がる。

「祝融煌」

 文字が消えると火柱が上がり妖の身体を包み込む。火柱が消えると妖の体は一握りの灰と化していた。

 彩火は周りを見た。避難は終わっているようで彩火以外人の姿は無い。彩火は人の姿の無い事に安堵の息を吐いた。

 彩火は背後に風を感じた。振り返るとそこには別の妖が立っていた。

 身を守る間も無く彩火の身体は弾き飛ばされ地面に転がっていた。

 立ち上がろうとする彩火に向かい妖が掴みかかる。彩火は立ち上がって掌を妖に向けた。

「焔・・」

 だが、視界が揺らぎ狙いが定まらない。

「盛り上がっているな」

 妖と彩火の間に一人の男が立った。

「やはり少し鄙びたところに作りすぎだな」

 彩火はその男を知っていた。

 青鸞王守応。帝弟にして朝廷一の剛の者として知られる男。そして蒼施の父。

 守応は妖を殴った。本当にそれだけのはずなのに妖は動かなくなると砂のように細かくなり消えていく。

 彩火は解った。その一撃が自分の操る術などよりずっと威力のあるものであるのを。それは神の拳なのだ。

 彩火の身体を守応は抱き上げた。

 近くで見る守応の顔は蒼施と顔立ちがよく似ており、親子ではなく兄妹と言ってもおかしくない年嵩に思えた。神の血を引く皇族の中にはこうした不老のものもいる。守応もそうであるのを彩火は思い出していた。

「きれいだな」

 彩火は驚いて守応の顔を見た。守応の目は助けた彩火ではなく昊天を見ていた。

「そうですね」

 彩火はどこか安心して答えていた。

 動悸を悟られないことを願いながら。

「彩火?」

 蒼施の言葉に彩火はすがり付く思い出を振り払った。

 今は蒼施が生きることだけを彩火は考えようとしていた。

「都に戻りましょう。他の刺客も都に戻る蒼施様を害するようなことはしないはずです。蒼施様は帝の姪。男子ならともかく、女子ならば命を奪う事はないと思います」

 蒼施は答えなかった。沈黙が自分への不審と感じた彩火は鋭い口調で言った。

「蒼施様」

 彩火は洞の中を覗き込んだ。蒼施の凛とした表情を見た彩火は言葉に詰まった。

「行かなくてはならないところがあるのです」

 蒼施は今までと変わらない声で言った。

「そこに行けばもう彩火の言う通り都に戻ります」

「本当ですか?」

 蒼施は頷いた。

「いったいどこに?」

「月読へ」


紘譚  彩火北行之伍「離別」

 妖が棲む樹海には都があった。黄泉の尽きた先にあるので名を月読と言い、神の一族が住んだと言う。

 南家彩火は蒼施といり豆の夕餉を迎えながら廃都月読の事を考えていた。

 先に食事を終えた彩火は樹の洞に枯葉を集めて、眠り安いようにと、蒼施の寝床を造り直した。蒼施は手伝い始めた。

「大丈夫です」

 恐縮している彩火を横に蒼施は黙って手伝い続けた。

 寝床が出来上がると蒼施は笑顔を浮かべた。久しぶりに見る笑顔は彩火を安心させた。

「彩火、少し休みなさい」

 驚いて彩火は蒼施の顔を見た。

「休まないとあなたが参ってしまうわ」

「いつ刺客が来るかも知れません」

「彩火に倒れられたら困るの」

 そう言われると彩火は何も言えずに蒼施の言うまま枯葉の寝床に横になった。昼間日の光を吸い込んだ枯葉の中は暖かい。

 蒼施を探し一人で旅をするようになってあまり寝ていない。もともと彩火は気丈だが頑強ではない。こうしているとすぐにも瞼が重くなってくる。蒼施を見つけた安堵が身にも心にも染みてしまっている。

「日記置いてきちゃったな」

 彩火は日記の事を考えながら眠りについた。

 部屋の灯り台の火が大きく揺れ、合わせて彩火の影も躍った。

 板張りの床の真中に鏡が一つ。灯り台が一つ。

 結界を張るためだけの間なのだ。同じような間が内裏には幾つかあり、そこにも同じように術士が控えて結界を張っているはずだ。

 まだ敵の攻撃は無い。

 彩火は日記をつけようと広げた。

 そこに見えるのはここ十日あまりの不安だ。

 十日前の天覧会。帝の前で文武を競う場で起きた変事からこの方、都は不穏な気配に満ちていた。

 彩火もそれ以来御所に詰めており、外には出ていない。

 会っていない背の君である守応の事を思うと彩火は今すぐここを飛び出してしまいたくなる。

 そんな彩火の顔が真剣なものに変わる。

 鏡を通して力が伝わってくるのが分かる。

 鏡の前に立つ彩火の額から汗が一筋流れる。今回の敵は今までに無く強い。結界が揺らいでいる。内裏に控えている術士は百人程。一人でなら決して防ぐことはできない強さだろう。

