別れの時
それから、しばらくノアはルナと過ごした。
あのキノコグラタンを食べて以来、ノアは味を感じるようになり、ルナは嬉しそうに様々な料理を作った。
ノアはこれまでの食事を取り返すように、ルナの作る料理を余さず平らげ、その度に、舌鼓を打つ。
その様子をルナは笑顔で見守る。穏やかで、楽しい時が続く。
朝、昼、夜、食事の度に、ルナと話をするのがノアの日課となっていた。
だが、それも長くは続かなかった。
「……え?」
キノコグラタンを食べていたルナが、驚いたように顔を上げた。
「今日、イーヴェゼイノを発つ」
「……どうして?」
身を乗り出すようにして、ルナが聞いてくる。
ノアは言った。
「最初に俺には名前がないと言ったな」
ルナはうなずく。
「あれは正確には嘘だ。親がつけたものではないが、生じた時に頭に浮かんだ名が存在する」
「そうなの? なんていうお名前?」
静かにノアは首を左右に振った。
「知らない方がいい。俺は人助けの旅をしている。俺の願いが見つかると思ったからだ。だが、秩序が救わない者を救ったことにより、様々な世界から目をつけられてしまった」
ノアの話に相づちを打ちながら、彼女は真剣に聞いてくれている。
「すでに長居をしてしまったが、これ以上ここにいれば、イーヴェゼイノに火の粉が飛ぶだろう。いらぬ戦火に、ルナを巻き込むことになるかもしれない」
「そんなこと、わたしは」
「そういうわけにはいかない。誰かが望まぬ戦いに巻き込まれるなら、俺が旅する意味もなくなる」
ノアがそう言えば、ルナもそれ以上否定することはできなかった。
「それに見つけたのだ。やるべきことを」
「なあに?」
「この銀水聖海で最も深く、深淵に位置する世界。エルミデの話では、そこには混沌があるという」
わからないといった風にルナは首を捻った。
「えーっと、どういうことかな?」
「銀水聖海では、すべての世界の秩序は浅きから深きへ流れていく。深淵世界には、ありとあらゆる世界の秩序が流れ込み、混沌と化すのだ」
「それはなんとなくわかるけど、影ちゃんがやりたいことと、なんの関係があるのかな?」
そうルナが問う。
「俺がどの世界の、誰の追憶から生じたのか。探そうにも、この海は広すぎる。なんの手がかりもないからな」
ノアは説明する。
「だが、最も深淵に位置する小世界には、全ての小世界の魔力や秩序が集まる。俺を生んだ者がいる世界がわかるはずだ」
「……お祖父様に、聞いたことがあるわ……深淵の底にある銀泡、深淵世界には万物を飲み込む渦、絶渦があって、近づこうとすれば跡形もなく滅びるって……」
「そうだ」
だからこそ、これまでノアはそこへ行こうとはしなかった。
「だが、行きたくなったのだ。俺は何者なのか。それがわかれば、味だけではなく、俺の欲求を、俺の望みを、もっと多く知ることができるかもしれない」
真剣な目をしたノアを、ルナもまた真っ直ぐ見つめ返して、
「……そっか」
納得したように、そう答えた。
「影ちゃんはやっぱり、強い子ね」
「そうか?」
「うん。あのね……わたしも嘘をついてたことがあるの……」
恐る恐るといった風に、ルナは打ち明けた。
ノアは問い質すでもなく、黙って彼女が話し始めるのを待つ。
「わたしの夢、話したでしょ」
「花嫁になって、子をもうけ、幸せに暮らすのだろう」
こくりとルナはうなずく。
「でも、でもね……本当はそれは、できないの……しちゃいけないことなの……」
「できない……? なぜだ?」
ノアが問う。
