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死の壁を超えて


 一万四千年前――


 聖剣世界ハイフォリア近海。


 レブラハルド男爵所有、銀水船ネフェウスの一室。


「長く待たせてすまない。三日後、ようやく私は選定の儀を授かる。必ず、霊神人剣を抜いてみせる」


 椅子に丸くなって座っているルナに、レブラハルドはそう言った。


「だが、この船に対する災淵世界イーヴェゼイノの監視が強くなった。君がここにいることも、大凡はもう見当がついているんだろう」


 ルナは俯きながら、黙ってそれを聞いている。


「以前も言った通り、霊神人剣といえども、災禍の淵姫である宿命まで滅ぼせるとは限らない。だから、イーヴェゼイノの住人である宿命を断ち切る。泡沫世界に行けば、懐胎の鳳凰は君を見失う。災禍の淵姫ではなくなるはずだ」


「一つ、お願いがあるの」


 顔を上げて、ルナは言った。


「聞こう」


「この間、すごく綺麗な銀泡を見つけたの。泡沫世界に行くなら、そこに行きたいわ」


「場所は?」


 ルナは魔法陣を描き、海図を出した。


 彼女が見つけた銀泡の一点が光っている。


「わかった。では、先にここへ向かわせるように手配する。待っていてくれ。霊神人剣を抜き、必ず馳せ参じよう」


「ありがとう、男爵様」




     ◇


 


 樹海船アイオネイリア。


 異様に長い銀髪が水中に漂うかのように浮いている。


 背は高く、夕闇の外套を羽織り、無彩色の魔眼にて、魔法陣を見つめていた。


 成長した二律僭主、ノアである。


 根源に混沌を取り込んだことにより、彼は体が成長するようになったのだ。


 だが、肝心の目的はまだ果たせていない。


 魔法陣には映像が映し出されている。ルナとレブラハルドだ。ジェインのハインリエル勲章を経由し、彼女の様子は見られるようになっていた。


「……恐らくは、レブラハルド男爵の試みは失敗するでしょう。霊神人剣でイーヴェゼイノの住人である宿命を断ち切ろうとも、災禍の淵姫である宿命からは逃れることはできかねるかと」


 そう口にしたのは、ノアの傍らに立つ執事姿のロンクルスである。


 ルナの行く末を案ずるように、彼は表情を曇らせていた。


「お止めになった方がよろしいのでは? 僭主のお言葉であれば、()の人も耳を貸すことでしょう」


「ロンクルス。他に方法はあるか?」


 ノアは問うた。


「霊神人剣にて宿命を断ち切り、泡沫世界の者となる。彼女らの計画を助ける手段を知っているか?」


「……恐れながら、わたくしが知っているのは、この海では叶わぬ戯言のみ。あの大魔王ジニア・シーヴァヘルドをして、不可能と言わしめた夢の魔法でございます……」


「言ってみよ」


 二律僭主に促され、ロンクルスは口を開く。


「転生魔法。《融合転生(ラドピリカ)》や現在、銀水聖海に存在する仮初めの転生とは違う、真の転生にございます。それはわたくしたちのこの根源を維持したまま、別人へと生まれ変わることでございます。それが叶ったならば、いつか我々は滅びをも克服することができるでしょう」


「別人として転生すれば、災禍の淵姫ではなくなるということか」


「完全につながりが切れるとは限りませんが、極めてそれは薄いものとなるでしょう。少なくともアーツェノンの滅びの獅子は、完全体としては生まれないでしょう。その子は、生まれながらにして災厄である宿命に、立ち向かうこともできます」


「やはり、それしかないか」


「やはり?」


 ノアは樹海船の進路を変えた。


「どちらへ?」


「転生魔法に挑む。準備はしていたのだ」


 ロンクルスは目を見開き、絶句した。


 それがなにを意味するのか、彼にもよくわかっている。


 混沌を克服した二律僭主からして、強き、強き、なによりも強き、死の壁だ。それに挑んだ名だたる者が、超えることができず、滅び去った。


「この海の秩序は完全なる輪廻を認めておりません。長きに渡り君臨する強者とて、いつかは全てが無となり、泡のように消え去る運命(さだめ)でございます」


「卿は言ったな。私はこの海に吹く自由なる風だと」


「……それは……しかし……」


 ロンクルスは返事に窮する。


 今度ばかりは、主を止めたい。そう考えているのだろう。できなければ、待っているのは絶望でしかないのだ。


「僭主はこの銀水聖海に必要な御方。僭主なくば、この海は定められた秩序通りに流れゆくのみ。救われぬ者は、永久に救われぬまま。パブロヘタラで暗躍する何者かも、野放しに……それではこの海の自由と平和が奪われます……」