「気は流水の如く滑らかに、心は天山の如く不動に」

 彩火は自分の中で湧き上がる力が暴走しないように考えながらも結界を強くした。

 まるで海と向かい合っている気がした。波のように寄せては返す。同じように思えて全て違う力の流れ。少しずつ結界にかかる力が強くなる。

 力が一際強くなる。

 結界にかかる力が満ちた。結界が壊れ、波のように力が襲い掛かってくる。

 灯りが一斉に消え、闇が覆う。

 闇の中、彩火は耐えていた。今まで感じたこと無い痛みだった。自分が微塵に分かれ、芥と化してしまう感触。

 このまま倒れてのたうつままに任せたかった。でも、倒れたら自分と言うちっぽけな火が消えてしまう気がした。

 守応の事が浮かんだ。抱擁の安らぎを。鼓動の力強さを。安らかな眼差しを。

 彩火は鏡を見た。自分の周りを包む力の流れが見える。このまま力に包まれていたら力を奪われ死ぬだろう。

「気は流水の如く滑らかに、心は天山の如く不動に、魂は炎の如く激しく」

 彩火は一瞬に賭けた。

 彩火の周りに陽炎が立つ。一気に力がかかり、鏡は耐え切れなくなり砕けた。

 自分の出す力に揺らぐ彩火の視界の中、砕けた鏡の中に無数の影が見えた。影は笑ったと思うと砕けた鏡の奥に消えていった。

 襲ってきた力は失せていた。立っている事ができず座込んだ彩火は鏡の中に見えた影の事を考えていた。身体は立っていないくらい辛い。しかしそれより何か言い知れぬ何かがある。

「さすがは不世出の炎使い」

 結界の間に金色の狩衣に黄金造りの太刀を身に付けた老人が入ってきた。

 老人の名は久治幹安。傀儡使いであったが、帝の信が厚く、重宝されている。今回彩火を招いた男だ。

「ささ気付けに」

 差し出されたのは杯に入れられた酒であった。

「ありがとうございます」

 彩火は受け取った杯を傾けた。久治は微かに笑みを浮かべて彩火を見ている。

「万が一を考え控えておいていただいて良かった」

 酒は何らかの薬効のあるものらしく腹の底の方から活力が戻ってくるようだ。

「青鸞王を退かされるとは、この久治感服の至りでございます。既に北家の刺客も差し向けました故、いずれ青鸞王の首を持って帰るでしょう」

 彩火は目の前が暗転していくのを感じた。

◇                        

 彩火は目を開けた。樹の洞から樹海の景色が垣間見える。

「嫌な事思い出したな」

 洞の外から虫の音が聞こえてくる。

 彩火は枯れ葉を払いながら起き上がると外に出た。

 洞の前に立った蒼施のまなざしは樹海に向けられていた。

 果ての見えない樹海の中の月読を観るように。



紘譚  彩火北行之陸「山桃」

 南家彩火は皇女蒼施と廃都月読を目指し川沿いに樹海の中を進んでいた。

 樹海には妖が棲む。人を食う化物、人を惑わす木霊、人を迷わす霧怪。普通の者は化物を恐れる。恐るべきは後の二つであるにも関わらずだ。樹海に行った者は孤独に疲れ、希望を失い、心が壊れ、気付くと道を失い、森の奥で朽ち果てる。そう木霊も霧怪も自分自身の陰に潜む妖なのだ

 そうした意味で彩火は幸運であった。刺客もいずれ追いついてくるであろう。樹海の危険な状況から蒼施の身を守らなくてはいけない。これでは木霊も霧怪も入り込む隙がない。

「彩火」

 蒼施に呼び止められ彩火は立ち止まった。

 自分の歩みが速すぎたのかと思い返すが蒼施はしっかりついてきたように思える。

「何ですか蒼施様?」

「さっきから何かついてきている気がします」

 彩火は振り返って森の中を見つめた。

 彩火は気配を探った。付いてくる生き物は無く、感じるのは木々の間を渡る鳥のみであった。

「何もついてきていません」

「気の所為ならばいいのです」

 蒼施は言った。

 日が中天にかかるまで歩いた二人は川原で昼餉を取っていた。

 川原には日差しが差し込み暖かで、澄んだ水のせせらぎの音は樹海が二人をもてなすかのようにした小さな楽園だった。

 食事は途中で採った山桃であった。両手で抱えられないくらい取ったはずなのだが、酸味のある山桃は疲れた身体においしく気付くときれいに無くなっていた。それも気づくと多くを彩火が食べてしまっていた。

