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体の記憶


 それは一七〇〇〇年前。その体の中に、残されていた記憶だった。


 樹海船アイオネイリアは銀水聖海を飛んでいた。


 乗っているのは幼い少年、二律僭主ノア。そして、彼の執事であるロンクルスだ。


 彼らは無神大陸を築いた後、そこを拠点にしながらも方々へ旅をしていた。


「ノア様。前方に銀泡を発見しました」


「なんという世界だ?」


「申し訳ございません。この浅い海域にまで来るのは初めてのこと。調べがついておりません」


「そうか」


 ノアはぼんやりと目の前の銀泡を見つめた。


「あそこに私の望みがあると思うか?」


 傍らに立つ執事に、ノアは問うた。


「わかりません」


 ロンクルスは答えた。


 ノアは己の望みを探している。


《廃淵の落とし子》である彼はなんの欲求も持たず、なんの願いも持たない。生きる目的がなかったのだ。


 それでも融合世界において秩序に囚われていたロンクルスを救った。


 他者を救うことこそが、ノアの望みにつながるのではないか。ロンクルスがそう提案し、旅を続けている。


 そのため、いくつもの小世界を訪れた。幾人か救えた者もいる。しかし、ノアの望みについては未だなんの手がかりも得られていない。


「私を滑稽だと思うか?」


 その問いを受け、ロンクルスは主を振り向いた。


「《廃淵の落とし子》は誰かの追憶より生まれる。元々、この身はまともな生命ではない。なにが欠けていたところで、不自然ではないだろう」


 ノアは言った。


「私は秩序のようなもので、生きてなどいないのかもしれない」


「いいえ……いいえ、ノア様」


 ロンクルスは即座に否定した。


「もしも、あなたが、生の実感を知らないのであれば……それはまだ生まれていないだけでございます」


 ノアは不思議そうにロンクルスを見返した。


「ここに、こうしているのにか?」


「なんの不思議がございましょう? ノア様は秩序に従わない唯一の御方。この銀海に吹く自由なる風にございます」


 ノアはすぐに口を開かなかった。


 噛みしめるように、ロンクルスの言葉を反芻し、それから独り言のように呟いたのだ。


「……風か」


 ロンクルスは跪いている。


 じっと黙って、主の次の言葉を待っていた。


「では、あの銀泡に風を吹かせるとしよう」


「はい」


 樹海船アイオネイリアは速度を上げ、銀泡の中へ入っていく。


 黒穹を通り過ぎれば、そこは土砂降りの雨が降り注ぐ空だった。


「ぐっ……う……」


 突然、ロンクルスが膝をついた。


 荒い呼吸を繰り返し、額から汗を垂らしている。


「どうした……?」


「……ご安心を……少々、(ゆう)(ごう)(びよう)に当たっただけでございます……」


「それはなんだ?」


「人が呼吸をするように、わたくしたち融魔族は、常に周囲にあるものを取り込み、融合いたします」


 左胸を押さえながら、ロンクルスは説明する。


「どうやら、この世界の雨は融魔族と相性が悪いようでございます。簡単に申し上げれば、毒のようなものかと」


「引き返すか?」


「いいえ。それには及びません」


 ロンクルスは頭上を見上げる。そこには樹海船の上を飛んでいく鷹の姿があった。


 彼が魔法陣を描けば、鷹が引き寄せられ、その手に捕まえられた。


「《融合転生(ラドピリカ)》」


 ロンクルスの根源が、鷹の中に入っていき、融合を果たす。その鷹は翼を大きく広げると、ふわりと飛び上がり、ノアの肩の上にとまった。