「自由と平和か……」


 ノアは独り言のようにぽつりと言った。


「さぞかし大義なのであろう。だが、ロンクルス、今の私は……私には大義を成すことはできない。混沌を手に入れ、体は大きくなった。欲求も、望みも、いずれわかるようになるのかもしれない。しかし――」


 彼は、魔法陣に映るルナを見つめる。


 己の渇望に耐え、不安を必死に押し殺していた。


「誰かの大事にしている、小さな幸せを守るのが優しさなのだそうだ。そして、私は優しい子なのだそうだ」


 それは、幼い頃、一緒に過ごしたルナがかけてくれた言葉だ。


「恩人の言葉を、嘘にするわけにはいかぬ」


 伴侶を迎え、子をもうけ、仲良く暮らす。それがルナの願いだ。それぐらいの小さな幸せは叶うべきだとノアは思った。


 それを叶えてやりたいと思った。


 小さなことが優しさだと、大きな優しさなどないという彼女の言葉が、どうしようもなくノアの胸に刺さったのだ。


 ロンクルスは主を説得する言葉を探したが、見つからなかった。


 ノアは樹海船を深層十二界に位置する無神大陸へと飛ばした。そこでならば、思う存分に魔法実験を行うことができる。


 レブラハルドが霊神人剣を抜いて戻ってくるのは僅か三日後。猶予は幾ばくもない。


 とはいえ、願望世界を訪れた日から、ノアはその研究を行っていた。彼女を救う最後の手段として。無論、だからといって成功の保証があるわけではない。


 その日に向けて、ほんの僅かでも可能性が得られるように、ノアは《転生(シリカ)》の魔法研究に没頭した。




   ◇


 


 三日後――


 鬱蒼(うつそう)とした樹海――樹海船アイオネイリアが、銀水聖海を進んでいた。


 樹海は夜だ。


 アイオネイリアが、景色を生み出している。漆黒の空に、七条のオーロラが冷たく輝く。


 その明かりは樹海に降り注ぎ、二つの影を地面に浮かばせた。


 二律僭主ノアとそばに控える執事のものだ。


「僭主」


 ロンクルスが言った。


 繰り返し問うてきたことだったが、それでも彼はやはり諦めきれなかった。


「お心は、決まっていらっしゃるのでしょうか?」


「ああ」


 オーロラを見上げながら、二律僭主は言う。


「幼き日の恩に、報いねばならぬ」


 遙か遠く、七条のオーロラの彼方にある外側へ、彼は視線を伸ばしていた。


 ロンクルスは主の言葉を拝聴しながらも、浮かない表情を浮かべている。二律僭主にもそれがわかったのだろう。彼は視線を下ろし、執事に向き直った。


「卿はわたしが後れを取ると思うか?」


 気負いのない口調だ。


 けれども、その言葉には揺るぎない自負が溢れている。


 ロンクルスは、その無彩色の瞳をじっと見つめた。


「我が主は、不敗にして気高く、この銀海に吹く、自由なる風でございます。いかなる死線をも笑みとともに越え続けた二律僭主に、敗北などございません」


 一瞬口を噤み、再びロンクルスは言った。


 しかしながら――と。


 二律僭主は、言葉の続きをただ黙って待つ。


「……しかしながら、()の人にかけられしは、永劫の呪いです。僭主のお力なら、その影を踏み潰すことはできましょう。けれども、あれは解ける類の呪詛ではないのです。もしも、それを解こうというのならば、文字通り、その根源を懸け、死と滅びを超える必要がございます」