「召し上がれますか?」

 蒼施は頷いた。

「もう少し取ってきます」

「ありがとう」

 彩火は森の中に分け入った。直ぐに熟している樹が見つかり彩火は山桃取りに精を出し始めた。

 山桃を取る彩火の耳に森の中から枯葉が崩れる音が聞こえてきた。何か大きなものが枯葉の上を歩く音だった。

 冬眠前の熊や、人食いの化物であることを考え、彩火は気配を探った。

 彩火の顔が青ざめる。

「どうして」

 音は聞こえてくる。実体はあるはずなのに彩火の生命の温りを捉える感覚には何も引っかからなかった。

 先程の蒼施の言葉。

『何かついてくる気がします』

 生命の無いものを自分の目が捉えない事を彩火は気付いていなかった。

 樹海に入るものには方術の心得がいる。方術の使い手で生命無きものを操るものがいてもおかしくは無かった。

 山桃が宙を舞い、彩火は駆け出した。

小楽園は世界から失われていた。

 川原の石は踏み荒らされ、多くのものが通ったように水が濁っている。

 蒼施の姿は川原から消えていた。

 苦しい息を整えながら南家彩火は蒼施の所在を探して川原を調べ始めた。

 荒れ果てた川原は何も見つからず、焦りだけが彩火の心に増えていく。

「蒼施さま」

 自分を呪い顔を伏せた彩火の目に見慣れたものが飛び込んできた。

 川面をいくつものいり豆が水面を流れてくる。彩火は顔を上げ川上に向かい走り出した。

 上流に向かうに連れ川原は無くなり、岸がせり上がって来た。道も少しづつ狭くなっていく。

 その中で動くものがあった。

 彩火は目を凝らした。

 高貴のものが亡くなった時に共に葬られる等身大の土人形であった。鈍いものの絶えず川上に向かって動いている。

 土人形を無視して彩火は川上に向かおうとした。土人形は素早く動くtと彩火の前に立ち塞がった。

「退け」

 彩火は土人形に向かい掌を向けた。



紘譚  彩火北行之漆「千尋」

 すぐ足元で岩を削り行く水の流れ。

 狭い川岸で南家彩火は動く土人形に行く手を妨げられていた。

「焔弾」

 彩火の掌から放たれた炎は土人形の身体を貫くものの、少しばかり動きを止める事しかでき無かった。

 彩火の手が朱の光を放ちながら宙に象徴が刻む。

「祝融煌」

 文字が消えると地面から炎が噴出し、土人形を野辺に送るかのように巨大な火柱を上げた。

 熱と炎だけでない衝撃に人形は砕け細かな欠片となって飛び散っていく。

 彩火は蒼施を追い川上へと走り出した。走りながら木々の間に潜むいくつもの土人形が彩火の目に入った。

 こうしたものたちにはそれほどの知性はない。どこかで、これらを操っている術士がどこかにいるはずだった。

 彩火は焦りを覚える気持ちを押さえながら彩火は気配を探った。彩火は気配を感じ掌を木々の間に向けた。

「焔弾」

 炎が木々の間に走り大きな悲鳴が上がる。火に包まれ転がってきたのは鉄丸であった。

 火を消え、止まった鉄丸の顔に彩火は掌を向けた。

「蒼施様はどこ?」

「もう死んでるんじゃねえのか」

 彩火の掌に陽炎が浮かび上がる。

「俺は北面の武士だ。貴族の娘だか知らないが殺したら咎があるぞ」

 彩火は花のように笑った。

「骨まで焼き尽くせば誰もしることは無い」

 彩火の手が鉄丸にかかる。

「上流だ。今、人形どもに追わせてる」

 彩火は鉄丸から離れ再び走り始めた。

 走りつづける彩火の前で川岸は高くなり、川との差を増したと思うと、少しづつ谷の様相を呈して来た。

「蒼施様」

 蒼施はいた。

 川を覗き込むようして立っている蒼施の背後に迫るのは武士であった。二人は谷を見下ろす崖の上で向かい合っていた。