「この世界の鷹ならば、雨に対しても耐性が得られるでしょう。しばらくこの姿で過ごせば、元の姿に戻ったときも、毒性を無効化できます」


「そうか」


 ノアは樹海船をゆっくりと降下させ、荒れ地に着陸させた。


 彼は樹海の外に出て、その世界を歩いていく。


 いつまで経っても雨は止む気配がなく、暴風が木々を薙ぎ倒していく。時折地震が起きて、大地が真っ二つに避ける光景を何度も目にした。


「変わった世界だ。泡沫世界ではないのに、荒れている」


「それがこの世界の秩序なのでございましょう。この地に生きる住人にとっては、この荒れた状態こそが安定しているのでございます」


 ノアの顔ぐらいの高さで飛びながら、ロンクルスが説明した。


「この辺りは人がいないようでございます。街を探してきましょうか?」


「ああ」


「少々お待ちください」


 ロンクルスは東の空へ飛び去っていった。


 鷹の姿のため、本来の速度は出さないだろうが、それでも彼の力ならばすぐに街を見つけて戻ってくるだろう。


 ノアは雨が降り続ける世界を眺めながら、あてもなく歩いていく。


 チャプ、チャプッと水たまりになにかが跳ねる音が聞こえた。


 それは断続的に響いており、音の間隔はどんどん短くなっていく。


 チャプ、チャプッ、チャポンッと弾むように音が鳴る。それはまるで楽しげにダンスを踊っているかのようだった。


 絶え間なく聞こえる音に誘われるように、ノアは歩いていく。


 心なしか、先程よりも足取りが軽くなったような気がしていた。


 そうして、彼の目の前に広い水溜まりが姿を現した。


 チャプ、チャプッ、チャポンッと水音を鳴らしながら、水溜まりの上で踊っている少女がいた。


 ワンピースを着ており、髪はショートカット、弾けんばかりの笑顔で、土砂降りの雨を楽しんでいた。


 この世界がそれを祝福しているのか、雨が降る中、日の光が降り注ぎ、彼女を照らしている。


 少女は一人だが、まるで見えない相手がそこにいるかのように踊っている。


 まだ会ったこともない誰か。


 これから出会うであろう誰か。


 そんな運命の相手に、恋をしているのだろうということが、ノアにも朧気ながらわかったような気がした。


 生きる活力に満ちている少女が、自らとは正反対なように思え、彼は視線を反らせないでいた。


 すると、ふいにその少女がノアに気がついた。


 彼女は驚いたような顔をした後、ぱっと輝くような笑顔を見せて、ノアのところまで走ってきた。


「こんにちは!」


 元気よく少女は挨拶をする。


「……ああ」


 いきなり話しかけられるとは思っていなかったノアは、驚きながらもそう返事をした。


「わたしはルナ。ルナ・アーツェノン。あなたのお名前は?」


「名前はない」


 ノアは即答した。


 二律僭主は秩序に従わぬ不可侵領海。彼と関わったと知られれば、その者は不利益を被る恐れがある。ゆえに、彼は大抵の場合において名乗らなかった。


「お名前がないの? どうして? お父様かお母様は?」


「私に親はいない。名付けた者もいない」


 淡々とノアはそう説明した。


「そうなの? じゃ、幻獣みたいに生まれたの?」


 興味津々にルナは聞いてきた。


 ノアが別の世界の者だというのはわかっているようだ。


「幻獣というのは知らない」


「あのね。あっちに多くてふかーい水溜まりがあるの」


 ルナが指した方向を、ノアは魔眼で見つめた。


「それが《(かつ)(ぼう)災淵(さいえん)》。《渇望の災淵》には銀水聖海のあらゆる渇望が引き寄せられる。その渇望から生まれるのが幻獣なの。あなたと違って、実体はないんだけどね」