 ロンクルスは言葉を重ねる。


 主が思いとどまってくれるようにと。


「方法はある」


 自分でそう言ったはずだとノアは示唆した。


「……不可侵領海と呼ばれた名だたる者がそれに挑み、そして敗れ、帰らぬ人となりました……」


 繰り返し、繰り返し、ロンクルスは警告する。


 その言葉は主は止まることはないともうすでにわかっている。


 それでも、言わずにはいられなかったのだ。


「ロンクルス」


 静かに二律僭主は言う。


「わたしは恩を受けた。それを返しにゆくだけだ」


「幾千の死の壁が御身の前に立ちはだかっていたとしても?」


「愚問だ」


 ロンクルスは言葉を失う。


 彼にはそれ以上、主を引き止めることができなかった。


「……では、僭主――」


「二律僭主がなくなれば、この海域一帯は奴らパブロヘタラの手に落ちる」


 ロンクルスの言葉を封じるように、二律僭主が言った。


「待つことはない」


 二律僭主は自らの執事に命ずる。


「守れ」


 あるいはそれは、執事に地獄への供をさせぬための命だったかもしれない。


 ロンクルスはその場に跪き、深く頭を下げた。


「承知いたしまし――」


 突如、激しい衝突音が鳴り響き、樹海に大地震が巻き起こった。


 アイオネイリアの進行方向に、突如、別の船が現れたのだ。直後、夜空のオーロラが七条、粉々に砕け散った。


 樹海船が急速に速度を失い、辺りは暗闇に包まれる。


 ロンクルスが、魔眼を光らせた。


 賊は素早い。


 この樹海船の中にすでに侵入しているのだ。


「排除いたします」


 ロンクルスは立ち上がり、右手の手袋を軽く噛んで外す。


「よい」


 短く言い、二律僭主は闇の向こう側へ声をかけた。


「船を壊さなければ、挨拶もできぬか――」


 足音が響く。


 闇の中から、静かに姿を現したのは、魔族の青年だった。


「――アムル」


 ニヤリ、とその青年、アムルは笑った。


 深層十二界で出会った第一魔王である。曲者揃いの魔王たちだが、彼とはなにかと馬が合い、二人は懇意にしていた。


 警戒していたロンクルスは、侵入者がアムルだと知ると、すぐさま右手に手袋をはめ直す。


「第一魔王、壊滅の暴君におかれましては、ご機嫌麗しく。叶うならば、今後、悪戯で僭主の船を壊さないことを願いたく存じます」


「許せ。なにせ、待てと言って待った試しがない。こいつはな」


 アムルは親指で二律僭主を軽く指す。


 フッと彼は笑った。


「久しいな。卿と会うのは、いつ以来だ?」


「といっても、ほんの二、三〇〇年ほどだ」


 二律僭主の問いに、アムルは気安く答えた。


「死んだという噂もあったようだが?」


 どこでなにをしていたのか、と二律僭主は暗に問う。


「そのわりに、大して驚いた顔でもないな」


「卿が死ぬはずがない」


 くつくつとアムルは愉快そうに笑う。


 それから、答えを口にした。


絶渦(ぜつか)を見にいってきた」


 二律僭主は真顔で応じる。


 銀水聖海の遙か底、深淵に至った世界にあるのが、万物を飲み込む渦、絶渦である。


 あるいは悪意の大渦とも呼ばれ、一度(ひとたび)渦動すれば、小世界すらも容易く飲み込む、銀水聖海の大災厄だ。


 ノアは、一度それを見たことがある。


 願望世界ラーヴァシュネイク。その海で、真っ赤な星々が形成していた大渦である。


 ノアの目的とは違ったため、その先へは行かずに引き返したが、第一魔王はそれを見てきたという。


「卿のことだ。凌駕してきたのだろう」


「いいや、まだだ。さすがに一筋縄ではな。それに少々思ったものと違った」


 二律僭主は興味を引かれたような瞳を、第一魔王へ向けた。


「いつもながら、卿は面白いことをする」


「それはこちらの台詞だ」


 二律僭主の無彩色の瞳を、アムルの視線が射抜く。


「聞いたぞ、ノア。わざわざ滅びにいくそうだな?」


 無神大陸で魔法研究を行ったため、深層十二界を拠点とする目ざとい者にはノアが転生魔法を開発しようとしていることがわかったことだろう。


