エピローグ ~誓い~
無神大陸の上空より、俺は落ちていった第三魔王を見据える。
消滅した体は再生する気配もない。魔眼を凝らしても、その根源は最早どこにもない。
間違いなく、奴は滅び去ったのだ。
主君の敗北を目の当たりにした配下たちは、次々と敗走していく。
深追いすることなく、むしろシンたちは彼らが逃げるように立ち回った。
大勢は決した。まもなく第三魔王の軍は完全に撤退し、残っているのはミリティアの魔王軍だけだ。
「アノス」
ミーシャとサーシャがこちらへ飛んでくる。
第三魔王にやられた傷はそれなりに深かったが、どうにか動けるようになるまで回復したようだ。
「よく俺が戻るまで時間を稼いだ」
「まさか二律僭主の体で戻ってくるとは思わなかったけど」
呆れ半分、冗談半分でサーシャが言った。
「アノスの前世は、ノア?」
そうミーシャが聞いてくる。
「薄々予感はしていたがな。ロンクルスとの融合で記憶が混ざるのはわかっていたが、その中にノアしか知らぬような記憶があった。俺が二律剣を持っていたからだろう」
二律剣は、元々二律僭主の体。そして、前世の俺はその体に記憶を残しておいたのだ。
初めて転生魔法に挑むとなれば、力と記憶が完全に引き継げるかはわからない。
父セリス同様、その対策を行っていたのだ。もっとも、二律僭主の体は今の根源では十全には操れぬようだ。
ノアは《追憶の廃淵》より生まれた。今の俺はアーツェノンの滅びの獅子、つまり、《渇望の災淵》の影響下にある。
同じ《淵》同士では、相性が悪いのやもしれぬ。
「じゃ、この無神大陸って、銀水聖海にいた頃の、アノスの国?」
サーシャがこちらを向いて聞いてくる。
「……国と呼べるほどのものではなかったがな。民も少なく、なにより、俺は王の器ではなかった」
そう口にした後、俺は《思念通信》で配下たちに言った。
「皆、俺のもとへ集え」
ゆっくりと俺は降下していく。
その後ろに、ミーシャとサーシャが続き、エールドメードやシン、レイなど配下たちが集まってきた。
古城の中庭が見えた。
無神大陸の住人たちがいる。ホルセフィ、ラグー、アガネ、ノーズ。そして、ロンクルスがこちらを見上げている。
彼らはまるで夢を見ているような面持ちで、俺と魔王軍から目を離せないでいた。
「いつか、ここで卿らに話したな」
かつての、二律僭主の口調で俺はロンクルスたちに言った。
「いつか。遠いいつか。多くの民と配下を得て、真の王となってここに戻ってこよう、と」
その言葉で感極まったように、ロンクルスは涙をこぼした。
ラグー、アガネ、ノーズ、ホルセフィも泣いている。
「お前たちが俺を王にしてくれたのだ」
中庭に俺は足を着く。
ロンクルスたちが駆け寄ってきて、すがりつくように俺の手を取った。
「帰らぬもの……と……」
嗚咽交じりに、ロンクルスは言う。
「僭主は最早……どこにもおらず……もう二度と帰らぬのだと……。それでも……それでも我々は、あなたが吹かせた風だけは……この銀海の秩序を挫く、自由なる風だけは残そうと……必死に……」
ロンクルスの言葉に、ラグー、アガネ、ノーズも泣き崩れる。
帰らぬはずの主が、帰還した。
約束通り、多くの民と配下を得て、決して避けられぬ死の壁すら超え、ここへ戻ってきたのだ。
「ホルセフィ」
俺は呼んだ。
「ラグー」
彼らの名を。
「アガネ」
一人ずつ、その顔を見つめながら、
「ノーズ」
心からの感謝を込めて。
「ロンクルス」
そして、言った。
「ずいぶんと待たせた」
「いいえ……いいえ、僭主。あなたが今も変わらず、秩序と戦っていた。それだけで、わたくしたちには十分でございます」
