深淵に蠢く影
樹海船アイオネイリア。
災淵世界イーヴェゼイノを発ったノアとロンクルスは、深淵世界を目指すため、銀水世界リステリアの近海を飛んでいた。
深淵世界は深すぎて、銀泡の輝きさえ、遠くの海からは見ることができない。
そこへ向かうには、深淵に近い小世界を一度経由しなければならない。
それが銀水世界リステリアである。
隠者エルミデにかけてもらった魔法により、樹海船アイオネイリアは、深淵に近づくことができる。
この海で最も深く、最も過酷な場所。遙か深淵を目指して、二人は銀水聖海の底へと潜っていく。
「そろそろ、元の姿に戻れそうです」
鷹の姿のロンクルスは、自らに魔法陣を描く。
光と化した鷹の輪郭がみるみる人の姿へと変わる。光が弾けるように霧散した後、執事姿のロンクルスがそこにいた。
「やはり、卿はその姿がしっくりくる」
ノアは言った。
「僭主。喋り方はそれでよろしいのですか? せっかく、あの姫君に教えてもらったのですから」
「卿たちとは、こちらの方が馴染んでいる」
「左様でございますか」
それ以上、指摘することなく、ロンクルスは主の言葉を受け入れた。
「……彼女は無事に、夢を叶えられるでしょうか……?」
前を向いたまま、ロンクルスはぽつりと呟く。
それがかつて自らに課せられた融合世界の秩序よりも、重い縛りだというのを、彼は承知していた。
銀水聖海における《淵》というものは、それだけ強力な理なのだ。
「ハインリエル勲章には魔法をかけておいた。彼女の状況は逐一わかるようになっている」
ノアが魔法陣を描けば、そこにルナの姿が映った。
「霊神人剣エヴァンスマナだけでは、彼女にかけられた呪いは断ち切れないかもしれぬ」
いつものように料理を作っているルナを見ながら、ノアはそう口にした。
「その時は……?」
「そのために、深淵世界を目指す。この海の全てが集まる混沌がそこにはある。なにか手立てが見つかるかもしれない」
驚いたようにロンクルスはノアを振り向いた。
「ご自身の出生を知るためでは?」
「無論、それもある。もののついでだ」
どちらがついでなのか、ロンクルスは尋ねることはしなかった。
自らの主のことを、彼はよく理解している。
「深淵世界には一筋縄では辿り着けないでしょう。あの姫君が危険を冒す前に、間に合えばよいのですが……」
「彼女の祖父、ドミニクと言ったか。アーツェノンの滅びの獅子を産むのに執着している。そう簡単にはイーヴェゼイノの外には出られぬだろう」
それでも、時間をかけてルナは船を手に入れ、イーヴェゼイノを出る。ノアはそんな予感がしていた。
「彼女が事を起こす前に、深淵を見てこよう」
「承知しました」
うやうやしくロンクルスは礼をする。
ちょうど、そのときだ、順調に飛んでいた樹海船アイオネイリアが突如、激しく揺れ始めた。
揺れはどんどんと強くなり、結界がなにかに突き破られた。
樹海の中に銀水が溢れかえり、木々を薙ぎ倒していく。
まるで大津波に突っ込んで飛んでいるのかのようだった。
「僭主」
特に動じることなく、ロンクルスは主を呼んだ。
「どうやら、見えてきたようでございます」
ロンクルスが魔眼を光らせ、樹海船の進行方向を見据える。
そこにあったのは無数の星々――凝縮された小さな銀河である。
銀泡よりもなお目映く輝くその銀河の光は、深淵にあるためか、ここまで近づかなければ見ることもできない。
「これが混沌か」
「ええ。引き寄せられた秩序や魔力が集まり、こうして銀河のようなものを形成しているのでございましょう。この混沌の銀河の中心に深淵世界があるはずでございます」
ロンクルスはそう分析した。
「行こう」
樹海船アイオネイリアは速度を上げる。