 彩火は武士の背後に立った。

「待て」

 武士は振り返ると彩火を一瞥した。

「蒼施様はこの南家彩火が帝の名において捕縛を命じられた」

 武士は彩火に顔を向けたまま蒼施に切っ先を向けた。

「退け」

 武士の一声で彩火は動けなくなった。武士の力量は前回で分かっている。この間合いなら蒼施を一突きで仕留められるだろう。

 鳥が何か危機を感じたように一斉に飛び上がった。

 彩火は振り返った。

 やかましく騒ぎ立てていた鳥が飛び去ると、森の中から無数の土人形が現れていた。その後ろでは鉄丸が赤黒く顔を染めながら立っている。

「やっちまえ」

 土人形はぎくしゃくと動き、こっけいですらあったが、全てが蒼施に向かっていく様は彩火の身に危機を感じさせた。

 壁のようになって迫ってくる土人形を少しでもさえぎろうと彩火は身体を返し、土人形と向かい合った。

「彩火、あなたは逃げて」

 彩火は蒼施を見た。蒼施は微笑を浮かべていた。透み切った笑顔。

「ありがとう」

「だめです」

 彩火が叫んだ。同じ危機を感じたのか武士は蒼施に手を伸ばした。手は届かず蒼施の身体は空を背負いながら消えていった。

「蒼施様」

 武士は躊躇せずに崖下に飛び降りていった。

 駆け寄った彩火は崖下を見た。

「彩火様」

 千尋の向こうには激しく巻きかえる水の流れがあるばかりだった。 



紘譚  彩火北行之捌「廃都」

 霧が出ていた。

 南家彩火は樹海の中を一人歩いていた。

 土人形の動きが遅いこともあり容易く彩火は囲みを抜けることができた。

 その後、川を辿って探してみたが蒼施の姿はどこにも無かった。

 彩火は廃都月読を目指すことにした。

 もし生きているのなら蒼施は廃都月読を目指していると考えたのだ。幸い月読の大まかな場所は知っていた。

 だが、皇族と共に行かなければ入ることのできない月読に自分が入れるかどうかは分からないが行くことしか彩火にはできなかった。

 青鸞王守応の死を聞いて壊れかかった彩火の心の支えは蒼施を見つけ出し、命を救うことだった。

 今は無事を願う事。それが彩火の全てだった。

 霧に誘われるように歩きつづけていた彩火は痛みを感じ立ち止まると袖を捲り上げ二の腕を見た。出血していないが大きな疵がそこにある。土人形から逃れる時受けたものだが、血の滾っていた彩火は気付かずにいた。

 そう思うと体中無数の傷がある。彩火は近くの樹に寄りかかり休み始めた。

 樹海を探ると虫の音も梟の羽ばたく音もなく、まるで樹海自体が息を潜めているようだ。

 彩火もその静けさに身を任す。

 月光が霧を割り、何かが現れようとしていた。

 月光が踊る白石の大路に立って彩火は街を眺めていた。

 霧が晴れた先にあった何かは街であった。そう、ここが月読。

 月読は石造りの街で、端から見てもその大きさは分らなかった。

 樹海に来る途中で、彩火はいくつか捨てられた街を見たが、それは木々に覆われ、森に還ってしまっていた。人が手を入れないと街は容易く自然に飲み込まれる。この街は人もいないのに、どうしてか樹海に飲み込まれずにいる。

 彩火は大路に沿って街を歩き始めた。

 街の建物は息果てた巨人の骨のように奇妙な形をしていた。埃は大して積もっていないようだが、人の姿は全く見かけない。

 しかし彩火が神代の都であると感じたのは石に切れ目がない事だった。継ぎ目の無い石を造るのも、方術を用いれば可能だ。彩火にも出来ないことは無い。規模が大きくなると話は別だ。量は難度を変える。都全ての建物を創造する術をかける術士を彩火は知らない。