「……わたしの胎内は、懐胎の鳳凰という幻獣の力で《渇望の災淵》につながってるの。だから、わたしが生んだ子はアーツェノンの滅びの獅子として受肉する……」
ルナの言葉に悲しみと、やりきれなさが滲む。
「アーツェノンの滅びの獅子は、破壊衝動を持つ幻獣の王。銀水聖海を滅ぼす災厄と言われているの」
目を伏せ、涙を堪え、震える唇でルナは打ち空ける。
「そんな……誰にも祝福されない子を……わたしは産みたくない……だから……」
一筋の涙がこぼれ落ちる。彼女は言った。
「わたしの夢は、叶わないの……」
とめどなくこぼれ落ちそうになる涙を、ルナは両手で何度もぬぐい、くるりとノアに背を向けた。
「ご、ごめんね。こんなこと言っても仕方ないから、言わないつもりだったんだけど……影ちゃんは色々お話ししてくれたのに、隠してたらだめかなって思って……」
悲しみを押し殺しながら、ルナは懸命に笑顔を浮かべる。
「大丈夫。きっと、違う夢が見つかるから」
「諦めるのはまだ早い」
一瞬、ルナは口を開くことができなかった。
その夢は絶対に不可能なことと諦めたはずだった。だから、話すつもりはなかったのだ。
けれども、ノアと過ごす内に彼女の中で少しずつなにかが変わっていった。
深淵世界へ向かい、自らの宿命に立ち向かおうとする幼い彼を見ていたら、諦めたはずの夢を思い出した。
それだけではなく、彼は言うのだ。
「アーツェノンの滅びの獅子を切り離すことができるかもしれない」
「……どうやって?」
「ここに滞在する間に、災淵世界のことを調べた。アーツェノンの滅びの獅子を、滅ぼすための聖剣があるはずだ」
「霊神人剣エヴァンスマナのこと? でも、あれは……聖剣世界ハイフォリアの象徴よ。狩猟貴族たちは、イーヴェゼイノを憎んでるわ。協力はしてもらえないと思う……」
「可能性はある」
ノアは魔法陣から、ハインリエル勲章を取り出した。
「これは、かつて俺が救った狩猟貴族ジェインから譲り受けたものだ。これを持って、レブラハルド男爵を訪ねるといい。必ず力になってくれるだろう」
差し出されたハインリエル勲章を見た後、再びルナはノアに視線を移した。
「……わたしが、もらっていいの?」
「ルナのおかげで、俺はキノコグラタンの美味さを知った」
ノアが本心から言っているのがわかったのだろう。ルナは嬉しそうに微笑んだ。
「深淵世界に行くことを決めたのも、それがきっかけだ。あのキノコグラタンを食べた時に、俺は初めてこの世界に生を受けたのだ」
まっすぐルナを見つめながら、彼は言う。
「ルナは恩人だ。ありがとう」
大きく開かれた瞳に、涙が滲む。
彼女はそれを拭いながら、ノアの背中に手を伸ばす。
「……あなたが……」
ぎゅっとノアを抱きしめて、ルナは言った。
「あなたが、わたしの子どもだったらよかったのに……」
「そのようなものだ」
ルナの胸の中で、ノアは言う。
「俺は親を知らぬ。もしも、母がいたら、このように愛をくれたのだろう」
「寂しいね」
「ああ」
ルナの言葉に、ノアははっきりと同意を示す。
「いつか、また会おう。互いの目的を果たした後に」
「絶対、約束だからね」
ノアはうなずき、そして言った。
「決して違えぬ」
ゆっくりと、名残惜しそうに、ルナは手を放した。
「最後に頼みがある」
「なあに」
「キノコグラタンを作ってくれ」
ノアがそう口にすると、彼女は満面の笑みを浮かべて、うなずいた。
「沢山、作るね。深淵世界に持って行けるくらいに」
ルナはいそいそとキノコグラタンの下準備に取りかかる。
ノアはそれを手伝い、終始、笑顔でとりとめもない話しをした。それが、ルナとノアが過ごした最後の時間となったのだった。