混沌の銀河が近づいてきて、その光に船が触れた。
バシュンッと樹海の一部が消し飛び、船には大穴が空いた。それ以上、アイオネイリアは混沌の銀河に近づけず、その場で足踏みをするばかりだ。
「……おかしな現象でございますね。アイオネイリアは速度を上げている。止まっているわけではないのに、一向に銀河に近づきません」
「様々な秩序が重なり合い、不可思議な現象を起こすのだろう」
「いかがいたしましょうか?」
「直接行こう。卿はここで待っているといい」
融魔族であるロンクルスは、外界にある様々なものと融合する性質を持つ。この混沌の銀河の中に赴けば、災淵世界以上の毒素を取り込んでしまう恐れがあるため、ノアはそう言った。
「承知しました」
ノアは飛び上がり、樹海船に空いた穴から外に出た。
目の前には混沌の銀河が、美しいまでの光が放っている。
迷わず飛んでいき、ノアはその光の中に手を伸ばした。
すると、光を浴びたノアの手が光と化した。
反魔法を纏っていたにもかかわらず、微塵も防ぐことができず、一方的に蹂躙されたのだ。
『僭主』
ロンクルスから《思念通信》が届く。
「治せない」
回復魔法をかけているが、光と化したその手が元に戻ることはない。
「深淵には秩序と魔力が引き寄せられる。魔力を持つ者がこの混沌に触れれば、その者は混沌の一部になってしまうのだろう」
そうノアは言った。
「《背反影体》」
自らに、ノアは魔法陣を描く。
大地も壁も、映し出すものはなにもないが、彼の影がそこに出現した。
「引き寄せられるならば、はね除ければいい」
《背反影体》とは秩序に反する影である。その力を全開にして、ありとあらゆる秩序に反するようにした。
自らの影から魔力が溢れかえり、影の粒子が立ち上る。
「行け」
ノアの影は、まっすぐ銀河の中へ突っ込んだ。
混沌の光がその影を照らし出す。
秩序に反する力を持った影は、バチバチと火花を散らしながら、混沌の光に抵抗した。
『さすがは僭主でございます』
「いや」
ノアは己の左手を見つめる。
光に触れていないにもかかわらず、右手同様にそれは光と化していた。しかも、その範囲はみるみる広がり、瞬く間に腕にまで達する。
「《背反影体》でも防げないようだ」
『僭主。一度お戻りください。このままでは混沌に取り込まれてしまうでしょう』
「もう遅い」
ノアの体は、右足、左足、右手、左腕、胸までが光と化してしまっている。今更、混沌の銀河から離れたところで、侵食を止められるとは思えなかった。
「二分ほどで、この混沌は私の根源まで侵食するだろう」
『二分……』
ロンクルスは光と化していく主を見ながら、奥歯を噛む。
深淵世界へ行き、戻ってきたのは大魔王ジニア・シーヴァヘルドのみと言われている。
甘く見ていたわけではなかった。十分に警戒して望んだつもりだった。だが、その意味を、彼はここに来て初めて思い知らされたのだ。
「食らわれる前に、こちらから食らう他ないだろう」
『それは……』
「《融合転生》を使う」
『まさか……この混沌の銀河と……?』
「融合する」
『お待ちくださいっ。《融合転生》は生命以外との融合は極めて困難。それも対象が混沌ともなれば……』
「食らわねば、こちらが一方的に食らわれるのみだ」
そう口にして、ノアは魔法陣を描く。
「《背反影体》」
再び自らの体から影を放つ。そして、その影が、影の魔法陣を描いた。
「《融合転生》」
影の魔法陣が大きく広がり始めた。それは混沌の銀河を覆いつくす勢いで、みるみる光を内側に入れていく。
「行くぞ」
五体を混沌に侵食されている二律僭主は最早動けない。
変わりに立体化したノアの影が突っ込んだ。
「食らえ」