 彩火は背後から聞こえた足音に振り返った。

 再び霧に覆われた樹海の中から一つの影が近づいてくる。

 影は蒼施と共に川の中に消えた武士であった。武士の腕には蒼施が横たわっていた。力を失い投げ出された蒼施の顔は蒼白く生きているのか分らない。

「蒼施様」

 彩火は蒼施に駆け寄った。

 武士は彩火が側に来るのに何も手を出さずに、ただ一瞥した。

 彩火は目が潤むのを覚えながら蒼施を見た。微かに胸が息づいている見て彩火はやっと安心する事ができた。

「良かった」

 蒼施の顔を見ているだけど安堵が彩火の中に広がっている。武士は彩火の様子を見ていたが、不意にいらえの混じった声で言った。

「どこか彼女を休ませる場所は無いのか?」

「あそこに運んでください」

 彩火は建物の一つを指差した。



紘譚  彩火北行之玖「哀涙」

 ほこりがうっすらと積もったがらんとした石造りの建物の中で、蒼施を間にして南家彩火と武士は向かい合って座っていた。

 蒼施の顔色が赤みを取り戻すに連れ彩火の表情から険しさが減っていく。武士が自分を見ている事に気付いて彩火は口を開いた。

「ありがとう。蒼施様を助けてくれて」

 武士の顔が微かに綻んだ。彩火の眼差しが少しきつくなる。

「何かおかしい?」

「自分がな。不世出の炎使いと聞いていたから、そのつもりだったが」

 武士の表情の中に思いがけない童めいた表情が浮かんだ。

 落ち着いて見れば武士は思っていたより若いが、彩火より上なのは間違いない。恐らく蒼施と同じ程のようだった。

「その綽名を知っているなら私の名前は知ってるのね。あなた名前は?」

「白銀丸だ」

「白銀丸、今まであれだけ容赦無かったのにどうして助けたの」

「ここに来て用件さえ済ませば都に戻ると言っていた。そちらも同じだろ」

 彩火は武士から逃れるように目線を変えた。

「私は・・返し切れない借りがあるの」

 彩火は蒼施を横目で見た。いつの間にか蒼施がうっすらと目を開けていた。

「何か飲みますか」

 蒼施は小さく首を横に振った。

「無事だったのね」

 聞き取れないくらいの声。蒼施は目を閉じ、また眠りについたようだった。

 彩火は顔を上に向けた。潤んだ涙が落ちないように。

「泣けば楽になる」

 白銀丸の言葉に彩火は小さく首を振る。

 泣いてもきっと楽になることはない。守応のぬくもりや強さを忘れることは無い。泣いても思うのは失ったものの大きさ。

「好きだったの。初めて会った時は助けてくれて、一緒にいるととても安らげて。それなのに私のせいであの人は」

「彩火違うの」

 蒼施は身体を起こして彩火を見つめた。

「父は戦うのを止め、鬱々と時を過ごしていた。彩火、父はあなたに会って、何事にも必死なあなたを見て、生きる事を、戦う事を思い出せたの。仮令千年生きたとしても父は、彩火といた時のように笑えなかった」

 彩火は鏡の中に見た守応の影を思い出した。その顔に浮かんでいた笑みを。耐え切れなかった気持ちが涙となって彩火の頬を伝わっていった。



紘譚  彩火北行之拾 「朝餉」

 南家彩火は目を開けた。

 どこか遠くで火の爆ぜる音が聞こえてくる。いつの間にか眠ってしまったようだった。

 頬には涙の後が残っている。それに気付くと守応の姿を思い出してしまう。でも、辛いものがほんの少し小さくなっていた。

「『泣けば楽になる』か」

 武士の言葉を思い出しながら彩火は周りに目をやった。廃都の暗い石造りの建物の中には彩火一人が寝ているだけだった。横に寝ていた蒼施の姿も、その向こうにいた武士の姿も無い。