ロンクルスが静かに頭を下げる。
「久しぶりに戻ってきたが、相も変わらず、この銀海は息苦しい」
その言葉に、彼は首肯した。
「……はい。浅きは奪われ、深きは繁栄する。不条理な世界の理は変わらず蔓延っております。誰もがそれを当たり前のこととして受け入れ、疑いもしません」
「かつてはわからなかったがな。泡沫世界に生まれ変わり、そこで生きたことでわかったことがある」
「……というと?」
ロンクルスが疑問の目を向けてくる。
「理だの、秩序だの、大層なことのように言う輩は多いがな。そんなものは、なにも決まってはいないということだ」
彼は目を丸くして、それから笑った。
「風を吹かせよう。もっと強く、もっと遠く、この海のどこにあっても吹く、自由なる風を」
「どこまでもお供いたします、僭主」
ロンクルスは俺の前で跪く。
ラグー、アガネ、ノーズも同じように忠誠を示した。
「まずはこの無神大陸を転生させる」
「転生? この世界を……でございますか?」
「ああ。今のままでは、ホルセフィが動けぬ。ミーシャ」
俺が振り向けば、こくりと彼女はうなずいた。
「《破壊神降臨》」
「《創造神顕現》」
サーシャとミーシャが魔法陣を描く。
無神大陸の上空に闇の日輪と白銀の月が出現した。ゆっくりと二つ重なり合い、《創造の月》アーティエルトノアが欠けていく。
《源創の月蝕》である。
「――三面世界《創世天球》」
響き渡った声とともに、赤銀の月明かりが降り注いだ。
「よーし、いっくぞぉーっ」
《根源降誕母胎》により、コウノトリの羽根が無数に舞う。生まれていく愛と優しさを、レイが《想司総愛》に変換した。
魔王列車の水車と風車が勢いよく回転し、無神大陸に希望が溢れ出す。
「《優しい世界はここから始まる》」
無神大陸が赤銀に染まった。
創造神の権能によって、氷の結晶となった絡繰神が創り換えられていく。
ホルセフィと同化している岩が少しずつ剥がれていき、やがて彼はそこから解放された。
《優しい世界はここから始まる》により、無神大陸は創り換えられた。
「……なんだか、全然前と変わらないわね」
生まれ変わった無神大陸を見て、サーシャが言った。
「足下をよく見るがよい」
「別に地面だってなにも変わって……あ……」
はっとしたようにサーシャは声を上げた。一見して、そこは普通の世界と同じ。しかし、本来あるはずのものがそこにはない。
「影がない……どうして……?」
光に照らされても、人にも物にも影ができず、代わりに風が吹いていた。
サーシャがミーシャを見ると、
「無神大陸は民の国。この大陸にいる人は、その影をこの世界の風に変える」
彼女はそう説明した。
「風が吹き続ける限り、秩序がなくても、この世界は維持される」
要はこの無神大陸にいる者の魔力によって、世界が維持される仕組みだ。
今の人口では、ホルセフィ並の魔力を持っている者がいなければ、無神大陸を維持できないが、人が増えればその問題も解決するだろう。
神はおらず、民一人一人が世界を支える。この無神大陸に相応しい。
「ロンクルス。正帝について、どこまで知っている?」
「つかんだことは僅かにありますが、それも事実である保証がございません。魔弾世界の大提督ジジも正帝のはずでしたが……しかし、彼が滅んだ後、今度は第三魔王ヒースが正帝として動きました……」
そして、第三魔王ヒースも滅んだ。恐らく、次の正帝がまた現れるだろう。
正帝とはいったいなんなのか?
なぜこの銀水聖海の有力者が次々と正帝を名乗り、暗躍を始めるのか?