獰猛に飛びかかった影は、大きく口を開けると、牙を立てて、その光に食らいついた。
ジジジジジジッと影の牙と混沌の光の間で激しい火花が散る。
暴れ狂うようなその混沌を、ノアの影は両手で押さえつけ、更に深く光に牙を食い込ませた。
バリ、ガリ、ギジジジジジジッと轟音を響かせながら、ノアの影は光を食らい始めた。影が光を飲み込めば、それは同じく影に変わり、体外に放出された。《融合転生》の力で融合しているのだ。
そうして、影は目についた光に片っ端から襲いかかり、食らって、食らって、貪り食らった。
徐々に影の範囲は拡大し始める。
ノアの影はその手を伸ばし、光につかみかかった。すると、今度は食らわずとも、つかんだ光は影に変わる。
だが、ノアの侵食もまた進んでいた。
体の殆どが光に変わってしまい、残ったのは頭部と、そして根源のみだ。その頭部もみるみる内に光に染まっていき、やがてノアは完全に体を失った。
そうして、その根源もが侵食され始めた。
『僭主っ……!』
ロンクルスが悲痛な声を上げる。
その言葉に、返事があった。
「間に合ったようだ」
見れば、その周囲一帯が完全に影に覆われていた。
ノアの体の光が反転するかのように、影に変わる。
そうして、影がふっと払われると、そこには元の姿の彼がいた。
『混沌と……融合を果たしたのですか……?』
「ああ。ついて来い、ロンクルス。私が道を作る」
ノアはそう言って、まっすぐ飛んでいく。
主の言葉に従い、ロンクルスは樹海船から出ると、彼の後を追った。
目の前には先程同様、混沌の光が立ちはだかるも、ノアは己の影でそれを染め上げていく。
「……近い……」
そうノアは言った。
「私を産んだ者がいる世界の秩序がこの辺りの混沌に溶けている」
「わかるのですか?」
「なんとなくだ。根源を混沌と融合させた影響かもしれぬ」
そう口にすると、ノアはその手を目の前の光に伸ばした。
混沌の銀河、その一部をノアはつかむ。
掌の中で、大切に、噛みしめるように、彼はそれを己の影へと変えたのだった。
ロンクルスが見守る中、しばらくノアは動かなかった。
混沌から情報を手に入れようとしているのか、それとも、手に入れた情報になにか思うところがあったのか。
ノアは自らの手の中の影を見つめながら、長い間じっとしていた。
どのぐらい経っただろうか。
「ないな……」
ノアは呟く。
「さすがに、混沌の中から見たいものだけを見ることはできないようだ」
そう口にした後、ノアはなにかに気がついたように振り向いた。
光が見える。
その向こう側に彼は魔眼を向けていた。
「……いかがなさいましたか?」
「ここはもう深淵世界のようだ」
ノアは手をかざし、目の前の光を払った。
すると、そこに赤い空と、同じく血に染まったような真っ赤な海があった。激しく波打つ海の中に見えるのは、赤い星々。それらが渦を巻いていた。
「願望世界ラーヴァシュネイク」
ノアの言葉に、ロンクルスが振り向く。
「先程の混沌の中に、この世界の名があった。あれは、この願望世界の《淵》のようだ」
海の中、真っ赤な星々が形成する大渦をノアは見た。
「私は二律僭主ノア」
誰かに話しかけるように、ノアは名乗った。
「卿の名は? この願望世界の住人か?」
そう彼は問い、返事を待った。
赤い海が激しく波打つ。
真っ赤な星々の大渦がけたたましい音を立てていた。
返事はない。
誰も姿を現すことはなかった。
「あの大渦の中にいるのですか?」
ロンクルスが聞いた。
しばし、考えた後、ノアは答えた。
「ああ。だが、もういい。ここに用はない」
彼は身を翻す。そうして、二人は願望世界ラーヴァシュネイクを後にした。
それから、三千年の時が流れた――