 彩火は慌てて起き上がると、左腕が痛んだ。痛みを黙殺して彩火は建物から出た。

 外では蒼施は武士と共に朝餉の最中だった。

 石を積んだ簡単なかまどが作られており、その上に置かれた小さな鍋からはいい匂いがしている。鍋の中は干飯と山菜で作った雑炊だった。

「おはよう彩火」

 蒼施はまだ元気が戻っていない様子で顔が青白い。手にもった椀の雑炊にも殆ど手がつけられていない。

「おはようございます」

 武士は湯気の立つ椀を彩火に差し出した。彩火は弱みを見せないようにと左手で椀を取った。

「ありがとう」

「味は分らない」

 彩火は蒼施の横に座ると雑炊を食べ始めた。彩火は思わず笑顔になっていた。味が少し濃いがおいしい雑炊だった。

「おいしい」

「そうか」

 答える武士は少し嬉しそうだった。

「もう都に戻っていいのか?」

 武士の言葉に蒼施は小さく首を横に振った。

「今日一日付き合ってください」

 彩火は雑炊を食べながら幸せだった。

 一日が過ぎれば蒼施と一緒に都に戻れると思うと今までの苦労も報われるように思えた。

 蒼施が樹海の方に目をやった。彩火はつられて樹海の方を見た。

 霧によって見えない森の方から何かが近づいてくる音が聞こえてくる。重く硬いものが進む物音。

 それは土人形の群れであった。

「白銀丸、お前がいるとは都合がいい」

 土人形の中には鉄丸の姿があった。

 彩火は白銀丸を見ながら蒼施を庇える位置に移る。

「飯を食って油断させるとはな。さっさと捕らえろよ。この胡散臭い樹海ともこれでおさらばだ」

 白銀丸は答えず鉄丸を見ている。

「お頭の言った通りだな。武士って奴は自分で考える以上に武の君である青鸞王に帰依してるってな」

 土人形が一斉に襲い掛かった。

「先に行け」

 白銀丸は土人形に切りかかった。倒そうというのではない。適確に動きが止まるように足に向かい斬撃を放っている。

 見ている間に鉄丸の回りの土人形は倒されていく。 

「さすがに強いな」

 言葉こそ余裕があるが鉄丸の足は震えていた。

「そこまでにしておくことです白銀丸」

 霧の中から声が響いた。




 彩火と蒼施は月読の大路を走っていた。

 息果てた都の中で聞こえるのは足音のみであった。樹海のただ中にあるというのに鳥の鳴き声も、木々を渡る風の音も聞こえてこない。

「どうして一緒に逃げるの」

「お頭が来る」

「止まってください」

 蒼施が立ち止まり彩火と武士は立ち止まった。

 大路の先には黒い大きな石があった。そこを中心に数本の大路が出ており、そこが月読の中心であるようだ。

 近づいてみると黒い石の面には鎖を思わせる模様が見える。

「ここです」

 蒼施の声は微かに震えていた。

「父から預かったものをやっと返せる」

 蒼施は石に触れた。

「待っていて」

 蒼施が触れると石が身じろぎしたように彩火には思えた。それは錯覚ではなかった。石の模様が生あるもののように動くと光を放ちながら空中に広がっていく。光は増え蒼施の体を包み込んでいく。

 蒼施を助けようと光に触れた瞬間、赤い火花を散らしながら彩火の体は弾き飛ばされた。

 彩火は思い出していた。鏡を通して守応と闘った時の力。全身が微塵にされるような苦痛を。

「蒼施様」

彩火の響きの中、蒼施の体を紡ぎ込んだ光は螺旋を描きながら空中へと消えていく。



紘譚  彩火北行之拾一 「戦塵」

「焔弾」

 南家彩火の叫びが月読の死せる空気に響く。

 蒼施の身体を絡め、螺旋を描く光は、彩火の放った炎をも巻き込み宙空に消えていく。

 彩火は何度も何度も炎を放った。しかし光は侵される事なく螺旋を描き続ける。

 側に来た白銀丸に気付き、彩火は言った。

「力を貸して」

 白銀丸は首を横に振った。

 武士は動かずに光の行方をじっと見ていた。だが、太刀の柄を握る手には痛いほど力が入っている。

「賢明ですよ」

 声が響き、背後に土人形と鉄丸を従えた老人が立っていた。

 彩火は驚いて老人、久治幹安を見ていた。彩火を招聘し、青鸞王守応と闘わせた傀儡師上がりの帝の側近の顔を。

「どうして久治殿がここに?」

「職務でして」

 能吏らしい声で言うと久治はゆっくりと近づいてくる。

「彩火殿が蒼施様に味方するのは分かっておりましたが、ここからの手出しは遠慮していただきたい」

「蒼施様は都に帰られると言っている。手出しを遠慮して欲しいのはこちらの方だ」

「無理ですな。申し付かった仕事、彩火殿に邪魔されるわけにはいきません」

 土人形が姿を現す。その数は二十体あまりだが、続々と彩火の周りに近づいてくる。

 彩火は久治に向かい掌を向けた。

「それ以上人形を近づかせるな」

「良家の子女がまるで東夷のようなまねをされる」

 一向に人形に命令しない久治に向かい彩火は脅しの炎を放った。炎は久治に触れる前に消え去った。確かに威力は押さえていたがこんなに簡単に消えることはないはずだった。

「不世出の炎使いもすっかり青鸞王に骨抜きにされたようですな」

「行け」

 鉄丸は怒鳴ると土人形が彩火に向かい襲い掛かる。

 囲まれかかった彩火は土人形から逃げるように走った。土人形は逃げる彩火に向かい愚直なくらいまっすぐに向かってくる。彩火は立ち止まり振り向くと土人形に向かい合わせた両腕を向けた。