 アムルもその一人だ。


「誤解だ。わたしはただ恩を返しにいくのみ」


「無事、戻れる保証はあるまい。お前が無駄死にするのを黙って見ていると思うのか?」


「わたしが卿以外に敗れると思うか?」


 二律僭主と壊滅の暴君、二人の視線が真っ向から交錯する。


 数秒の沈黙の後、アムルは地面に指先を向ける。


 魔力の光にて、大地に一本の線を引かれた。


「この線を越えてみろ」


 膨大な魔力が、アムルの身体中から噴出し、樹海がガタガタと音を立てて震えた。


「アムル様、お戯れはそのくらいで。そのようなことをする理由が――」


「下がれ、ロンクルス。心配性な暴君は、わたしの今の力を知りたいのだろう。杞憂だとわかれば、笑顔で送り出してくれよう」


 二律僭主が魔法陣を描く。


 すると、ロンクルスは自身の影に吸い込まれるように沈んでいき、姿を消した。


「ノア。腕はなまっていないだろうな?」


 黒き粒子が渦を巻き、ただ魔力の放出のみで樹海の木々が薙ぎ払われる。


 結界代わりだった樹木が減り、外の銀水が雨のように降り注ぐ。


「卿こそ、絶渦を討ちもらすとは、弱くなったのではないか?」


 二律僭主の挑発に応じるように、アムルは不敵な笑みを返した。


「試してみるか?」


「《黒七芒星(デムド・イヴ)》」


 二律僭主は目の前に黒の七芒星を描く。


 夥しい魔力の噴出が、樹海船を激しく揺らし、空気と魔力場をかき混ぜた。


「《覇弾炎魔熾重砲(ドグダ・アズベダラ)》」


 黒七芒星を纏った蒼き恒星が唸りを上げ、壊滅の暴君めがけて撃ち放たれた。


「《黒六芒星(デムド・イラ)》を超えたか。相変わらず、凄まじい」


 言いながらも、アムルは目の前に魔法陣を描いている。


「こちらもお前の知らぬ魔法を見せてやろう」


 魔法陣が幾重にも重なり、砲塔を形成していく。


 その中心に黒き粒子が荒れ狂い、七重の螺旋を描いた。


「行くぞ」


 ぼぉっと終末の火が出現する。


 アムルが砲塔をぐるりと回せば、終末の火が通った空間が滅び去り、黒き灰に変わる。


 彼はそれを使い、魔法陣を描いた。


 二律僭主の放った蒼き恒星は、容赦なくそこに直撃する。


 否、受けとめたのだ。


 並の小世界ならば滅びてしまいそうなほどの衝撃が、樹海船を激しく震撼させ、黒き粒子と蒼き粒子が、鬩ぎ合っては火花を散らす。


 第一魔王。壊滅の暴君アムルは不敵な笑みをたたえ、言った。


「――《極獄界滅灰燼魔砲エギル・グローネ・アングドロア》」


 二つの大魔法の激突は、まるで銀泡の大爆発を目の当たりにしたかのようだった。


 激しい魔力の奔流が収まると、もうもうと立ち上る土煙の中に二つの影が見えた。


 二律僭主ノアと、第一魔王アムルである。


 両者とも健在だった。フッとどちらかの笑声がこぼれた。


「またな」


 その言葉とともに、一つの影が消えた。


 土煙が晴れると、アムルの姿はもうどこにもなかった。




      ◇


 


「《背反影体(ダブエル)》」


 ノアは魔法陣を描き、目の前に立体的な影を作った。それはルナと出会った幼き日のあの姿と同じである。


 彼はその幼い影の手を二度開いて、閉じる。体の動きを確認しているかのような動作だった。


「問題なさそうだ」


「その御姿で行かれるのですか?」


 ロンクルスは魔眼で幼い影を見つめる。ノアの根源はその中にあり、傍らに立つ本体は空っぽになっていた。


「転生魔法は初めての試みだ。たとえ成功したとしても、記憶や力が完全には引き継げない可能性もある。この体にそれを残した。卿に託す」


「承知しました。命に代えても、お守りいたします」


 決意を示すロンクルスを見て、ノアは笑った。


「命に代えることはない。念のために置いていくだけだ」


「……確かに。そうでした」


 ノアにつられるように、ロンクルスも笑みを見せた。


 転生魔法は己の根源で魔法実験をしなければ、最終的な結果がわからない。どれだけ理論を構築したところで、いかに模擬実験を行ったところで、最後の最後はぶっつけ本番での勝負になるのだ。