「似たようなものだ。私は追憶から生まれた《廃淵の落とし子》。ゆえに名前も親もない」


「そっか。じゃ、寂しいね」


 ノアの前でしゃがみ込み、ルナは彼の頭を撫でた。


「寂しくはない」


「そうなの? 強い子なんだ」


「強いわけでもない」


 言っている意味がわからなかったか、不思議そうにルナは首をかしげた。


「寂しさとは誰かとともにありたいという欲求から生じるものだ。私には欲求がない。だから、強いわけではない」


「そうなの? そんなことあるのかなぁ?」


 うーん、とルナは頭を悩ませている。


「あなたはどこから来たの?」


「銀水世界リステリアだ。この世界はなんという?」


「ここはね、災淵世界イーヴェゼイノ。そうだ! お腹空かない? せっかく来たんだから、災淵世界のお料理を作ってあげるね!」


 返事をするより早く、ルナはノアの腕をつかみ、走り出した。 


 仕方がなくノアは彼女の後について言った。


 ルナが森の方へ入ろうとすると、一匹の鷹が飛んできて、ノアの肩にとまった。


「あれ? お友達?」


「ロンクルスだ」


「よろしく、ロンクルスちゃん」


 にっこりとルナは笑う。


 警戒しているのか、ロンクルスは返事をしなかった。ただの鷹を演じているようだ。


「どこに行く?」


「近くに、お料理ができる小屋があるの。森には良い食材が沢山手に入るから、作って貰ったの」


 ルナの説明を聞きながら歩いていると、その小屋が目の前に見えてきた。


 彼女はドアを開け、中に入る。


 椅子とテーブル、それから調理場があった。


「ご飯作るから、ちょっと待ってて。あ、そうだ。ロンクルスちゃんはなにを食べるのかな?」


 じーっとルナは鷹に視線を合わせる。


 まるで喋れることがわかっているかのようだった。


「なんでも食べられる」


 ノアはそう答えた。


「オッケー」


 笑顔で言って、ルナは包丁とまな板を取り出す。


 食料庫から様々な野菜、肉や魚を持ってくると、手早く調理を始めた。


 たちまち、室内には香ばしい匂いが漂い始めた。


 ノアには無論、嗅覚がある。だが、それを美味しそうな匂いだと感じることはできない。


 ただなんの食材で作られた料理なのかがわかるだけだった。


「はい。どうぞ。召し上がれ!」


 テーブルに並べられたのは、イーヴェゼイノで人気のある料理の数々だ。


 (あめ)(ぶた)の果実ソース焼き。


 翼竜の卵オムレツ。


 (いわ)(がめ)の岩塩スープ。


 水溜まり野草のサラダ。


 ノアはナイフとフォークを使い、静かにそれを食しつつ、ロンクルスにも分け与えていた。


 自らも料理を食べながら、その様子を楽しげに見ていたルナは、ふと気がついたように言った。


「あの……お口に合わないかな?」


「いや」


 ノアは正直に言った。


「私は味を感じないのだ」


「え……?」


 ルナは目を丸くする。


「ご病気なの?」


「舌は正常のようだ。料理の食材を当てることはできる。だが、美味いというのがわからない。それがわからなければ、味を感じるとは言えないのだろう?」


 そう問われ、ルナは返事に戸惑った。


 肯定するのが、ノアに申し訳なく思ったのだろう。


「気にかけることはない。先程言った通り、私は《廃淵の落とし子》だ。そのため、普通に生きている者とは違う。それだけのことだ」


 当たり前のようにノアが言うと、ルナははらりと涙をこぼした。


「あ……」


 慌ててそれを手で拭って、ルナはノアを元気づけるように満面の笑みを作ってみせた。


「あのね、わたし、頑張ってみようかな」


「……頑張るとは?」


 理解が追いつかないといった風に、ノアは聞いた。


「《廃淵の落とし子》でも、美味しいって感じる料理を作ってみる!」


 突拍子もないことを言われ、ノアは一瞬言葉を返すことができなかった。


 見慣れぬ主の姿を、ロンクルスは興味深そうに見つめている。


「いや……料理が悪いわけではない。そういうことではなく、なにを食べても同じなのだ」


「大丈夫!」


 ノアの話をまったく聞いていないかのように、ルナは彼の手を握って力強く言った。


「わたし、花嫁修業をしてるの。将来、子どもができるでしょ。それでね、好き嫌いがない子に育てたいの! だから、料理が上手くならなきゃ!」


「…………」


 呆気にとられたようにノアは彼女を見返した。


「……しかし、そういうことではないのだが……?」


「大丈夫! わたしに任せておけば大丈夫だから。ね!」


 満面の笑みでルナは言う。


 その強引さが、不思議と心地よかったのか、ノアはほんの僅かに笑みを覗かせた。


「わかった」


「ありがとう!」


 かくして、二律僭主とルナの奇妙な生活が始まった。



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― 新着の感想 ―
[良い点] さすがアノスの母親…強い
[一言] まさかこういう接点あったのか……
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