 久治の表情に一瞬暗いものが浮かび上がる。

「鉄丸退きなさい」

「朱炎駆」

 炎の鬣を持った朱色の麒麟が土人形に向かい駆けていく。麒麟が走り去った後には灼熱が陽炎となり残り、継いで熱せられた空気が逃げ場を求め竜巻を生じた。

 全ての土人形は高熱と突風により消滅していた。その力は土人形だけでは飽き足らず月読の一角が破壊していった。

 彩火は笑みを浮かべながら言った。

「これでも骨抜き?」



紘譚  彩火北行之拾二 「青鸞」

 破壊された月読の一角と土人形たちをを見ながら南家彩火は笑った。

「これでも骨抜き?」

 笑みを浮かべている彩火だが、術の余波で痛めた腕には鋭い痛みが走っている。

「勝気なところは変わっておられないようで安心いたしました」

 久治は白銀丸を見た。

「行きなさい」

 白銀丸は久治を見たものの、彩火に向かうことはしなかった。

「どういうつもりですか」

「頭、彼女の思うとおりにしてくれ」

「骨抜きにされたのはお前の方でしたか。やはり不死鳥の毒は恐ろしいですな」

 螺旋を描いていた光に変化が現れた。青い光は何か生き物のような姿を取りつつあった。巨大なそれは翼を畳んだ鳥に似ていた。

 石から離れていた光が消え、蒼施の身体が落ちてくる。白銀丸は刀を捨て、蒼施の身体を支えた。

「分離も済んだようですな」

 久治は呟いた。

「これが皇族の不老の秘密。魂に潜む不死鳥の一族青鸞」

 久治幹安の声が月読に木魂する。

 南家彩火は傷の痛みも忘れて青く輝く不死鳥に見入っていた。その青は海を、守応を思い出させた。

「青鸞は、今まで守応皇子の中に潜んでおりました。守応皇子が死に、青鸞は蒼施様に潜んだ。青鸞こそが皇族の力の要となります。不老の身体も人並みはずれた力も全ての力が。これが帝の望み」