 もしかしたら、ノアは帰らないかもしれない。


 そのことは二人ともわかっていた。


 だが、ノアはこれから死地へ赴く気配などまるで見せなかった。ゆえに、ロンクルスもまた主の思いに従い笑ったのだ。


「では、行ってくる。留守を任せたぞ」


「はい。いってらっしゃいませ」


 まるでいつもの日常の如く、ロンクルスは主を送り出したのだった。




   ◇




 影体(えいたい)となったノアは樹海船は使わず、自力で銀水聖海を飛んでいた。


 まもなく、ルナが行こうとしている泡沫世界が見えてくる。


 レブラハルドとルナの約束の日は本日、すでに彼女は行動を起こしている。


 災淵世界イーヴェゼイノの者に追われているようだが、それは大きな障害にはならないと踏んでいた。 


 問題は彼女とつながった《渇望の災淵》である。


 銀水聖海における《淵》とは全ての小世界からの想いが集まる場所。その力は尋常ではなく強い。


 そして、ノアが睨んだ通り、ルナの胎内から《渇望の災淵》が広がり始めたのを、彼はハインリエル勲章を経由して確認していた。


 そして、レブラハルドが乗る銀水船ネフェウスの姿も。


 彼はまっすぐルナのもとへ向かい、広がり続ける闇――《渇望の災淵》の中に入った。


 従者を鼓舞するようにレブラハルドが、雄々しく声を上げた。


「そなたらの聖剣にて、我が王道を切り開け」


「「「レブラハルド卿の仰せのままに」」」


 銀水船に乗った狩猟貴族たちがそれぞれ聖剣を抜き放ち、頭上に掲げる。


 上方へ向けて、聖なる光が立ち上った。


「「「《破邪聖剣王道神覇レイボルド・アンジェラム》ッッッ!!!」」」


 船の甲板にて、狩猟貴族数十名が振り下ろした聖剣が神々しいまでの光を放つ。


 洪水にも似たその輝きが闇を斬り裂き、純白の道を作り出した。


 ルナに向かって伸びていくその光の道は、しかし途中で闇に飲まれ、途切れてしまう。


 船に乗っているのは、いずれも手練れの狩人たち。その聖剣は、ハイフォリアでも高位のものだ。


 だが、その聖なる光ですら飲まれてしまうほどに《渇望の災淵》は深かった。


「残り一〇〇、いや五〇でいい。届かないか?」


 レブラハルドが部下に問う。


「……やっては……いるのですが…………」


「……想定より遙かに、滅びの力が強く…………」


 光の道を延ばすどころか、そのまま維持するのもやっとという有様だった。時間をかければ、その分だけ、道は逆に短くなるだろう。


「行くしかない、か」


 レブラハルドが霊神人剣を握る。


 その瞬間、ノアは彼らの船を追い抜き、光の道の先めがけ一直線に飛んだ。


 狩猟貴族たちには、まともに視認すらできなかったことだろう。


 広がっていく闇は途方もない滅びの力を放っている。それを同じく滅びの力でもって真っ向から切り裂いた。


 遅れて驚嘆の声が漏れる。


「これ、は…………?」


「いったい、なにが……?」


 道が開かれた。


 狩猟貴族の前に、災禍の淵姫へと続く道が。


「例の子供か。災淵の檻に囚われし姫を救いに来たのだろう」


 レブラハルドだけが事態を察して、笑みを覗かせる。


 そして、開かれた道へと飛び出した。


「ジェインの恩人よ。私はハイフォリア五聖爵が一人、レブラハルド・フレネロス。我が友が受けた義に従い、災禍の淵姫ルナ・アーツェノンを今こそ宿命から解き放つ!」


 光の尾を引きながら、レブラハルドはまっすぐ飛ぶ。


 黄金の柄と蒼白の剣身を持つ霊神人剣エヴァンスマナは、キラキラと星の瞬きに似た光を振りまいていく。


 レブラハルドの魔力が無と化し、彼は剣身一体と化す。


「……待て…………待てぇぇぇぇっ、レブラハルド………………!!!」


 パリントンが叫ぶ。彼は我が身が飲み込まれるのも構わず、レブラハルドを追って、闇へ突っ込んでいく。


 だが、届かない。


「霊神人剣、秘奥が()――」


 彗星の如く飛んでいくレブラハルドは、エヴァンスマナを大きく振りかぶる。


「《天覇王剣(てんはおうけん)》」


 闇を斬り裂く、蒼白の剣閃。その刃は、《渇望の災淵》ごとルナ・アーツェノンの胎を斬り裂いていた。