それに――
「ねえ。ちょっとよくわからないんだけど、正帝ってあれのことであってるわよね?」
話がつかめぬサーシャが聞いてきた。
「銀水世界リステリアで読まれてたっていう、お伽噺の英雄でしょ?」
「そんなお伽噺はリステリアには存在しない」
「え……?」
サーシャが驚きの表情を見せる。
ぱちぱち、と隣でミーシャが瞬きをしていた。
「《絡繰淵盤》上のリステリアは、滅びたリステリアの民の追憶から生まれている。恐らく、その時に、別の世界の追憶が混ざったのだろう」
俺が生じた時、羽化世界の元首シューザの一部が混ざったのと同じだ。
「正帝は他の世界のお伽噺に登場する正義の味方?」
ミーシャが問う。
「あるいは、お伽噺ですらないのやもしれぬ」
「どういうことでしょうか?」
ロンクルスが疑問の視線を向けてきた。
「銀水世界リステリアが滅び、民たちが追憶したパブロヘタラに正帝のお伽噺が混ざった。リステリアを滅ぼしたのは、乱心した隠者エルミデ。正帝は皆、そう名乗る。大提督ジジも、第三魔王ヒースもな」
なによりも、
「俺は隠者エルミデを知っている。彼は平穏を愛する、穏やかな元首だった。奴らは皆、真っ赤な偽者だ」
だとすれば、自ずと答えは導き出される。
「な・る・ほ・どぉ。正帝とやらが隠者エルミデに成りすまし、銀水世界リステリアを滅ぼしたというわけだぁ!」
愉快でたまらぬといった笑みを浮かべ、エールドメードがそう口にした。
それが、考えられる限り、最も妥当な結論だろう。
「正帝が俺を狙うのは、俺がリステリアの生き残りだからやもしれぬ」
今のパブロヘタラには誤った情報が伝わっている。銀水世界リステリアの正しい姿を知っているのは、恐らく今はもう俺だけなのだろう。
奴は隠者エルミデに成りすまし、何事かを企てている。その目的に俺が邪魔というわけだ。
「ふむ」
俺は踵を返し、歩き出す。
「皆、しばしここで待て」
「え……と、どこへ行くのよ?」
「大魔王ジニアに聞きたいことがある」
俺は樹海船アイオネイリアを浮かせると、それに飛び乗った。
無神大陸を離脱すると、全速で魔眼世界ゴーズヘッドへ向かう。やがて、その銀泡が見えてきた。
アイオネイリアを降下させれば、血のように赤い空と太陽が出迎えた。
すぐさま、俺は転移する。
やってきたのは大魔王の城。その玉座の間だ。
その椅子に、白髪と白髭の老人、ジニア・シーヴァヘルドが座している。
俺は彼に視線を向けた。
だが、妙だった。
目が合わないのだ。それだけではない。大魔王ジニアは俺に気がついていない。
全てを見透かすその魔眼は、確かに開いているというのに。
「見えていないのか、ジニア?」
俺はそう問うた。
「ああ、ノアか」
声を頼りに、ジニアは俺の方を向いた。
「死期が近くてのう。寿命じゃ」
死を受け入れたように、ジニアは穏やかな顔をしている。
大魔王が言うのだ。全ての手を尽くしての結論なのだろう。
「なあ、ノアや。魔王にならんか? 転生世界でも魔王ならば、肩書きが増えることもなかろう」
やはり、わかっていたか。
俺がアノス・ヴォルディゴードであり、二律僭主ノアだと最初から見抜いていた。だから、なにも言わなかったのだ。
「話が見えぬ」
「滅びるのはよい。だが、儂が滅びれば、深層十二界は深淵世界に引き寄せられ、やがて彼の世界に飲み込まれるだろう。この海の深淵化が進むのだ」
穏やかにジニアは語る。
けれども、その言葉の一つ一つに、決して無視できぬ重みがあった。
「どうなるのだ?」
じっとジニアは俺の目を見つめた。
その朱い魔眼で、深淵を覗きながら、彼は言うのだ。
「この銀海の全ては《絶渦》に飲み込まれ、消え去るだろう」