 彩火は思い出していた。

 帝が守応と十あまりしか違わないのに老い、姿を見せるときは常に御簾を通すこと。怪しげなものを身の側に置き、不老長寿のためさまざまなものを試していること。

「青鸞を得るために蒼施様を見逃してきたのね」

「それだけでありません。身命を賭して蒼施様を守る護衛としてあなたを都から出したのです。怪しまれぬように刺客は常に放ちつづけておりましたが」

 久治の顔からは笑みは消え、ただ顔の形をした面を被ったように彩火には思える。

「私にはまた別の考えがありましたが」

「それなら蒼施様はもういいでしょ」

「帝の望みと果たされることはないでしょう。青鸞は宿主を選ぶ」

 久治の手から現れた黄金の渦が実体を持ちつつある青鸞を包み込む。

「不死鳥の一族はさながら郭公のように人の中に混じり、何れは世界を簒奪するのです。私はそれを駆逐する」

 青鸞は細かな青い光の欠片となって消えた。蒼施は石によりかかるように倒れた。久治は残った渦を弄ぶようにしながら蒼施を見た。

「宿主となるものを全て消し、不死鳥の地上での依代を無くすこと」

 彩火は蒼施と白銀丸の方を見た。白銀丸も彩火の方を見返している。

 久治の言うことは彩火には理解できなかったが、蒼施を見逃す気がないのだけは分かる。

「蒼施様をおねがいします」

 彩火の手が朱の光を放つ。彩火は何かを描くように手を動かすと宙に象徴が刻まれる。

「祝融煌」

 文字が消えると久治の身体を地面から吹き上がった火柱が包みこむ。包まれた存在を骨と灰のみにする炎であった。

 久治は声を上げて笑った。



紘譚  彩火北行之拾三 「決着」

「祝融煌」

 文字が消えると久治の身体を地面から吹き上がった火柱が包みこむ。包まれた存在を骨と灰のみにする炎であった。その中で久治幹安は笑っていた。

「まだ分からないと見えますね」

 久治の身体には炎が触れていない。

「私には術は効かない」

 火柱が消え去るのに合わせて彩火は両腕を久治に向けた。 

「朱炎駆」

 炎の鬣を持った朱色の麒麟が駆けていく。麒麟が走り去った後には炎の残像が残り、継いで熱せられた空気が逃げ場を求め竜巻を生じた。

 高熱と突風が月読を駆けり、巻き込まれた久治の姿は見えなくなった。

 彩火は安堵の表情を浮かべた。

 本来は人ではなく、城を壊す時に使うための術だ。直撃を受けて生きている事はあるまい。

 その彩火の表情が恐れに凍りつく。

 黄金の光が竜巻を切り裂いた。

「無駄です」

 久治は言った。

 彩火は左肩を押さえて立っていた。もう傷を隠していられる状況では無かった。度重なる術により気力も体力も尽き掛けている。

 痛みで引きつりながらも彩火は笑みを浮かべていた。

 蒼施と白銀丸の姿はどこにも見当たらない。白銀丸の腕なら蒼施を連れて逃げるのもそう難しくないよう。彩火はそう信じた。

「捨て駒になるか」

 こうしているとやっと守応への償いが終わった気がした。

「さらばです南姫」

 久治の黄金に輝く腕が彩火に向かいゆっくり近づく。

「守応さま」

 彩火は腕の先に守応が見えた。

 守応は見たことが無い険しい顔で彩火を見ていた。

「無駄な事を。魂から青鸞を引き離したらものは直ぐに消える。あの皇女もしかり。」

 光の渦が久治の腕から広がり、彩火を包み始める。 

「生きて彩火」

 はっきりと聞こえた蒼施の声に彩火は目を開いた。眼前には黄金の光がある。術を使う余裕は無い。彩火はただ意思を炎に乗せて開放した。

 全身を炎に包まれる彩火。それを飲み込もうとする黄金の渦。炎は黄金の渦に巻き込まれ、千の火華を上げながら砕かれ消えていく。

 彩火の身体が大きく揺らぐ。

「無駄です」

 黄金の渦に飲み込まれそうになりながら彩火は目を閉じた。

 鋭く地を蹴る音が響き、刀を構え飛び込んでくる白銀丸の姿がそこにあった。

 白刃の一閃が彩火と久治の間を裂いた。

 空気を切り裂く音が響き、久治の腕が転がった。

「ただの人殺しに戻ると言うのか白銀丸」

「俺は辻勇実だ」

 黄金の渦が支えを失い、久治のそして彩火の身体を包み込んでいく。光に包まれながら久治は支えを失ったように倒れた。今まで久治と見えていたそれはただの木偶と化していた。

 黄金の光に飲み込まれる中で彩火は蒼施のぬくもりを感じた。

「蒼施さま?」

 黄金の光から彩火を守る青い光が彩火の回りにあった。 



紘譚  彩火北行之拾四 「旅立」

 廃都月読は死の静寂を取り戻しつつあった。

 黄金の光は消え、青鸞だけが佇んでいた。彩火は青鸞を見つめた。青鸞の目の中には守応の俤が見えるようだ。

 青鸞は舞い上がる。彩火は青鸞の姿を追い頭を上げた。青鸞は一度彩火の顔を姿を見ると上空に溶け込むように消えていった。

 壊れた建物は生き物が傷を治すように直り始め、砕かれた土人形は細かな芥となり消えていく。

 月読から戦いの跡が消えても、空を見続けている彩火の横に辻勇実が立った。

「動けるか」

「蒼施様はどこにいるの?」

 そういいながら立ち上がろうとした彩火だが立つことは出来なかった。辻は手を伸ばした。差し出された辻の手を素直に掴み彩火は立ち上がった。

「こっちだ」

 辻が彩火を連れてきたのは昨夜過ごした建物だった。

 朝過ごしたまま残されているかまどや鍋もあるのにとても前に彩火には思える。

「蒼施様」

 部屋の中には蒼施の姿は無かった。ただ、蒼施の身につけていた装束が天女に忘れ去られた羽衣のように床に残っている。

 辻は蒼施を求め外に飛び出していった。

 彩火には分かった。もう蒼施がいないと言う事が。

「蒼施様」

 久治幹安の言っていた事。『魂から青鸞を引き離した蒼施は直ぐに消える』。そしてさっきの声。

 魂は千年の時を超え、千里を隔てて会いに来るという。あの時蒼施はもう。

 青鸞に黄金の渦から守られ始めて彩火は知った。蒼施は一人でもここで来れる力があったのが。でも蒼施は彩火のために一緒にいてくれた。自分の行いを赦せない彩火の心のために。

 彩火は蒼施の羽織に手を伸ばした。羽織の脇に埃に書かれた自分の名前が目に入る。それは小さく震えていた。

『彩火はひとりじゃない』

 涙が彩火の目から溢れてきた。彩火は服を抱きしめた。少しだけ残る蒼施のぬくもりを忘れないように。枯れるまで涙を流しても蒼施を忘れないように。

 数日後、樹海から東国へと向かう間道に一人の少女の姿があった。

 仕立てのいい夕焼け色に雲を模した小袖。布飾りのついた笠。それは南家彩火だった。

 それまで立ち止まる事の無かった彩火は立ち止まり振り返って樹海の方を見た。

 初めて彩火が見た時と同じ筈なのに樹海は暖かく思えた。

「蒼施さま、私は生きます」

 彩火はしっかりと前を向き歩き始めた。 



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