 血が溢れ、黒き粒子が荒れ狂って、寸前のところでその刃を防いでいる。


 ミシミシと霊神人剣に亀裂が入った。レブラハルドは最後の力を振り絞り、その剣を振り下ろした。


 鈍い音を立てて、霊神人剣が根本から折れ、ルナの体から溢れる闇が止まった。


「……ありが……とう……」


 微かな呟きを漏らし、彼女は折れた霊神人剣とともに銀水聖海の水流に飲まれ、落ちていく。


 彼女が願った泡沫世界へと――


 そして、それと同時だった。


 ノアも同じくその泡沫世界に侵入を果たした。


 だが、彼が向かったのは地上ではない。神界だ。


 このエレネシア世界の始まりにして、終わりの場所。一面が真白に染め上げられた創造神エレネシアの神域であった。


 ノアはその魔眼の力を解放する。


 滅紫に染まった瞳の奥に闇十字が浮かぶ。混沌とした滅びの力が膨れ上がり、まず真っ先にノアの影体が弾け飛んだ。


 彼が滅ぼそうとしているのは、このエレネシア世界の秩序。生命は輪廻しないという、その理であった。


 絶えず、その理を破壊し続けることで、転生魔法を使うための土台が整う。


 無論、代償は大きく、ノアの影体は耐えきれずに崩壊した。


 理を破壊し続けるまでの滅びを、この神界に絶えず発生させるならば、ノアの根源もまた緩やかに滅びへ向かうだろう。


 その前に、《転生(シリカ)》の魔法にて、この世界に転生を果たさなければならない。さもなくば、待ち受けるのは避けようのない滅びだ。


 もう一つ。


 二律僭主ノアの力をもってすら、これは楔を打ち込んだにすぎないということだ。


 深層世界の生まれであり、混沌すら克服したノアの力は、とりわけこの泡沫世界では規格外といってよいほど絶大なるものだ。


 しかし、足りない。


 泡沫世界の理を変えるならば、その世界とのつながりが必要だ。つまり、外の世界から来た者では不可能。最後の一押しは、その世界の住人でなければだめなのだ。


 ゆえに、誰かがこの世界に構築されようとしている《転生(シリカ)》の魔法に気がつき、それを使わなければならない。


 ノアは体を失い、神界から動けず、声と言葉も発することができない。


 彼にできるのは、この銀水聖海の秩序に逆らい、転生を試みようという者が現れることを待つのみだ。


 二律僭主ノアと同じことを考え、実行しようとする者が、それだけの力を有する者が泡沫世界にいるという奇跡を願わなければならない。


 だからこそ、叶わないのだ。深層世界の中でも魔法に精通した名だたる者が挑み、諦め、絶望した。そんな者がいないからこそ、泡沫世界と呼ばれているのだ。


 だが――


 いかなる数奇な巡り合わせか。


 ルナが綺麗だと言った銀泡は、エレネシア世界だった。


 そこには紫電の瞳を宿し、秩序に背く、一人の亡霊がいた。


「――最期だ。名を聞こう」


 それは薄暗い洞穴、不思議そうな表情を浮かべる彼女に、その男は言った。


「お前の名だ」


「……ルナ・アーツェノン……」


 その魔眼に、彼女はぼーっと見とれ、そのまま尋ねた。


「……あなたの名前は……?」


「セリス・ヴォルディゴード」


 ただ名を名乗っただけ。


 それこそが亡霊とその花嫁の、永遠の誓いだった。


 ルナは先に逝った。


 そして、セリスもまた一人、洞穴にてその時を待っていた。


 エレネシア世界が終わる時を。


 滅びゆく全てのものは最後の一瞬、膨大な力を発する。


 セリスはそれにかけ、《転生(シリカ)》の魔法を使った。魔力の粒子となって消え去るように、彼の体は霧散していく。


 そうして、気がつけば、彼の意識は神界にあった。


「一つ聞きたい」


 今際の際、セリスが見たのは、幼い子どもの影。いや、それすらも朧気で、ただ彼がそう感じただけなのかもしれない。


 すでに、セリス自身も体を持たないのだ。


 ただその一瞬、同じ魔法を追い求めた二人の意識が共有されていた。


「なぜ、《転生(シリカ)》の魔法を?」


 ノアが問う。


 セリスは答えた。


「――空も海も大地すら、すべては滅びに近づくだろう」


 いつか、どこかで聞いた言葉だった。


 猛る想いが渦巻いている。


「ゆえに、我らは滅びた。しかし、この身は剣となりて戦い続ける。いつか、この世界で、両手を血に染めるしか能のない愚か者が、子を持てる日を……」


 二人の意識が離れるように、ノアとセリスの姿が塵となって消えていく。


 ほんの僅かの邂逅だった。


 だが、そこに答えはあった。


 深淵世界まで赴き、混沌を克服しても、なお手に入らなかったものが。


 彼が、父だった――


 そうして、彼女との会話をノアは思い出した。


『知らなくても、親は親だと思うな。だって、その人が追憶したことが、遠い遠い海を超えて、銀水世界リステリアまで届いたんでしょ。あなたが生まれたのは、きっとどこかにいる誰かが心から望んだからだと思う』


『きっと、みんなそうなの。みんな、必死に生きて、思うようにならないことがあって、どうしようもないこともあって……それでも、一生懸命頑張ってるの。いつか、必ず、奇跡だって起こせるんだって、そう信じて』


『奇跡とはなんだ?』


『わたしたちの気持ちが、わたしたちの願いが、わたしたちの優しさが、この海でなにより一番強いってこと』


『……難しく、尊いものだな、奇跡というのは』


 ノアは思った。


 生きながらに滅びていたその亡霊の想いが、遙か銀海を超えて、届いたのだ。


 だから、生まれたのだ。


 遠い泡沫世界にいたセリスの想いが、ノアを生んだ。


 ルナが災禍の淵姫となり、二律僭主となったノアに生きる理由を教えてくれた。


 彼女は泡沫世界にやってきて、セリスと恋に落ちた。


 そして、三人はここエレネシアで再び巡り会う。


 今度は、本当の家族として――


『幾億のはじまりを経て、私たちは、ただ我が子へ悲しみの宿命を繋いできた』


 終わりが近い。


 創造神エレネシアの声が響いていた。


 まもなく、この世界は滅び、新たな世界に生まれ変わる。


『あなたもきっと、この宿命からは逃れることができない。だから、私はこの世界を、創造の神たちが繋いできたこの大地を、エレネシアの空の下に生きた人々の笑顔を、ここで終わらせることにした』


 決意を込めた声が、世界を覆う。


『この世界はこのままここで滅んでゆく。あなたは私が創った、新しい権能を持った創造神、その力で一から新しい世界を創って。古いはじまりを捨て、新しい始まりをその手に。どうか、どうか――』


 世界を見つめるミリティアの耳に、母は愛情を込めて言った。


『あなただけの優しい世界を』


 俯き、しばらく考えた後にミリティアは、ぼんやりと荒野と空を眺める。


 淡い光が、ゆらゆらと揺れる。


 そのうちの一つがすうっと飛んできて、彼女の手の平に乗った。


 それはノアの火露だ。世界の秩序を滅ぼし続け、自由なる風を吹かせる象徴。この神界にそれがある限り、ミリティア世界は秩序には支配されない。


 それをミリティアは優しく手で包み込んだ。この世界に必要なものだと、知らないながらもわかったのかもしれない。


 エレネシアとミリティア、二人の語らいが続き、最後に母は言った。


『どうか、どうか、今度こそ――創造神(あなた)と世界が、健やかに育ちますように』


 世界を創り直す赤銀の光がぱっと弾ける中、ノアの意識が薄れていく。


 最後の瞬間、彼の頭をよぎったのは、戦い続けた偉大なる父の背中と、優しい母の笑顔だったー―



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― 新着の感想 ―
追憶の源は…、二律僭主の父は、エレネシア世界のセリス…。 時空を超えた家族の絆。転生世界ミリティアの根幹たるもの。 想いは因果の向こう側に──。
[良い点] やばすぎるさいこうすぎる 語彙がない、…好き…! ルナもアノスも2人とも、別の世界から来たんだろうとは 言われてたけど、こうやって繋がるの最高すぎる 親子が最高すぎるヤバイ
[一言] 鳥肌がすごい
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